2024年1月14日日曜日

礼拝メッセージ「心の目で見る」

 2024年01月14日(日)顕現後第2主日 「心の目で見る」

サムエル記上:3章1〜10 

コリントの信徒への手紙一:6章12〜20 

ヨハネによる福音書:1章43〜51

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日は主イエスから声をかけられたフィリポとナタナエルが、主の弟子として従う箇所から聞いて行きたいと願います。今読んでいただいて気がつかれたとおもいますが、主イエスは、フィリポに出会った途端に「わたしに従いなさい」と告げます。それはいかにも唐突なことです。公な業として、まだ奇跡も説教も行っていない主イエスは、フィリポにとっては無名な存在であったはずです。うわべから見るイエスはナザレ出身のごく普通の若者にすぎません。しかし、そんなイエスの存在の奥に、神の神秘が隠れています。

 まずフィリポですが、彼はガリラヤ湖畔のベトサイダの人で、アンデレやペトロと同じ町の出身(1:44)でした。おそらくフィリポはアンデレやペトロをよく知っていたでしょう。フィリポも主イエスに従って12弟子の一人となります。しかし、ヨハネの関心はこのフィリポよりもこの後に出てくるもう一人の使徒となるべき人物に向けられます。

その人の名はナタナエルです。彼はガリラヤのカナの出身であるとされています。今日の福音の直後には「カナの結婚式で水をぶどう酒に変える」という奇跡物語が続きますが、イエスは間もなくガリラヤ地方のカナで最初のしるしを行い、そのキリスト的栄光を表そうとしておられました。その栄光の一端が、今、ここで、ナタナエルにも示されます。

ナタナエルに出会ったフィリポはこう言います。45節、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

それを聞いたナタナエルは、フィリポのその証言に大変な関心を持ちました。なぜなら、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」というのは、イスラエルの救い主、メシアにほかならないからです。けれども、そのメシアが「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」と聞いて、彼は、たちまちガッカリして偏見の虜となりました。これは私たちもよく陥る過ちですね。

 そして、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46)と疑うのです。これは、当然といえば当然のことで、これまでガリラヤからは狂信的な、偽メシアしか出てこなかったとう事実があったようです。フィリポは、偏見の虜になったナタナエルに、主イエスが最初の二人の弟子たちに言ったように「(あなたも)来て、(イエスを)見なさい」と告げます。偏見を打ち破るには証拠を見せるのが一番だからです。

 ナタナエルが一時は偏見に陥ったものの、フィリポの言葉を聞いて主イエスのもとに来たのは、彼が神の前に謙遜に生きようとする人物である証拠でした。そのような者こそ、「本当のイスラエル人」、まことの信仰者だと主はおっしゃっていますね。詩編32編2節にも「いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」と歌われているとおりです。ナタナエルはそんな人物だったのでしょう。

主イエスは優れた霊的洞察力によって、ナタナエルのうちに神の民としての純粋な誇りと期待があることを見抜かれました。そして「この人には偽りがない。」と告げました。

主の神秘的な力に触れたナタナエルは驚きを込めて「どうして私をご存知なのですか」と聞くのです。彼はフィリポの誘いに従って「来て」そして見たのです。それは彼にとって大きな信仰的冒険でした。そして彼は自分が見聞きしたことから深く心を動かされることになります。それは主イエスが、「ナタナエルがいちじくの木の下にいる」ことを言い当てたことです。

実に神秘的なことですが、これは主がいちじくの木の下にいるナタナエルを「見て」、その心の願いを知っておられたと考えられます。それは神の英知によることです。ナタナエルは一切の偏見を取り除かれ「先生、あなたは神の子です。イスラエルの王です」(49)と告白します。

 しかし、まだ彼の告白は十分とは言えず、彼の理解が不足していることがわかります。なぜなら主イエスの支配は地上の王たちのものとは違い、主はイスラエルだけの王ではなかったからです。彼はまだキリストが全世界の王として神から立てられていることを知りません。つまり、全世界が神の国となるはずであることをまだ知りません。

ナタナエルの告白は、真実な告白でしたが、まだ真理そのものとは言えませんでした。そこで、主イエスはナタナエルの信仰にさらに一歩踏み込んでおっしゃいます。50節-51節、「イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」この言葉にもなんだか唐突な印象を受けませんか。

主イエスはここで創世記28章12節の言葉を引用されました。それはおそらくナタナエルがいちじくの木の下にいた時、彼はこの箇所を黙想していたからです。かつてイスラエルの父祖ヤコブがベテルの地で夢を見た故事です。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。この箇所をナタナエルは黙想していたことを、主がご存知であったに違いないということが想像できます。

 ヤコブといえばアブラハム、イサク、と並んでイスラエルの偉大な先祖の一人です。ヤコブの階段(はしご)の話は皆さんご存知でしょう。双子の兄のエサウをだまして長子の権利を奪い取ったヤコブは、エサウの恨みを買い、命からがらハランにいる伯父ラバンのもとに逃れていきます。優しい父母のもとを去り、懐かしい故郷を離れて兄から命を狙われ、逃げる旅です。ヤコブには当然といえば当然の報いです。間もなくハランへさしかかろうとするところで日が暮れて、野宿することになります。家も寝床もなく、野原にあった石を枕にして眠るヤコブがその夜見た夢。それが、この天から地へと届く階段の夢でした。しかも、その階段を天使たちが上り下りしている。

 自分のやってしまったことの結果に恐れながら、不安な一夜を過ごしたヤコブが、なんと神の恵みが、今、ここにあることを知ります。自分は神から見捨てられていない!ここに天と地をつなぐ階段がかけられているではないか!この場所は天と地の出会っているところ、天の門だ!と気が付きます。ヤコブのこの畏れと、おののき、そして感動と喜びはどのように表現したらいいでしょう。ヤコブは枕にしていた石を立てて、生涯忘れることのできない恵みの出来事として、その場所をベテル(神の家)と名付けて記念しました。

 ナタナエルの主イエスに対する信仰が十分なものとなるためには、受肉した神の言葉であるイエスにおいて、天と地が出会っているところが必要でした。それがこのヤコブの夢に見た「階段」です。

私たちにも天に届く「ヤコブの階段」、いや、「イエスの階段」が必要ですね。時として、四面楚歌の中の私だったり、失敗の末のこんな情けない私だったりしますが、たとえそうであっても、神の恵みは私を離れないというこの確信、それは本当にありがたい確信です。そして、「天と地」、「神とわたしをつないでくれる架け橋」があるという信仰は涙の出るくらい嬉しいことです。

 天の栄光が地に降って人々の目に見えるものになった。これが主イエスです。この主イエスと出会うことによって、地上の私たちは天にまで上げられるのです。ナタナエルは、このヤコブの階段の話を通して、主イエスこそ天と地の間に立てられた「まことの架け橋」であることを知らされました。

神の子であって、人の子。100%神であって、100%人である方は、主イエスをおいてほかにありません。まさに天と地のつながり合うところに主イエスはおられます。主イエスこそが天の父と私たちをつなぐ「階段」、「架け橋」、「道」、です。

この主イエスとの断ち切れることのない交わりに生きたいと心底から願います。御言葉に聞き、祈り、隣人との交わりに生きる。まさに、神の神秘である主イエスによって、私たちは天に迎えられます。永遠の命に生きる者とされます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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