2024年3月31日日曜日

礼拝メッセージ「キリストの復活」

 2024年03月31日(日) 主の復活 

使徒言行録:10章34~43 

コリントの信徒への手紙一:15章1~11 

ヨハネによる福音書:20章1~18

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

「ご復活、おめでとうございます。」「主キリストは生きておられる、ハレルヤ!」。今朝はその喜びを共に分かち合いたいと願っています。

 主の復活の朝の出来事を、ヨハネ福音書は伝えています。朝早く、まだ暗いうちに、墓を塞いでいた大石が取りのけてあるのを見たマグダラのマリアは、ペトロや弟子たちに、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わかりません」(ヨハネ20:2)と告げました。他の福音書にあるように、ほかの女性たちもそう伝えたのですが、弟子たちは信じません。しかし、マグダラのマリアは譲りません。「彼らは私の主を取り去りました」と必死に訴え続けました。

 彼女の訴えが尋常でないと感じた、ペトロとヨハネは急いで墓に向かいました。ヨハネが先に着き、墓の中に「亜麻布が置いてあるのを見ました」(6)。続いて到着したペトロが墓に入ると、イエスの頭と体を覆っていた亜麻布が頭の方と足の方にそれぞれ丸めて置かれていた。ヨハネも墓に入って「見て、信じた」(8)とあります。

二人は主イエスの遺体がないことを確認しました。マグダラのマリアが言うように、きっとユダヤ人の仕業に違いないと考えたでしょう。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」(9)という聖書の言葉は思い浮かばなかった。この事態を信仰ではなく理性で受け止めた彼らは帰って行きます。

彼らは他の弟子たちと、誰が遺体を取り去ったのか、ユダヤ人か、ピラトかと論議したことでしょう。主が復活されたという考えは微塵もなかったに違いありません。

 弟子たちも、女性たちも、みんなが帰ってしまっても、ただ一人墓に残った者がいました。マグダラのマリアです。復活の主イエスとマリアとの出会いは聖書中で最も美しい情景の一つですね。ここは聖書から味わいたいと思います。

 マリアは墓の外に立って泣きくれていた。身をかがめて墓の中を見ると、遺体を安置する台座だけが見えた。身も世もなく泣きながら台座の方を見ると、白銀の衣をつけた天の使いが二人、一人は頭の方に、もう一人は足の方にイエスの遺体の置いてあった場所にいるのが見えた。

白銀に輝く者は驚き恐れるマリアにこう言いました。「女よ、何故泣く」。マリアは取り乱しきっていました。「私の主を何者かがどこかへ奪ってしまいました」。そう言いながらマリアはなにかの気配を後ろに感じて振り返りました。背後にはいつの間にか人が立っていました。その人が朝日の輝きを背にしていたためでしょうか、マリアはそれが主だとわからず墓地の園丁だと思いました。その人はさり気なくたずねます。

「なぜ泣いている。誰を探している。」マリアは丁寧に答えます。「もし、あなた様があの方の遺骸をお移しになったのなら、その場所をお教えくださいませ。わたくしが参って、お引取いたしますから」。マリアは精いっぱい知恵を働かせます。

 マリアがこう言ったのは、主イエスが亡くなった金曜日の夕刻は誰も気がせいていましたし、その上、苦悩のさなかで誰も墓地管理者への手続きのことなど考えも及ばないまま、総督ピラトから許可をもらうや、そのまま墓に納めてしまったからです。ですから手続きが正式に終わるまでの間、園庭が遺体を保管しているのなら、引き渡しを許可してくれるだろう。マリアはそのように考えたわけです。

男性中心が当たり前であった当時の社会において、マグダラのマリアは、弱く小さくされた人たちの代表です。中でも、主イエス一行の世話をしてきたマグダラのマリアを始め幾人かの女性たちはゴルゴタの丘の処刑場にひしひしと迫ってくる恐ろしさやむごたらしさ、居丈高な祭司達や律法学者達という権威者の集団にもひるまず、男の弟子たちが近づき得なかった十字架近くに、ただ信仰と愛だけを力にしてたたずみ続けたのでした。私たちはこの女性たちのうちに愛の強さを見ます。主キリストはまずこうした女性たちの代表であるマグダラのマリアに現れ、彼女に復活の最初の証人の栄誉を与えました。

 主は「マリア」と彼女の名を呼びました。これまでに聞き慣れた、あのなつかしい声で、マリアはその人が主イエスだとわかりました。

マリアはじめは驚愕し、それから歓喜が彼女を包み込みました。「ラボニ!」。マリアは思わず両手を差し伸べて叫びました。 

 ところで新約聖書の原典はギリシア語で書かれていますが、「ラボニ」は、ヘブライ語です。そして16節に「先生という意味だ」という注釈がついています。「マリア」と呼ばれ、「ラボニ!」と叫ぶ。本当に美しい魂の響き合いです。

 嬉しさのあまり、主の足にすがりつこうとするマリアに、主はこう言います。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』と。」(20:17)

恐らくマリアは、ラボニが、復活以前の命、つまりこの世の命に戻られ、また今までどおりになられたと考えたのですが、主キリストは、それを否定されました。そして、今からは友人たちの間におけるような、触れ合いはもうなくなると示されました。キリストとこの世の間には、仕切りができた。しかし、仕切りはあるけれども主が共におられるということは変わらないのです。

主は「私にさわってはいけない」と言い、そして、彼女に「私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」と告げました。

 イエス・キリストは死に、葬られ、死人の中から復活し、今やこの世の命

からは離れています。死んだということは、もはや、この世のつながりからは断ち切れているということです。「私にさわってはいけない」とは、それを言っておられるのです。

ところが、触ってはいけないと言われたその次に、主キリストは「私の兄弟たちに伝えなさい」とマリアにおっしゃいます。

「私の兄弟」とは弟子たちのことです。ここには、天上のことと地上のこととが結び合わされているに違いありません。ルターは「あなたがたは、私の兄弟だ」と言われた主キリストの言葉に注意を払うべきだと言っています。弟子ではなく兄弟だ。あなた方はご自分と同じく天の父を父として慕い、そして従う「神の子」だと言っておられるということです。

主が兄弟姉妹であると言われるとき、旧約の兄弟関係と異なり、現代の法律が定めるように、兄弟は誰もが同等の権利をもっています。お互いに同等であり、上下の関係はありません。「私の兄弟たちのところへ行って伝えなさい」というこの主の言葉は私たちを誇らしくしてくれます。

主に命じられ、マリアは走り出しました。泣きながら笑い、笑いながら泣き、そして走りました。「ラボニは、『あなた方は私の兄弟だ』と伝えなさいとおっしゃられた。この恵みの言葉、救いの言葉を一刻も早く伝えよう。十字架から逃げ出して、自分を責めているあの人たちに今すぐ伝えよう。「ああ嬉しい!なんて嬉しい!」彼女は心の中でこう何度も、何度も繰り返し叫びながらひた走りました。

ところでこの間に主は「父のみもとに上り終えた」ようです。なぜなら、この後で、主は戸が閉まっているのに現れ、トマスに手と脇腹の傷を示されるからです。四福音書を総合すると、ヨハネ福音書が最後に書かれるまでの約60年の間に各福音書が補完しあいながら主イエスの死から昇天までの各段階が踏まれていることが見てとれます。

一人の歴史的な人物としての主イエスと、コリント書に見られるように、天的で霊的な主キリストをつないでいるのが福音書と使徒言行録に記されている弟子たちのイエス・キリスト証言だと言えます。

最後になりますが、私は、復活の主を思うとき、「主イエスは生きている」と信じ、またそのことを病気や引越しの日々の中でも実感しています。それはきっと信仰告白と似たものです。「今も実在している主イエス」こそが、私が皆さんと分かちあいたい復活の主です。

この11年の間、この温かな主、あなたを愛し抜いておられる主、あなたを大好きな主、責めずに忍耐して回心を信じて待ち、共に生き、深く憐れんでくださり、どこまでも赦してくださる主。皆さんと共にこの主の恵みにあずかって来られた幸いをここに深く感謝します。天への希望をもって、この主と共に生きていまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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