2024年2月25日日曜日

礼拝メッセージ「自分の十字架を背負って」

 2024年02月25日(日)四旬節第2主日 創世記:17章1〜7、15〜16 

ローマの信徒への手紙:4章13〜25 

マルコによる福音書:8章31〜38

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の3つの聖書箇所に共通しているのはなんでしょうか。それは「まことの信仰のはじまりについて語っている」ということではないかと気づきました。

 今日の3つの聖書箇所を黙想するなかで、創世記17章1節の「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた」という言葉にはっとしました。そうだ、神と人類には「始まり」というものがあったのだと気づいたからです。人類の救いにとっての第1の始まりはアブラハムとサラ、そして第2の救いの始まりは、神からイスラエルの民に与えられた律法。そして第3の救いの始まりはすべての人を救う主イエスの死と復活です。

 今日の日課はこの神からの救いの歴史がどのように実現してきたかということでつながっていると思えました。今日は私たちにとっての決定的な救いである主イエスによる救いについてご一緒に思い巡らし、また味わって行ければと願います。

 第一朗読に「アブラムが九十九歳になったとき」とあります。この当時の年齢の数え方は今とは違うでしょうが、それにしてもアブラハムはきっとかなりの壮年であり、妻のサラもとうに妊娠はできない年齢だったことを聖書は語っています。人生の酸いも甘いも噛み分けて、喜びも悲しみも知り尽くしている円熟した老年のアブラハムに神は前触れなく現れ、ご自分を明かしました。

 神はアブラハムとその子々孫々に、あなたがたの神となるという契約を結ばれた。まったく一方的に神がイニシアチブをとってアブラハムに指示し、宣言なさいました。アブラハムはひたすらひれ伏します。まさに神がこの宇宙世界を造られた時のように、神はアブラハムの神となり、繁栄させるという契約を宣言された。アブラハムはその神を信じました。こうして神はアブラハムに、彼の子孫が、いつの日にか地上の全家族とともに平和な生活を営む日が来ることを約束したのです。

 そしてこのアブラハム契約から800年ぐらい後に神はイスラエルの民にモーセを通じて律法を与えます。それは第2の始まりです。律法による義の始まり、律法を守ることによって神の前に正しく生き、幸せになるという救いの始まりです。

 パウロは第2朗読のローマ書において、このアブラハムとその子孫に与えられた契約は律法遵守ではなく、「信仰によって実現される約束である」と説きます。イスラエルの民は律法をきっちり守ることによって神から義と認められようとして、およそ1300年に渡って律法による生活を続けようとしました。主イエスの宣教なさった時代も、この律法に従うことによって救われようとする、そういう時代だっだわけです。しかしパウロは、アブラハムとその子孫への約束は信仰による義に基づいてなされたものであり、律法に基づいてのものではないと断言します。なぜならば、人は律法を守りきれず、神の怒りを招いてしまうだけだからです。彼はアブラハムのように愛の神を信ずる一途な信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となると宣言します。

 パウロはアブラハム夫妻は肉体的にはとうてい不可能な年齢であったのに、約束の男子を与えられた。それはアブラハムが神を信じて、信仰を強められ、神を賛美し、不信仰に陥らず、神を疑わなかったからだと、その秘密を証します。

 そして、主イエス・キリストを死者の中から復活させた神を信じれば、私たちも神から義と認められる。すべての罪を赦され、神の子として受け入れられる。救われて永遠の命を受けると言うのです。

 さて福音書に入ります。神がもともとアブラハムに約束されたすべての人を救う救い、第3の救いは、主イエス・キリストの死と復活を信じることによってあずかることが出来ます。そのことを今日の箇所から見ていきましょう。

 今日の福音書箇所は、主イエスの宣教活動が大きなターニングポイントを迎えた時期のエピソードです。これまでガリラヤ地方を中心に宣教活動をしてきた主イエスは、いよいよエルサレムへと向かいます。私は、すべての人を救うという救いの始まりは、主が十字架と復活へと向かうところか始まったと考えます。

 ここで主はまず27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねます。人々の反応は様々でした。最初、人々の間では3:21「あの男は気が変になっている」とか3:22「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などでした。しかし、やがて主の奇跡と教えが圧倒的な力で人々を引きつけるようになると、それは、6:15「預言者の一人ではないか」と尊敬を込めたものに変わっていきます。

 しかし、そうした答えは、主イエスから見れば不十分です。そこで主は弟子たちに尋ねます。彼らは主イエスの説教を身近に聞き、奇跡を目の当たりにしていますから、一般の人々よりもずっと深く、また正しく主イエスの神秘を理解できたはずです。

 彼らはまず人々の評判を伝えますが、主イエスは「あなた方は、どう思うか」と彼ら自身の判断を求めます。そこでペトロが「あなたは、メシアです」と答えますと、主は、ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。つまり、主イエスはペトロの答えを肯定されなかったということです。

 そしてペトロの言葉の直後に、ご自分が受ける苦しみについて教え始められました。弟子たちは主から教えられる必要がありました。「苦しみを受け・・・排斥されて殺され、そして復活する」と苦しみを強調するのは、それこそが主イエスがメシアとしての本領をはっきするところだからです。苦しみにおいてこそ、どんな人々をも救うというメシアの本領が発揮される。それが真実だからです。

 苦しむメシアなんて、ペトロには受け入れ難いことでした。ですから、彼は主イエスをいさめます。主イエスはそんなペトロを悪の誘惑そのものだと「サタン」呼ばわりします。

 当時のユダヤの人々にとってのメシアとは、その人がいかに人々を思いのままに操り導く力を持っているかでありました。いわゆるカリスマ性です。ですから、ペトロにして見れば、病人をいやし、悪霊を追い出し、数々の奇跡を行って群衆を引きつけるイエスは、メシアその人であったことでしょう。しかしそれは大きな誤りです。

 主イエスの力は、そして神の力は、強さではなく、愛に支えられた「弱さ」にあります。

 この弱さこそ、十字架です。しかし、同時に十字架は強いのです。ペトロを叱った主はこのあと、私たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」とおっしゃいます。

 私たちは「自分の十字架を担って主に従う」ということをどのようなことだとイメージするでしょうか?ときに、特別なことだと思わないでしょうか?大変苦しいもの、好ましくないことというふうに思うのではないでしょうか?

 たしかに、一生に一度、命をかけた十字架というのもあります。塩狩峠でブレーキの効かなくなった列車を自らの体を犠牲にして止めた鉄道職員永野信夫さん。そして、9,11テロの時に人々を救出するために最後までツインタワーに残って死んだ消防隊員、こういう人たちの十字架もあります。

 またこうした殉教者のような十字架ばかりではなく、もう少し、手の届きそうな十字架を担うこともあります。たとえば、アメリカ滞在での経験ですが、教会の友人でボルボの中古車を安く買って、必要な部品を取り寄せ、自分で修理して、暮らしの豊かでない人に使ってもらう、そういうことをしている人がいました。それも何台もです。代金なしです。彼は、笑顔で「This is my mission.」「これが僕の任務だよ」とにこやかに言います。今考えると、彼は彼のできることで十字架を担って主のあとに従っていたのだと気が付きます。

 そして、今日、私たちの日々の生活そのものにも十字架があると思うのです。失敗して自分の弱さにがっかりしてしまうようなことがあっても、その弱さに踏み留まる。捨て鉢にならず、自己否定に陥らず、弱い自分からまた始めてゆく。それは静かですが、たくましい生き方です。聖霊に助けられての生き方です。

 私たちが自分の十字架を担いながら主に従う時、それは霊的な挑戦となります。それは苦しみとは全く別の意味を持ちます。主との共同作業の喜びを私たちは味わうことができます。

 それは、主の求めておられるまことの信仰の始まりです。

 四旬節の第2週、私たちもなにか身近なことで信仰のチャレンジをしてみませんか?

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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