2024年3月17日日曜日

礼拝メッセージ「復活に向かって」

2024年03月17日(日)四旬節第5主日  岡村博雅

エレミヤ書:31章31〜34 

ヘブライ人への手紙:5章5〜10 

ヨハネによる福音書:12章20〜33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所は私たちにとても大切な主イエスの真理を示してくれます。それは主イエスがご自身を完全な犠牲として神にささげられるということです。というのはエルサレム神殿で行われてきた昔ながらのやり方では、祭司が犠牲の動物の頭に手を置いて、人間の罪をその動物に移し、その動物を屠って焼き尽くすことで自分の罪が赦されるというものです。ユダヤ人はモーセの律法に遡るそういう形ばかりの贖罪を続け、その一方で「神の家」を金儲けの場所にしていました。

 しかし心あるユダヤ人たちは詩編51編17-19節のように真実の祈りを捧げてきました。「わが主よ、私の唇を開いてください。/この口はあなたの誉れを告げ知らせます。あなたはいけにえを好まれません。/焼き尽くすいけにえを献げても/あなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。/神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません」。このようにその昔から、神の求めるいけにえは砕かれた霊であり、神は砕かれ悔いる心を喜んでくださる方なのに、主イエスの時代には神殿礼拝はもはや形ばかりとなって完全に腐敗していました。

 神殿を本来の神の家の姿に立ち返らせるため、神殿商人たちを激しく追い出した主イエスに対して、ユダヤ人たちは、主イエスが宮きよめをする権威があることを示す「しるし」を求めました。それに対して主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたことを私たちは読んできました。今日は主イエスがおっしゃる「新しい神殿」、「まことの神殿」について聞いていきたいと思います。

 この神殿について、第一朗読で神は、「その日が来る」、「彼らは皆、私を知る」、「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」と言われています。すごい恵みです。

 そして第二朗読では、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました」。キリストは「完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となった」と高らかに宣言しています。

 今日の福音書箇所に入っていきましょう。まず注目するのは24節です。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とあります。

 「麦が死ねば」とありますが、現代人の見方からすれば、地に落ちた麦はもちろん死ぬわけではありません。しかし、麦粒が麦粒のままでいようとすれば、1つの麦粒のままです。麦粒が畑に撒かれ、自分を壊し、養分や水分を受け入れ、ほかのものとつながってこそ、豊かないのちが育っていきます。

 ここで主イエスはご自分を麦の種にたとえています。種は、まかれると種そのものは壊れてしまう。その時種は自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのではなく、自らを壊して、新しいいのちに育っていきます。この種の譬え、それは主イエスのいのちのあり方そのものではないでしょうか。主イエスは、死を超えて、神とのつながり、人とのつながりに生きようとなさいました。

 そこにまことのいのち、永遠なるいのちが芽生えて、やがて想像を絶するほどの多くの実を結びます。種の中がすべてと思っていたときからは想像もつかないような、栄光の世界、復活の世界、神の国の世界が現れてきます。

 ではこの種は私だと思ってみてはどうでしょうか。新しいいのちのことは、種が種のままでいたら分からない。ここから永遠のいのちが生まれて、そこに、本当の私が誕生していくのだということは分からないでしょう。永遠のいのちの誕生を知らないままに、いくら種の中で考えても、種の意味など何も見いだせないということが、分からないわけです。

 昨日たまたま、ALSやパーキンソン病の方の報道番組を見たのですが、たとえば「もう死にたい」と言っているのは、「こんな種はもういやだ」と言っているようなものだと思いました。「死ぬのが怖い」と言っているのは、「この種が失われるのが怖い」と言ってるようなものです。

 どちらも、種の中の話に過ぎません。その種を脱ぎ捨てて、神さまのまぶしい栄光の世界に生まれ出て行ったときのことを考えずに。暗い種の中で、種の中のことしか考えてない。私たちっておうおうにしてそんな日々を送っているといえないでしょうか。

 またヨハネ12章32節で、主イエスが「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と言っておられますね。

 主が「すべての人」っておっしゃるのですから、千人いたら千人、万人いたら万人、「ひとりも残さず」です。「ひとり残らず、自分のもとへ引き寄せよう」というのが、イエスさまの約束です。この主イエスの約束をこころに受け入れて信じるのがキリスト者です。

 「地から上げられるとき」というのは、つまり、「十字架と復活のとき」ですね。主イエスは真っ暗な夜、凍った冬をくぐり抜けて、そして、桜が満開のような喜びの日々を、私たちにもたらしてくださいました。私たちは、この希望を新たにします。

 「すべての人を」、「みんな引き寄せよう」と言われる。本当にありがたいです。

 「ああ、一人こぼれた」とか「一人落ちたようだけれど、まあいいか」とか、そんなことは、あり得ないわけです。「すべての人を、もれなく、主のもとに引き寄せてくださる。神がなさること、主イエスがなさることですから漏れも抜かりもありません。

 信仰って、単純なことなんですね。シンプルなものなんです。あんまり複雑にしてはいけないものです。私たちはちょっと考え過ぎる悪い傾向があって、恐れたり、悩んだり、いろいろ考えていろいろ言いますけど、「素直に」でいきましょう。私もこの14日にこれまで検査を受けてきた結果が出て、正式に「パーキンソン病」という診断が出ました。でも。大丈夫、大先輩方が前を歩いてくれていますし、何しろイエスさまがいつも一緒にいてくださり、一番いいことをしてくださる。とはいうものの人間としての不安は消えませんが、聖霊の助けがあり、力づけてくださいます。主を信じて安心しておまかせしようと思います。

 神は愛そのものですし、主イエスは、すべての人を、どんなダメな人でも、ご自分のもとに引き寄せてくださる。それはもう、「その人のあらゆる条件を超えて」です。もちろん、人間である私たちは、どうしてももっといい人になろうとか、もっと上手にやろうとか考えますが、それはそれでよしとしましょう。でも、そういう行いとか努力とかいった一切のことを圧倒的に超えた「神さまの愛の大きさ」っていうものを、素直に受け止めましょう。

 私たちは、「主イエスは復活した。神はすべての人を復活させてくださる。私たちもみんなで、天の国で喜びあえる」と、そういう本質を素直に信じましょう。確かに今はまだ、戦争の悲惨の中にいて忍耐している人々がいる、飢餓の中で助けを求めながら忍耐している子どもたちがいる、自然災害の困難な生活の中で忍耐している人々がいる。私たちもそれぞれなにか忍耐していることがあるんじゃないでしょうか。気候にしても、ちょっと寒かったり、ちょっとつらかったりしますけれど、それは、やがて復活の栄光の世界がくるっていうことのしるしです。

 今日はこの後で二見茜さんの召天後1年記念の祈りを行います。1年前の2月末に病床で洗礼を受けた茜さんは、いのちの神秘を悟って、3月17日に永遠のいのちを信じて召されました。そして今日は茜さんの記念の祈りのあと、茜さんが作ってくれたきっかけで湯河原教会に通い始めたお母様の二見美保子さんの洗礼式を行います。このように母と娘が同じ日に天の祝福を受けることになりました。この日は神が備えてくださったもの、天からの祝福です。

 最後に私のことも付け加えさせていただくなら、今日は私が湯河原教会の牧師として、引退前の最後の説教をさせていただいた日です。この日を洗礼式で締めくくれる。このような破格の恵みを主は与えてくださいました。主イエスの父なる神さまは、まことに、恵みの神、憐れみと慈しみの愛の神です。皆さん、この神を信じて決して間違いはありません。感謝です。本当に感謝です。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

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