2024年3月3日日曜日

礼拝メッセージ「ここから運び出せ」

 2024年03月03日(日)四旬節第3主日

出エジプト:20章1〜17 

コリントの信徒への手紙一:1章18〜25 

ヨハネによる福音書:2章13〜22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所では主イエスが神殿から商人たちを激しく追い出したエピソードが語られています。「宮清め」と言われる出来事です。それは普段の主イエスから想像もできないほど激しいものです。福音書記者のヨハネはよほど驚いたのでしょう。その様子を詳しく書いています。過越祭でにぎわう神殿で、イエス様は激しく怒り、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない」。私たちも驚くこの主の行動は私たちに何を示しているのか。ともに考えてまいりましょう。

 主イエスが、お金とか、商売の道具とか「このような物はここから持って行け」とおっしゃっいました。なぜそういうことを言うかというと、「ここは父の家だ。神と人がひとつに結ばれる、聖なる場だ。ここに、商売の道具やお金は必要ない。そういうものがここにあると、そういうこの世の思いに支配されて、天の父のみ心が分からなくなってしまう。だから、この世のものはここから運び出してほしい」。主イエスはそう思っておられるからです。

 「ここから」運び出せという「ここから」は、主イエスが共におられる皆さんの心のことです。特に洗礼を受けたキリスト者と洗礼志願者の心のことです。確かに、いろいろとこの世の心配はあります。お金のこととか、仕事のこととか、この世の思いから完全に離れることは難しいですけれど、キリスト者はともかくそういうものを心から運び出して、心の中を神のみ心でいっぱいにしたいものです。

 「このような物はここから持って行け、運び出せ」という主イエスご自身は、あらゆる人間的な考えから離れて、ご自分を神さまのみ心でいっぱいにして、私たちの罪を贖うために不条理きわまりない十字架を背負い、この世の体から天の体へと復活していきます。

 聖書は、「この神殿」、まことの神殿とは主イエスの体のことだったんだと、さらには主イエスの体と連なる教会のこと、この私たち一人ひとりのことだったんだと教えてくれます。

 どうでしょうか。皆さんは、運び出せますか?何が今、皆さんの心を支配しているでしょうか。

 お金といえば、ずっと以前ですが「お金」についてのテレビ番組をやっていました。お金というものが、どうしてこの世界に生まれてきたか。そのお金が、人間の心にどのような影響を与えたか。それを解き明かす番組で、とても面白かったです。

 なかでも印象深かったことをお話すると、そもそも昔は、物々交換だったわけですね。ひと言でいえば「その日暮らし」だった。とってきたものをお互いに交換しても、腐ってしまいますから、取っておけません。だから、その日に食べるわけです。明日獲物がとれるかどうか分からないし、その先も分からない。その日に消費して、それで終わり。明日のことはまた明日という、そういう時代を人類は過ごしていました。

 ところが、お金というものが生まれると、これはいつでも交換できるし、取っておけるわけです。そうすると人類に何が起こってきたかというと、「未来の計画」ということが起こるんだそうです。番組ではそう言っていました。言われてみるとなるほどそうですね。

 もしもお金というものがなかったら人類はその日暮らしなわけで、明日以降の計画なんか立てようがない。でも、お金は貯めておけるし、いつでも好きな物に交換できますから、それじゃあこのお金をいつかこういうことに使おうとか、貯めておいて老後はこう暮らそうとか、やがては子どもにこれを残そうとか、そういうことが可能になってくる。すると、私たちは「未来」を考えるようになり、そして未来というのは計画できると思い込んだわけです。

 つまり、人類はそう思い込んでお金に支配されるようになってしまったといえないでしょうか。でも実は、それは思い込んでいるだけではないのか。なぜかと言えば、未来は本当の意味では決して計画できないからです。例えば、あの「ルカ福音書」のたとえにあるように、ある金持ちが「財産がたくさん貯まったぞ、これでこれから好きに遊んで暮そう」と計画したけれども、神はこうおっしゃる。「愚か者。今夜、お前の命は取り上げられる」と。それが真実です。明日のことはぜんぶ神のみ心のうちですから。いや明日どころか今日だって、ぜんぶ神のみ旨のうちです。

 それなのに、明日以降のことをある程度計画できるようになると、私たちの心に、ああもしたい、こうあってほしくない、こうしなけりゃいけない、とばかりに、いろんな人間的計画というものが出てきます。

 計画それ自体は、好きに計画すればいいことで、それほど悪いことではないかもしれしれませんけれども、そのせいで「神さまのみ旨」というものから、だんだん離れていってしまう。これが、お金がもたらした現実だとしたらどうでしょう。

 たぶん人間の頭の中に「お金」というものが入ってきてから、頭の中はそのことですっかり占められてしまって、神のみ心を思う余裕がなくなってしまったんじゃないでしょうか。

 お金は、いいものですけれども、自分の未来を自由にできると思ったら、実はそれが間違いの始まりなんだといういことです。主イエスは「明日を思い煩うな。明日のことは明日自らが思い悩む」そう言われます。「今日、神のみ旨を行う者が永遠の命に入る」。主イエスはそう言われます。お金は確かに便利でいいものですけども、それにとらわれていると神のみ心が見えなくなる。だから主イエスは「このような物は持って行け、運び出せ」とおっしゃるのです。

 今日はこの後でKさんの洗礼式があり、17日にはMさんの洗礼式があります。今や天におられる方々も湯河原教会の仲間が大喜びです。お二人には素晴らしい先輩方が信仰の模範を示してくれています。

 ある信仰の先輩はこんなことを言いました。「確かに、洗礼を受けたら、主は魔法の杖を持っていて、なんでもこの世の課題を解決してくださるわけではないです。でも主を仰ぎ、祈る時、私たちは余計な心配や恐れ、泥沼のような思いすごしから守られます。過剰な自己保身や被害妄想、極端な金銭への囚われから開放されます。そして、なにより落ち着きます。聖霊がともにいてくださるようになるからです。神が喜んでくださり私も喜べるそういった第三のアイディアや、創造的な思いつき、建設的な考えも湧いてきます。そして、ああ、これが恵みだな〜と思うのですが、思いもかけない助けが降ってきます。主を信じることは素晴らしいです。主の望まれる宮清めは素晴らしいです。」

 これは多くの信仰の先輩方の共通の思いだと思います。皆さんも、洗礼から先は、第二の人生です。いったん死んで、そこから神さまのみ業わざが始まります。この世のさまざまなものに一旦区切りをつける。聖霊の助けを信じて、囚われているものをこころの中から全部いったん、運び出してください。「このような物」を全部運び出したらなら、洗礼において、新たにいったい何が入ってくるか、どうぞ楽しみにしてください。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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