2024年3月4日月曜日

拝む前にすべきこと

 2024年3月3日 四旬節第3主日 小田原教会 

江藤直純牧師

出エジプト20:1-17;Ⅰコリント1:18-25;ヨハネ福音書2:3-22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 宗教とは何かーーいざ正面切ってこう問われたら、あなたはどうなさいますか。なにかしらの宗教を持っている人も自分は無宗教だと思っている人も、宗教とは何かと即座に簡潔に答えるのはおそらく容易ではないでしょう。学者なら一つの論文、一冊の書物が書けるかもしれません。そういう議論や研究はさておき、ほとんどどの宗教にも共通して見られる要素の一つに、人はそこで拝むという行為をするということがあります。私たちは体で表現する行為としてだけでなく、心の行為或いは姿勢として拝むということをするのです。拝む、自分より、人間よりも優れた存在に尊崇の念を抱き、自ずと頭を下げ、そればかりでなく背を曲げ、腰をかがめ、時に跪くことさえあります。五体投地という全身を地面に投げ出すこともあるのです。拝むこと、これは宗教と切っても切り離せない行為の一つです。

 日本人ならだれもがお馴染みの神社仏閣へのお詣りの際に、そのやり方には二礼二拍手一礼もあれば、型にはまらずにただお辞儀をするだけの場合もあるでしょうが、とにかく拝みます。イスラム教の信者は一日に五回礼拝の時を持ちます。インドネシアに行ったとき、朝の5時でしたか突然近くのモスクの塔の上のスピーカーからコーランの朗読が聞こえてきて驚きましたが、人々はそれを聞きながらそこで跪いて拝みます。ある時国際線の飛行機に乗っていたら、一人の人が機内の一番後ろのちょっとスペースがあるところに小さなカーペットを敷き、そこでイスラム式に拝み始めました。聖地メッカのほうを向いているということでした。

 キリスト教、とくにプロテスタントではあまり拝むという言葉を使わないかもしれません。むしろ礼拝という言葉を好みます。礼拝という言葉を辞書で引いてみましたら、キリスト教やイスラム教で神を拝むことと書いてありましたので、何だ要は同じではないかと思ったことでした。礼拝の拝は拝むことです。漢和辞典で「拝(拝む)」を引けば、テヘンにコツの組み合わせで、両手を平行に前に出し、頭をそこまで下げる礼の仕方だと説明されていました。

 礼という漢字の旧字体はシメスヘンに豊かというツクリの組み合わせです。豊の下半分は豆に見えますが、これはもともと高坏、供え物を載せる台です。その上にうず高く物を積み上げた形です。禮とは神にお供えをすること。お供えをするのは、神をたよりにして、幸福を招こうとすることで、そこから頼る、足がかりにする、さらには手順を尽くすこととなり、踏み行うべき道というようになってきたと説明されています。

 いささかマニアックな説明だったかもしれませんが、拝むとか礼拝するということの意味を、自分よりも優れた存在への尊崇の念の表現だと私は申しましたが、漢字の起こりから探っていけば、人間の幸福のために神に頼ろうという思いの表現だったということになります。その幸福は現世利益とか物質的なものの場合もあれば――この方が多いのですが――もっと精神的な場合もあるでしょう。しかし、突き詰めれば自分のためにする神に向けられた思いであり行為ということになるでしょうか。それのどこが悪いか、自分が自分のために生きて何が悪いのか、それが人間だと開き直ることもできるでしょう。

2.

 人間は不完全な存在です。万事が思うどおりにうまく行くわけではないし、怪我や病気もします。苦労もあれば不幸だと思うことも経験します。自分自身ではなく親しい者のために願いごとをすることもあります。その苦境から脱するために神仏を頼り拝むことをするのは当然だと思います。自力の限界を知り、神に頼り、願いごとをすることは当たり前です。しかし、そこで気をつけなければならないのは、いつのまにか人間が神を利用してはいないか、神を人間に仕えさせることになってはいないか、ということです。

 エジプトでの奴隷状態からの解放をと切に願い、神に聞き入れられて脱出、出エジプトの夢が叶えられたけれども、荒れ野での苦難が続いたときについに辛抱しきれなくなったイスラエルの民がやってしまったことは、金の小牛を作ってそれを拝むことでした。自分の願いを叶えてもらうために、自分たちの思い通りになる神を作ったわけです。それを拝み礼拝したわけです。出エジプト記32章に記されているこの出来事は四千年経った今も本質的には似たようなことが宗教の中に、と言うか私たちの生き方の中にあるのではないでしょうか。

 そのことを念頭に置いて、今朝の福音書の日課を見てみましょう。神殿でイエスさまが「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」そこで商売をしている者たちに激しい叱責の言葉を浴びせられたのです。イエスさまと言えば優しい愛の方だと思っているので、この力ずくのと言うか暴力的な振る舞いには正直度肝を抜かれます。しかし、その行動の是非を論じ始めると、ここでのイエスさまの憤り、怒りの原因、批判が向けられた事柄について考えることから逸れてしまいますので、気にはなっても、力の行使の問題はしばらく脇へおいておきましょう。

 イスラエルには宗教施設として二種類がありました。イエスさまご自身も子どもの時からそこで育ち聖書に親しみ教育を受け、成人して福音宣教を始められてからも安息日の礼拝の時に聖書の説き明かしをなさったのは町々村々にあったシナゴーグと呼ばれた会堂でした。安息日の礼拝では聖書が朗読され、誰かが説き明かしをします。祈りや詩編の讃美もなされたことでしょう。でも、そこではなされずに、エルサレムにある神殿でだけなされることがありました。それは、礼拝の時には動物の犠牲や穀物などが献げることでした。ユダヤの伝統で特に重視されたのは動物の犠牲、いけにえでした。清い動物とされた牛、羊、山羊が捧げられましたが、貧しい者は山鳩や家鳩を献げました。赤ちゃんイエスを主に献げるときには山鳩一つがいか家鳩の雛二羽だったとルカは記しています。その犠牲を献げる場がエルサレムの神殿の一角にありました。新共同訳聖書の訳語では、焼き尽くす献げ物、贖罪の献げ物、和解の献げ物、賠償の献げ物とされています。

 地方から都エルサレムに出て来たときに犠牲にする動物を連れてくるのは大ごとですから、神殿で買い求めることができるなら便利です。賽銭も流通していたローマの硬貨は神殿にふさわしくないので、ユダヤの硬貨に両替をしてもらうのが必要でした。ですから犠牲のための動物を買ったり、ユダヤの貨幣に両替をしてくれたりする商人たちの存在は必要と思われていました。たとえ、彼らが神殿当局と裏で通じて不当に儲けていたとしても、です。それが宗教でした。でも、それは人間の宗教です。人間が作り上げた宗教なのです。

 旧約聖書のあちこちに、たとえばアモス書の5章(22-24節)やイザヤ書の1章(11-17節)には、神が人間の犠牲を嫌って、むしろ倫理的な生き方をこそ求めていることが明確に語られています。詩編51編には詩人が真摯にこう謳い上げています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけには打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩51:18-19)。

 私たちは自分の願いごとを聞き入れてもらうことにばかり気を取られて、肝腎要の祈り願う当の相手がいったいどのような方であるのかをつい忘れてしまっているのです。礼拝すると言い拝むと言いながら、実は自分の願望という眼鏡を通してしか相手を見ていないのです。いやそもそも相手がどなたであるかを見ようとしていないのです。自分は何が得られるかが唯一最大の関心事なのです。だから、自分がする礼拝の仕方、犠牲の献げ方にばかり目が行ってしまい、あくどい輩はそんな宗教心につけ込んでそのような宗教的な人を商売の種にし、利益を貪っているのです。イエスさまが神殿で目にされたのはそのような悲しい人間の性でした。怒り、憤りは悲しさの裏返しです。

3.

 そのような私たちがなすべきことは何でしょうか。いったいどのようにしたら当の拝み礼拝するお方を知ることができるのでしょうか。その手掛かりとして今朝の旧約と使徒書の日課が与えられています。まずは出エジプト記20章です。神が語りかけられます。出だしはこうです。「わたしは主、あなたの神」(20:2)。神が私は神だ、主だと意味もなく繰り返しているのではありません。「私は主」であるということは誰かがそう認めたから主なのではない。人間がどう言おうと、認めようと認めまいと、信じようと信じまいと、私は主なのだ。あなたの支配者、保護者、導き手、どこまでもあなたに責任を持つ者であると自ら宣言なさるのです。そして続けて「あなたの神」であると言い切ります。抽象的な神でも一般的な神でもなく、あなたは私の子、私はあなたの神、あなたの命を造り罪と困難から救済した者なのだ。だから、十把一絡げにではなく、あなたに向かって「あなた」「だれそれよ」と親しく名前で呼び、人格的な交わりを求める神なのだと言われるのです。それだけでなく、あなたと歴史の中ではっきりとした関わりを持ったあの神だと名乗られます。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と。想い出せ、あの出来事を、私があの神なのだ、と声を掛けられるのです。

 その上で十戒を授けられますが、その一番目は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。汝我ノホカ何者ヲモ神トスベカラズ、と文語調で言えばなおのこと厳しく響きます。厳格な禁止命令のようです。しかし、ここはよくよく注意してこの語りかけを聞かなければなりません。ベカラズ、スベカラズばかり並んでいる印象ですが、十の戒めを語る前に神はそもそも自分がどのような神であるか、イスラエルの民とはどのような関係であるかを簡潔に語っています。私はあなたを奴隷状態から救出、解放したあの神だと言うのです。つまり、恵みの神、慈しみの神、あなたを救い出さないではいられない愛の神であることを思い起こさせるのです。だからあの第一戒は、私のほかにだれか別の神を拝むなという単なる禁止命令ではなく、あなたにはこのような私がいるのだから、あなたはもはや私以外の他の神を捜し求め、拝みひれ伏すなど全く必要はないのだと優しく諭しているのです。心を他の神に向けようとする者への怒りとか妬み嫉みなどから厳しい禁止命令を発しているのではなく、この神の本性を知れば、この神と自分との関係を想い出せば、他の神々などあなたの人生に出番はないはずだと気づかせようとしているのです。残りの九つの戒めも、宗教、倫理、道徳の集大成という受け取り方をするのではなく、愛の神が愛して止まない自分の子らに、愛されている者にふさわしい、自由で愛に満ちた生き方、在り方へと招いている言葉だと理解したいものです。願いごとを胸いっぱいに携えて、拝みひれ伏し犠牲を献げようとしている者たちに、先ずはその当の相手がいったいどのようなお方であるかを聞くことを旧約の日課は示しています。

 使徒書の日課は、イエス・キリストがどなたであるかということを使徒パウロの証言という形で私たちに明らかにしています。パウロはキリストのことを端的に「神の力、神の知恵」(Ⅰコリ1:24)と言います。キリストについて語られた言葉、いえ、それだけでなく、キリストが語られた言葉、突き詰めれば、キリストご自身という言葉を「十字架の言葉」(同1:18)だと言います。キリストの生涯と教えを凝縮すれば十字架なのです。だから使徒は「十字架につけられたキリストを宣べ伝えてい」(1:23)るのです。人間的に見るならば、惨めな敗北のしるし、屈辱と弱さそのものにしか見えない十字架、「ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなもの」(1:23)である十字架、しかしその十字架とは、それによってのみ私たちを救うことを決意され、御子によって実行された「神の力、神の知恵」なのです。私たちの理解を超える関わりをしてくださるのがこの神なのです。

 こういうことは私たちが外側から見るだけでは分からないことです。外観から判断できることではないのです。人間同士のことに置き直して考えてみましょう。あの人きれいだなとか、見てくれが悪いなとか、こちらからの観察、判断では相手の人の本当の姿、本質的なことまでは分かりません。相手が心を開いて、口を開いて、自分の思いや考え、とくに私に対する心情を語ってもらわないと、その方のほんとうの姿、本質は分からないのと同じです。神もまたそうです。私という神はこういう者だ、キリストという方の真の姿はこういうものだというのはあちら側から語ってもらい、それに耳を澄ませ、心の耳で聴き取ってはじめて、相手がどういう存在かが分かるのです。

 十字架は単に政治犯への処刑の道具としか受け取れず、ゴルゴダの丘での悲劇は残酷だなとか可哀想だなとしか思えなかったのが、神さまがイエスさまを死から復活させてはじめてそれが私たちを罪から救い出すための唯一の手段だったことが分かったのです。人間が作り上げた宗教では決して分からないこと、人間の想像を超えた神の思いと行動は唯だ聴くことから始まります。熱心ではあっても闇雲に拝む前に、まず神の言葉を聴こうではありませんか。心を開いて十字架の言葉に耳を傾け、語ってくださっているのがどなたなのかを知ることができるようにしていただこうではありませんか。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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