2024年1月8日月曜日

新たなる生

 2024.1.7. 小田原教会

新  た  な  る  生

創世記1:1-5; 詩篇29; 使徒言行録19:1-7; 

マルコによる福音書1:4-11

江藤直純牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 20代前半の頃だったでしょうか、『聖書と教会』という雑誌を読んでいました。その月の特集は「洗礼」でした。他は全部忘れましたが、今でも覚えている一つの記事というか一つのエピソードが載っていました。それはAという後に知り合いになった牧師が洗礼を受けたときの思い出です。その青年は洗礼式に臨んで非常に緊張していたそうです。

 その教会の伝統は洗礼槽といういわば一人用の小さなプールというか深いバスタブというか、それに入り、全身を水の中に沈めさせて洗礼を授けるやり方でした。ルーテル教会をはじめ多くの教会で行う滴礼という水を三度頭の上に降り注ぐというかかける、滴らせるやり方とは違って、全身を頭まで水に沈める浸礼というやり方です。ヨルダン川のほとりで洗礼者ヨハネが行い、主イエスもまた受けられた洗礼のやり方です。今でもバプテスト教会などはその伝統を守っています。ギリシャ語でバプティゾウという動詞は「水に浸す」という動作であって、バプティスマあるいはバプティスモスいう名詞は「水に浸すこと」です。「洗礼を施す者」はバプティステイスと言います。その雑誌に寄稿した方は緊張しつつ全身で肩まで洗礼槽に入り、今まさにバプティスマを受けようとしていたのです。

 ところがそこで事件が起こったのです。A青年は緊張の余りそこで気を失ったのです。目が覚めたときは、牧師館の一室で布団に寝かされていたそうです。そうなのです、彼は洗礼式において、死と生を、正確に言えば、死と新しい生を経験したのです。その方の文章はさらにその経験を思想的に、神学的に深めたものだったと思いますが、50年以上も前のことで私は詳しいことは覚えていません。ただ私が記憶していることは、彼が洗礼を受けるに際して文字通り死と新たな生を経験したということと、私はそのとき何だか羨ましい気持ちになったことです。

 私は生まれて一月後に幼児洗礼を受けたので、自分の洗礼のことなど何一つ記憶にはないのです。自分が洗礼を授ける側になって初めて、若い両親と共に聖壇に上がり、母親に抱かれた赤ん坊が牧師にそっと頭に三度水をかけられ、タオルで拭かれ、祝福を受ける姿を見て、自分が受けた洗礼というものがどういうものだったかを追体験するばかりです。あのA青年みたいなまことにドラマティックな洗礼体験は記憶にはないのです。だから羨ましいなと思ったのです。

 宗教改革の中で、本人の自覚的信仰というものを強く主張したグループは、当時ほぼすべての人が受けていた幼児洗礼を否定し、再洗礼派という運動を起こしました。今日は自覚的な成人洗礼を重んじる伝統がプロテスタントの中では大きな位置を占めています。幼児洗礼と成人洗礼をめぐっては話すべきことがたくさんありますが、本日はいたしません。A青年の出来事というか事件だけをご紹介することにとどめます。もう一度言えば、彼は短く、象徴的にではありますが、洗礼式の際に死と生を、死と新しい生、新たなる生を経験したのです。


2.

 そもそも洗礼とは何でしょうか。何のために行うのでしょうか。それを考える前に、今日の福音書の日課には洗礼には二種類あると記されていることに気がつかされます。それは洗礼者ヨハネが行った「水で授ける洗礼」と主イエスがなさるという「聖霊でお授けになる洗礼」の二つです(マコ1:8)。それらは何が違うというのでしょうか。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(1:3)との預言のとおりにヨハネが登場します。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ」(1:6)るという世間とはおよそかけ離れた特異な、はっきり言って異様な風貌で禁欲的な生活を送りながら、町中にではなく「荒れ野に現われて」(1:4)、相手構わず激しく「悔い改め」を迫ったのです。場所は「ヨルダン川沿いの地方一帯」(ルカ3:3)でした。

 ふつうの人ならいったい誰が自分に向かって手厳しく悔い改めを迫る人に好んで近寄るでしょうか。誰でも自分がかわいいのです。耳に痛い言葉を言う人など顔も見たくない、そんな話しなど聞きたくもない、そう思い、そんな人を避けるのが当たり前の反応ではないでしょうか。マタイは彼がただ「悔い改めよ」と言っただけではなく、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ3:7-8)と容赦なく言ったと記しています。ルカは集まった群衆の中には徴税人もいれば兵士もいたと伝えています。マタイは「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢」(マタ3:7)来たとまで書いています。マルコが「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」(マコ1:5)ヨハネのもとに集まって来たというのはいささか誇張があるかもしれませんが、集まったのはけっしてごく限られた人たちではなかったこと、むしろかなり大規模な社会現象が起こっていたことはたしかでしょう。

 それほどまでにヨハネの言葉は人々の心に鋭く深く突き刺さったのです。悪いことをしているのは自分だけでなく世間では多かれ少なかれ誰だってやっていることだなどという弁解は通じない、人の目はごまかせても神の目はごまかせない、このままでは神の怒りを免れることはできない、そう受け取った人々は自分の「罪を告白し」(1:5)、ヨハネが呼び掛ける「悔い改めの洗礼」を受けたいと申し出たのです。犯してしまったあのことこのことは取返しがつかないけれども、それらを悔い、そのようなことを繰り返すまいと願って、汚れた体と心を洗ってもらおうとヨハネの前に進み出たのです。何とかして、何としてもヨハネに救ってもらいたいと願ったのでしょう。その気持ちは私たちも共感、同感できます。

3.

 水で洗い清める、そのイメージはくっきりと明らかです。体が汚(よご)れたときに水で洗い清めます。日常生活の中でも手足がよごれたときは水で洗い流します。江戸時代も旅人が宿に着いたら盥に水を汲んで持ってきて埃まみれになった足を洗ってから、上がってもらいました。ユダヤでも同じ習慣がありました。家に客が来ればまず水で土埃を洗い流してあげていました。

 手の汚れ、足の埃は水で洗い流せます。そのことからの連想でしょう。悔い改めるときに心の汚れ、穢れを洗い流すということで表現するのです。水垢離という宗教的伝統は日本にもあります。斎戒沐浴いう言葉も生きています。ギリシャ語のバプティゾーは水に浸す、洗い清めるというのが元々の意味で、そういう行為が宗教的な意味合いを込めて行われる時に「洗礼を授ける、施す」と訳すのです。ヨルダン川に入る者も真剣でした。罪を告白し、罪を洗い清めていただきたいとひたすらに願いました。その者を水に浸し洗い清めて洗礼を施すヨハネもそれ以上に真剣でした。

この時代よりも千年も前のことでした。ダビデ王が部下の妻に心を奪われ不倫の関係となり、さらにはその夫を戦死させるように仕向けた罪を親友ヨナタンに指弾されて悔い改めたときの詩が詩編51編です。その詩はこう始まっています。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」(詩51:3-4)。自分の心がどれほど穢れているかに気づいた彼はさらにこう謳います。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪より白くなるように」(51:9)。ここでも罪を汚れのように払ってくださいとか、ほこりのように洗い流してくださいと表現しています。人間の言葉ですからそこには限界があります。どうしても比喩的な行為と言葉を使わざるを得ないのです。よごれけがれをきれいな水で洗い流すという象徴的な表現が洋の東西で用いられてきました。そのひたむきさ、真剣さをもちろん認めます。尊重すべきであって、けっして否定する者ではありません。

 しかし、これだけは申し上げなければなりません。心のよごれや穢れは当然ですが水では洗い流せません。清めることはできません。その心のよごれ、穢れ、キリスト教が罪と呼び、仏教が業と呼ぶ人間の本性は水でもって洗い流し清めることはできないのです。言い換えれば、人間のする反省や行いや努力や修行でもって人間の本性を変えることはできないのです。問題はそれほど根が深いのです。

 宗教改革者ルターが「95箇条の提題」の冒頭で「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」と言いました。ルターは自分のこととして知っていたのです、私たち人間は一度徹底的に悔い改め、罪が洗い流され清められたら、あとはもう大丈夫だとは思えないということを。全生涯が悔い改めであるとは、生涯にわたって悔い改めが必要だということです。なぜなら、心の奥底の罪は生きているかぎり残っているのだと知っていたからです。

 最近たまたま目にした親鸞聖人が遺された「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」の中にこういうものがありました。「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり 修善(しゅぜん)も雑毒なるゆえに 虚仮(こけ)の行とぞなづけたる」。800年前の日本語ですからちょっと難しいですが、現代語訳にはこうなっていました。「悪い本性はなかなかかわらないものであり、それはあたかも蛇やさそりのようなものである。だからたとえどんなよい行いをしても煩悩の毒がまじっているので、いつわりの行いというものである」と。悪い本性はなかなか変わらないのだと喝破しています。ルターにしろ、親鸞にしろ、人間の骨の髄にまで浸み込んだ罪を深く認識していたのです。

 だからこそ親鸞聖人が仏教の修行を通じて救いに入る道ではなく、ただ阿弥陀様の大慈悲にのみ縋ることによって救いに入れていただく道を主張したのだろうと改めて納得したことでした。ルターは信仰義認、あるいは恩寵義認ということを終生叫び続けたのです。人間のなす業によってではなく、ただ信仰を通してのみ、端的に言って神の恩寵、恵みによってのみ人は義とされ救われるのだと教え続けたのです。

4.

 洗礼者ヨハネが言った二つの洗礼、彼が授ける「水による洗礼」と、来たるべき主イエスがお授けになる「聖霊による洗礼」、その二つのうちの後者、聖霊による洗礼とは、人間の悔い改め、自己反省、自己否定、さらにはひたすらなる信心、修行、良い行ないによる罪の赦しを求めての水の洗礼とは真逆なのです。

 施す人が誰かという点から違います。水での洗礼をするのはもちろん人間です。本人の洗礼を受けたいという意思があり、たとえばヨハネと言った優れた宗教者の悔い改めの勧めとそれにふさわしい生活の指導があります。しかし、それは望ましいことではありますが、それによって人間の本性が変えられることはないのです。謂わば根本の所では「古い人間」が生きているのです。

 それに対して、聖霊による洗礼は逆立ちしても人間には施すことはできません。聖霊とは神の霊、キリストの霊です。それを思いのままに動かすことができるのは神さまだけ、キリストだけです。そして、水に対比される聖霊とは、神の働きでありキリストの働きです。使徒パウロは、私たちは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ロマ6: 3)のだと言います。キリストと結ばれる洗礼を受けたので「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(6:4)とはっきりと言いました。いいえ、キリストと共に死んだだけではありません。こう続けました。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:4-5)と。私たちは聖霊の洗礼によってキリストと共に死に、さらにキリストと共に新しい命を生きることになるのです。

 この恵みの洗礼は私たちが悔い改めたからいただけたのではありません。それが恵みであるのはあくまで無条件に、無前提で与えられるから恵みなのです。悔い改めはよいことです。必要なものです。しかし、それが立派に果たせたから、真人間の心を取り戻せたからご褒美として神の恵みを、つまり罪の赦しを、さらにはキリストと共に生きる幸いを与えられたのではありません。そもそも完全に悔い改めることなどできません。

 順序が逆さまなのです。恵みとしての聖霊の洗礼が授けられたから、キリストのほうからの一方的な救いが差し出されたから、弱さや欠け、破れ、総じて罪を抱えたままなのに罪の赦しを宣言していただいたから、罪人なのに無条件で神の子として受け容れられたから、不信心だったのに先に贖いとしてイエス様が十字架上で死んでくださったから、私たちはそのような恵みを受けるのに値しないにもかかわらずキリストの恵みをいただくことに心底驚きます。そして感謝します。そこから悔い改めの心が湧き上がるのです。「恵みから悔い改めへ」なのです。

 地上で生きるかぎり、悔い改めても、悔い改めてもそれでも私たちは罪を犯しますにもかかわらず、そういう私たちに十字架と復活の主イエス・キリストは赦しと愛とを与えられます。そのような、言葉に尽くせない神の恵みに全身を浸し浴させてくださることが「聖霊で洗礼をお授けになる」ことなのです。それによって、自力で生きようとする古い自己は死に、キリストの恵み、神の愛、聖霊との交わりによって生かされる新しい命を生きるようになるのです。

 のちに著名な牧師となった青年Aは、洗礼槽の中で気を失って溺れ、瞬間的に死を経験し、牧師館の一室で目が覚めたときに新しい生を歩み出しました。キリストと共に死に、キリストと共に新しい命を、新たなる生を生き始めたのです。これほどドラマティックな体験を伴うかどうかはともかく、私たちは皆このような聖霊の洗礼を受けたのです。あるいは招かれているのです。「主の洗礼」を記念するこの日に、主が授けてくださる洗礼の恵みを改めて思い起こしましょう。そうしながらこの新しい一年を一日一日生きて参りましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


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