2024年2月4日日曜日

礼拝メッセージ「生き方がかわる」

 2024年2月4日(日)顕現後第5主日 岡村博雅

イザヤ書:40章21〜31 

コリントの信徒への手紙一:9章16〜23 

マルコによる福音書:1章29〜39

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆様方にありますように。アーメン 

 いまお読みしました主イエスの言葉「ほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである」という言葉から「宣教しよう」という主イエスの意気込みが伝わってきます。今日私たちは新しい1年にむけて、教会総会をもちます。宣教することの恵みに私たちが気づき、受け入れ、聖霊の助けをいただきながら、喜んでそれを生きる者としてくださいと祈ります。

 今日の教会総会に向けて、この11年の歩みを振り返りました。ボーマン宣教師がこの湯河原の地でイエス様の宣教を引き継いでから今年は69年目です。来年は70年の節目を迎えるんですね。その中の11年間を私もバトンを受け継ぎ、走らせていただけたことは本当に光栄なことでした。

 4月からは富島先生が来られてバトンを引き継いでくださいますが、主にあって敬愛する湯河原教会の兄弟姉妹の皆様と共に宣教と牧会に奉仕できましたことを心から嬉しく思っています。この11年間、特に私が思いを傾けてきたのは主日礼拝の説教と教会に来ることのできない方々や教会を離れておられる方々の問安でした。

 総会資料の牧師報告に数的なまとめを報告させていただきましたが、主が私のような未熟な者を召してくださり、破格の恵みを味わわせてくださったことを思い、感謝します。それは皆様がそれぞれ本当によく宣教し、互いの交わりを大切にしてきた結果であると思います。この11年の働きにおける恵みは、皆様が祈り、様々に助け、また補うことによって支えてくださった賜物と、感謝しております。

 私は今日のイザヤ書の言葉の真実さに打たれます。29節、神は「疲れた者に力を与え/勢いのない者に強さを加えられる」。この御言葉を実感しますし、本当に励まされます。31節には、「宣教しよう」とおっしゃる主イエスを感じます。もちろん人間としての体の疲れを持ちながら、しかし魂の姿としては力強い主イエスそのものを感じます。「主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない」。まさにこの主イエスが共にいてくださるのだと感じます。

 私たち湯河原教会の仲間は個性豊かで、考えも、思いもいろいろです。ですから画一的ではなく、多様性を大切にしながら、ともに主の福音にあずかる家族として、個人の思いはあっても、みんなで一致することによって、主キリストの体として育てられてゆくことを願ってきています。この11年間を振り返るとそんな恵みの日々であったと感謝に満たされます。

 さて福音書から聞いてまいりましょう。先週と今週の箇所は同じ一日の連続した出来事です。会堂で主イエスが悪霊払いをしたのを見て、人々は「イエス様、実はシモンのしゅうとめが熱を出して寝込んでいます」と告げた。この当時の人々は「悪霊」が病気をも引き起こすと考えましたから、シモンのしゅうとめに取り憑いた悪霊(熱病)も追い出してもらおうと期待したのでしょう。

 主の一行はすぐに、シモンとアンデレの家に向かった。主イエスが彼女の「手を取って起こされると」熱が引いた。主イエスは病気の人に触れて、その人をいやしました。私の父は内科医でした。子供の頃、具合が悪くなったときなど「どれ、見せてごらん」とシャツをめくって触診をする。父が体に触れてくれたときのなんともいえない安堵感を思い出しました。主イエスに優しく触れられることは、病人にとってきっと大きな励ましであり安心だったに違いありません。

 31節、彼女は回復して、すぐに「一同に仕えた」とあります。彼女は主イエスの一行を「もてなした」のですね。この「仕える」という言葉は、主イエスご自身の生き方を表す言葉です。また弟子たちの生き方を指し示す言葉です。マルコ10章43-45節にこうあります。

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 つまり、「もてなす人=仕える人」となったシモンのしゅうとめは、主イエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていった。マルコは、主イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わると伝えているのです。皆さんも人や本との出会い、また出来事を通じて、主イエスに出会い、「主による癒やし」を受けた、そういう個人的な体験があるはずです。

 34節には、主イエスは「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊がイエスを知っていたからである」とあります。ここにも注目します。先週読んだ1章24節では汚れた霊に取り憑かれた人が主イエスに向かって「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言いました。なぜ、悪霊は主イエスの正体を知っていたのか。それは「人間の力を超えた霊的な力によって」と言うしかありませんが、重要なのは、悪霊はイエスが誰であるかを知っていてもイエスとの関わりを拒否するということです。悪霊にとってイエスを理解していることはなんの役にも立たないからです。

 このことは私たちにも問われることかもしれません。私たちも学びによって、聖書がイエスは「神の子、キリスト」であると証していることを知っています。しかし、ただ単に知識として知っていてもそれだけでは何の役にも立ちません。問われているのは、私たちが、そのイエス・キリストという方とどのような関わりを持っているかです。

 34節の「悪霊がものを言う」というのは「悪霊が力をふるう」ことを意味しています。主イエスはそれを許さなかった。主イエスは「悪霊が思うままに力をふるう」ことを許しません。

 マルコ福音書によれば、主イエスの活動は「宣教し、悪霊を追い出す(=病人をいやす)」というものでした。「宣教する」というのは、「告げる、のべ伝える」ということです。何をのべ伝えるかといえば、1章14-15節にある「神の福音」につきます。すなわち「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。主イエスが告げたのは「神の国の到来」でした。主イエスの周りに集まった人々は、悪霊に取りつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのを見て、確かにここに「神の国」が始まっていると感じたにちがいありません。それは信仰によって伝えられ、その気づきは私たちにも続いています。

 主イエスは宣教といやしのために、私たちが互いに愛しあい、信頼しあうためにこの世にこられました。主イエスの神の国は決してセンセーショナルなものではありませんが、確かに、今、主イエスは共におられます。心を澄まして祈るとき、主はきっとその恵みに気づかせてくださいます。

 最後になりますが、35節の主イエスの祈りに目を向けましょう。それはどのようなものだったでしょうか。主イエスは何を祈っていたでしょうか。マルコは祈りの内容を伝えませんが、祈りの後で主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう」と弟子たちに呼びかけます。

 これは主イエスが祈りの中で受け取った「神の望み」だったのではないでしょうか。人間的な見方をすれば、主イエスの活動はカファルナウムで成功しています。悪霊の力は打ち破られ、病人は立ち上がり、主イエスは多くの人からの賞賛を受けています。

 主が出かけて行かなくても、そこを拠点として、人々の方が悪霊払いをしてもらおう、病気を治してもらおうとやって来ることに何の問題もなかったでしょう。しかし、主イエスは出かけて行きます。祈りの中で、人間の思いとは違う「神の望み」を見いだしたからです。

 神が一般的に何を望んでおられるかということは十戒やその他の聖書箇所に書いてあります。しかし、今、この状況の中で、この私に神が何を望んでおられるかということは聖書に書いてありません。それは一人一人が祈りの中で、沈黙のうちに語りかける神の言葉として受け取るしかないものです。私たちも御言葉の光に照らされながら、神に祈り、主イエスへの祈りを続けていくとき、きっと示しが与えられ、生き方が変えられていきます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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