2024年2月11日日曜日

礼拝メッセージ「主の変容に励まされ」

2024年02月11日(日)主の変容 岡村博雅

列王記下:2章1〜12 

コリントの信徒への手紙二:4章3〜6 

マルコによる福音書:9章2〜9

 私達の父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン  様々な困難の中にある方々の言葉を聞くにつけ、私達にとって希望がどれほどかけがえのないものかと思います。この日、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを「連れて」、高い山に登った。それはやがて神の国の福音を伝える後継者となる彼らにご自分が変容した姿を見せて、ご自分が誰であるかを教え、死を超える希望を悟らせるためです。

 今日の福音箇所は「六日の後」という言葉から始まります。それは前章の8章31節を受けてのことでしょう。主イエスはご自分が多くの苦しみを受けて、宗教指導者たちによって殺される、そして三日目には復活するということを「弟子たちに教え始められた」とあります。主はご自分のことを語られただけでなく、主が与えてくださる命に生きようと願う者は、主と同じように自分の十字架を負って死ぬ者であることを学んで主に仕えるように求められました。そういう主に倣って生きるための教育を六日間なさったと考えられます。

 その教育内容ですが、主はご自身の復活を語りながらも、ご自分が苦しむこと、殺されることを語られました。弟子たちは、苦しんで殺されるという、主の「死」について語られる言葉に圧倒されたでしょう。そしてどうしても、受難、死という、そこに注意が行きます。弟子たちは目の前におられる主が死ぬことになるなんて、とんでもないことだと思ったでしょう。しかも、主イエスはその後で、あなたがたも自分の命を捨てることを学べとおっしゃったのです。

 あなたがたの命はとても大切なのだから、そのためにこそ、このことを教えると言われました。しかし、主ばかりか、自分たちまで死ぬのだとなれば、弟子たちの心はパニック状態だったと思います。

 神は十字架の死を経て主イエスを復活させることを私達は知っています。しかし私達は十字架を担って主に従う人生というものを、ただ苦しいもの、困難なことと思ってはいないでしょうか?私はどこかしらそう思っていました。 

 まだ主の復活を体験していない弟子たちはなおさらだったでしょう。主はこういう御心から遠い弟子たちを、忍耐し続け、ずいぶん苦労なさったのだと思います。

 この世にあって十字架を担って主に従って生きたときに、それはきっと苦労だけには終わりません。主は、それを上回る喜びがあり恵みがるのだと言うことを弟子たちに教えようとされました。

 2節の「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」という箇所は原文では受動態の動詞が使われています。それは主イエスがご自分で姿を変えたのではなく、この3人のために、父なる神によって姿を「変えられた」のだと示すためです。神は天における主イエスの輝きを垣間見せてくださいました。

 主イエスの本性をいっそう明確にするのは4節のモーセを伴ったエリヤの出現です。エリヤは天に取り去られたと信じられていました。そのエリヤが現れたことは、主イエスが天に属する存在であることを証ししています。つまりエリヤがモーセと一緒に姿を現したのは主イエスのためではなく、この弟子たちが、自分たちは今天の有様を目にしていると信じさせるためだと考えられます。

 この情景をこれは現実ではない。弟子たちは幻を見たと説明して納得を得ようとする人があります。しかし、気づくべきことがあります。初代教会の人々や、またその後三百年にわたる時代のキリスト者たちは激しい迫害を受け、実に多くの信仰者の血が流されましたが、教会はそれに耐え続けたということです。数え切れない信仰者たちが、十字架につけられた主イエスの後に自分の十字架を負ってついて行きました。この3人に与えられた体験が単なる幻や絵空事であったなら、激しい迫害の中を自分の十字架を負って主に従った無数の信仰者たちに永遠の命の希望を与えることは出来なかったでしょう。私達はこのことに目覚めていなければなりません。

 主イエスから「死」とか「十字架」とか「自分を捨てる」という言葉を聴いた弟子たちは、そういう言葉に押しつぶされそうだったと思います。私達も同じです。いくら望みの言葉だと言われても、望みや喜びより、黒雲に押しつぶされそうな思いがします。

 弟子たちがそういう真っ暗な思いの中にあったその時、語っておられる主イエスの後から射してくる光が主を覆って、弟子たちの前の主が真っ白に輝く姿に変えられました。

 ペトロは主の変容を見て言葉にできない喜びを味わいました。ペトロは興奮しましたが、それに溺れっぱなしではなく、この事態を確かなものにしようと知恵の限りに思い巡らして、それぞれに小屋を造り、この天の栄光を地上につなぎとめようと考えました。

 「あなたは、メシアです」(8:29)と信仰告白をしたことなど忘れて、ペトロは「先生(ラビ)」(9:5)と呼びかけています。マルコはすぐに注釈をつけて、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」と書いています。ペトロは正気を失っていたと言うのです。

 では弟子たちが正気に帰った時に、どんなことが起こったかです。8節「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。彼らにはもはやエリヤもモーセも見えません。主イエスの衣は白い輝きを失っている。いつものままの「イエスだけが彼らと一緒におられた」。いわば、彼らは、主イエスと一緒にいる自分たちに改めて気づいたというのです。それはただ虚しいことではなく、あの天の輝きの中におられた主イエスが自分たちと共にいてくださるということを、しっかりと見て取ることができたというのです。

 それこそが、このペトロたちに神から与えられた、本当に素晴らし体験でした。しかも、ただ見ているだけでなく「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が聞こえてきたのです。

 六日間厳しい言葉を聴き続け、半信半疑のまま、主の言葉に従うのは難しいことです。そのときに神が保証なさった。このイエスこそ、わたしの愛する子、わたしのわざを行う者なのだから、このイエスに聴き続け、このイエスに従い続けて間違いない、と神が宣言してくださった。教会は、そしてキリスト者はこの主によって歩くものであることが、はっきりと示されました。

 弟子たちはこの出来事を心に深く刻みつけて山を下りました。主はご自分が「死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。つまり、あなたがたは、主キリストの復活が明確な事実となった時にこそ、復活のいのちがどういういのちであるかということが分かるようになる。そして自分たち自身の復活についても語ることができるようになると言われたのです。確かに人間の中に復活の可能性を見つけることはできません。しかし、主の言葉を固く信じるとき、望みは開かれます。

 神は主イエスを復活させます。主イエスを墓から引き出します。やがて弟子たちはこれまでに味わったことのない確かな思いで、復活の光を見始めます。復活の主に出会うまでは、「これに聞け」という神の声に従えなかった弟子たちが使徒として、私達に連なる愛をもって主と教会に仕える者となっていきます。

 この高い山でのペトロたちの体験を通じて、神は信じる者に主の変容と復活の栄光を見せてくださいます。私達もこの出来事に励まされたい。十字架を背負って生きるとき、ある高い山で主が変えられた天上の輝く姿を心に描くことができるのは希望です。十字架を背負って生きることの意味はそのまま主の変容の意味に直結しています。

 実に自分の十字架を担って主に従う人生は喜びです。その真実を私は妻と共に、この11年の牧会生活で経験させていただきました。自分のためにだけ生きる人生はつまらない。自分のためばかりでなく、他者のためにも生きる、隣人と共に生きるとき、そこに本当に恵みがあり、喜びがあり、感謝があるということを噛みしめています。

 終わりの日には、私達の目から涙はことごとくぬぐわれる。(ヨハネ黙7:17,21:4)それまで私達には嘆きも労苦もつきまといます。それは避けようのないものです。そんな私達に、主は「だいじょうぶだ」「安心なさい」と栄光の姿を見せて励ましてくださいます。

 主はどんな苦難の中をも共に歩んでくださいます。私達を必ずや天の光の中へと伴ってくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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