2024年1月21日日曜日

礼拝メッセージ「招きに応えて」

 2024年01月21日(日)顕現後第3主日

ヨナ書:3章1〜5、10 

コリントの信徒への手紙一:7章29〜31 

マルコによる福音書:1章14〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今年私たちは主にマルコ福音書を用いて主イエスの活動の歩みを思い起こしていきます。主はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、神から「愛する子」と宣言されました(マルコ1;9-11)。そして荒れ野で悪魔の誘惑を退けた(1:12-13)のち、きょうの箇所から神の子としての活動を始めます。

 このマルコ福音書は、主イエスの死と復活から40年くらい後、紀元70年ころに編纂されたとされる世界最初の福音書です。4つの福音書のうち、ヨハネ福音書は独自ですが、マタイとルカのものはマルコ福音書をもとにしています。マルコ福音書は、その1章1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。実に味わい深い言葉です。

 この一行にすでに、「さあ、福音の世界が始まった。もうだいじょうぶ。安心なさい」というマルコの思いが凝縮していて、うれしさで顔を輝かせたマルコの喜びの声が聞こえてくるようです。まずこの宣言について見ていきましょう。

 福音書というのは「もうここに救いは実現した」という宣言だと言えます。この福音書から、究極の世界、本当にすばらしい救いの世界が、恵みの世界が始まりました。この二千年間を振り返れば、それはもう、どれだけ言っても言い足りないくらいです。皆さんが、今日ここに集まっているのだって、その実りですし、数限りないキリスト者によって繋がれてきたその実りのおかげに違いありません。

 そして、主イエス・キリストの第一声が1章の15節にあります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。どうぞこの言葉を、今、主が、あなたに語りかけておられるのだと受け止めてください。(私は、なんだかこう心があたたかくなります)

 ここには、四つのことが書いてあります。

 最初の二つは宣言です。「時は満ちた」。そして「神の国は近づいた」。「時」というのは時間です。そして「国」というのは空間、場です。ですからこれは「時間も空間もすべてが、いまや神の恵みのうちにある。準備の時は終わり、いよいよ神の救いが実現する時が来た」と、そういう宣言です。

時間も空間もと言いましたが、それは、純然たるこの世の時間と空間のことではありません。この宇宙の時間、歴史に記録されるような時間ではなく、これはすべてを超えた「神の時」の話です。いつ洗礼を受けたらいいかとか、あと何年生きられるんだろうかとか、そんなこの世的な時を超えて、「今、決定的な神の時、永遠なる救いの時が始まった。もうすでに私たちは救われている!」という、そういう宣言です。

 「神の国」というのも、この世の空間ではありません。神の支配下に置かれた、神の場所です。どこどこという場所のことではなく、救いが現実している場そのものが「神の国」です。私たちにとって、この世界のどこなのかということが場所の意味ですが、主イエスの「神の国」においては、それが本質的に変えられたのです。この21世紀、世界の現状は戦争に溢れていて、まだ、まだ「神の国」は完成していませんけれども、「神の国」はもうすでに始まりました。

これは、この礼拝にたとえるなら、前奏、初めの歌と続いて、もう礼拝は始まっていますね。聖餐はまだいただいてないけれども、みんなでここに集まって、心を神にむけて、安心して、私たちは幸いだと座っておられませんか。それは、ここに主イエスがおられ、今日もみ言葉と聖餐と主の祝福が得られるからです。そんなこの場所で、神の国は、もう始まっています。

 このひとときが、みなさんがおられる、今、復活の主イエスがおっしゃるここが「神の国」であり、「神のとき」なのです。なによりも主イエスご自身が福音ですし、主イエスご自身が「神の国」なのです。主イエスは、ご自分が来られたことそのもので、すべての人に救いを宣言しています。主は「わたしがいる。もうだいじょうぶだ。あなたは救われた」と告げています。

 そして後半の二つは、その宣言を受け入れなさいという命令ですね。というのは、いくら宣言しても、聞いたその人が受け入れてくれなければ意味がないですから。だからまず、「耳を開いて、この福音を聴いてほしい」と主はおっしゃいます。

 「時は満ちた。神の国は始まった。さあ、心を開いて、受け入れて、信じてほしい」と、主イエスは、そう宣言し、命じています。

 主イエスが現れたとき、二千年前に、そこからすべてが始まって、今日に至っている。天に昇られる前、主は弟子たちに、父と子と聖霊による洗礼を広め、福音を世界中に伝えるように命じられました。次々と新しい人が生まれてくるわけですから、主の教会はずっと福音を伝え続けているわけです。主に従った先人のおかげで、私たちもこうして湯河原教会に集まれています。

 神の国はもう来ています。主イエスの救いは始まっています。だれが何と言おうと、どう反論しようと、それは事実であって、それを変えることはできないし、否定することもできません。私がみなさんと共に伝道させていただいたこの11年間にも、新たな人が救われてきました。あの方、この方の顔が思い浮かびます。ここに集い、繋がりをもった方々が喜んで天に召されていきました。私たちはそんな教会家族であり、主によって結ばれた仲間です。

 さて、ヨナ書にも触れたいと思います。ニネベという都ですが、風紀はかなり乱れていたんでしょう。お金お金の政治家たちや、性に取り憑かれた有名人たちみたいなものでしょうか。そんなニネベでヨナは預言者として、「40日したら、この都は、滅びる」と (ヨナ3:4)告げて歩いた。ある意味で、脅しですね。そうすると、ニネベの人たちは素直で、神を信じて断食して、悔い改めた。そこで、10節「神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった」(ヨナ3:10)とあります。これが、旧約の神です。

 確かに、この物語には神の憐れみ深さが表されていますが、この神は、悪は「滅ぼすぞ」と裁きを告げます。けれども、人々が、「すみません。ごめんなさい!」と回心したら、「それならば、滅ぼすのをやめよう」と思い直す。これは、神と人の関係が、ちょっと幼稚だと感じませんか。

 それは旧約の神が、まだ人類が幼い段階の神だからです。もちろん、幼いこと自体は悪いことではありません。子どもはそうやって育っていくわけですから、成長の過程で、必要な段階です。人類も同じで、初めのうちは、親が叱ったり、ちょっと脅したりもするし、子どもも「ごめんなさい!」と謝ったり反省したりしますね。そうすると親が、「もうしないでね」と赦してくれる。そんなやり取りをしますでしょう。つまり、神が人類を育てるプロセスなんです。

 子どものころは、みんなわがままですよね。そんなときにちょっと厳しく対応するのも、親心でしょう。でも、本気で、裁いて滅ぼすとか、神はそんな方ではありません。ですから、人類もいよいよ成長してきて、旧約の段階を卒業して、主イエスが真の親心を、本当の神の愛を、教え始めた。これが新約です。人類は親とちゃんと向き合えるだけの大人になったんです。そのために、神は主イエスを送ってくださって、主は「天の父は、すべてのわが子を救う」という福音を語ってくださっています。

 もし、旧約の段階の神でいいんだったら、ヨナなどの預言者がいればいい。主イエスもいりません。けれども、主イエスは来られました。みんなを救うために。主イエスは「決して神は罰しない」。「天の親は、神の子たちみんなを愛している、どの子も赦す。そして、必ず救う」と、ご自分の命捧げて教えてくれました。

 今日のまとめになりますが、「私に付いて来なさい」(マルコ1:17)という、イエスさまからの呼びかけがきっとみなさんに聞こえているでしょう。主はヨハネ15章16節でこうおっしゃっています。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。ここにおられる皆さんはみんな主の招きを受けたのです。主に選ばれたのです。

私たちが「ついて行くべきは、イエス・キリストです」。「罰するイエス」とか、「裁く神」を信じさせる宗教は偽物です。主イエスは、「どんなに失敗しても、そんな罪深いあなたをこそ、私は命がけで愛している」と受け入れてくれます。そのような、真の親。そのような、神。その神を証する主イエスに、付いて行きましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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