2024年5月5日日曜日

愛の連鎖の始まり  江藤直純牧師

使徒言行録 10:44-48; ヨハネの手紙一 5:1-6; ヨハネによる福音書15:9-17

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 すっかり日本語に定着していると思われる言葉の一つに「愛」「愛する」というものがあります。「えっ、どうして定着などと言うのかな?」と思われるでしょう。なぜなら、当然昔からあった言葉に違いないと思われるからです。たしかにありました。使われていました。親子関係、男女の関係は昔も今もあったのですから。

 しかし、日本で長いこと支配的な道徳であった儒教の教えではその徳目に愛という言葉は余り出て来ません。南総里見八犬伝の八つの玉が表わす八つの徳目は、仁義礼智忠孝信悌でしたし、五倫とは父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信です。五常とは父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝だそうです。今やほとんど聞くことのない徳目で、目指された社会秩序も今とは異なります。だから、愛という言葉がここにないのは驚くに足りません。

 それだけではなく、江戸時代の仏教の教えでは、愛は愛欲とか渇愛(水を欲しがるような強い欲望)といった熟語が示しているように、愛とは対象に対する強い欲望或いは執着のことで、迷いの根源とみられていました。そうなると、愛という言葉にポジティブな意味合いを感じ取ることはできないことになります。

 だからでしょうか、キリシタンの時代に宣教師たちが選んだ愛(アガペー)に当たる言葉は、意外に思われるかもしれませんが、「御大切」でした。大切に思うという当時あった言葉です。神の人間に対する愛であり、キリストが身を持って示した愛、私たちの生き方として勧めた愛を表わすのが「御大切に」でした。1600年に長崎で出版された教理書「どちりな・きりしたん」には、あの有名なマタイ福音書22章にある「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」という最も重要な教えを「万事をこえてデウス(神)をご大切に思ひ奉る事と、我が身を思ふ如くポロシモ(隣人)となる人を大切に思ふ事、これなり」と当時の日本語で語られています。「神を愛する」ことを「デウスをご大切に思ひ奉る」と言い、「隣人を愛する」ことを「隣人となる人を大切に思ふ」と言っていることから、「ご大切に思う」という言葉が「愛する」ということだということは明らかです。なぜ、愛という語が選ばれなかったのか。それは愛という当時あった日本語にはネガティブな響きがあり、キリスト教が伝えたい愛、神の愛を表現するのには適切でないと思われたからだと思われます。

 しかし、明治になって文語訳聖書が作られたときには、キリスト教的、聖書的な意味でアガペの愛を表わす日本語として「愛」が選ばれたのです。その代表例が「汝の隣り人を愛せよ」です。明治初期のキリスト教指導者たちは武士の階級の出身が多かったのです。ですから日本文化の伝統の中にあったニュアンスを承知の上のことだったでしょうに、西洋文明に触れ、キリスト教を広めたいと願った彼らは言語学にも優れた宣教師たちと共に敢えて、大胆に「愛」という言葉を使ったのです。漢訳聖書も参考にしたでしょうが、詳しい研究は私も今はまだ不十分です。現在では広辞苑にも明解国語辞典にも載っていない「隣り人」という日本語を隣人に当て嵌めたのも聖書翻訳者たちや当時のキリスト教指導者たちだったと思われますが、その新鮮な言葉を用いて「汝の隣り人を愛せよ」と訴えたことはどれほどインパクトが強かったことでしょうか。

2.

 その愛ですが、私たちは愛というものは一人ひとりの心の中の思いなので、謂わば各人の意思とか主体性とか感情の問題だと考えがちです。愛するのは愛そうという意思があるからとか、愛そうという感情が豊かにあるからという具合に、その人の責任とか資質と結びつけてしまいます。でも、はたして常識とも思えるその考えは正しいでしょうか。

 今では毎日その言葉を聞かない日はないほどに普及しているDV、ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)ですが、大人同士の場合も、つまり夫と妻ないしパートナー同士の場合もありますが、親子の場合も少なくありません。DVは肉体的な暴力だけでなく、言葉による精神的心理的な暴力もあれば、育児における無視・無関心・否定的な関わりつまりネグレクト、さらには憎しみなどの暴力もあるのです。親ならば子どもを愛するのは当たり前だろう、人間だって動物だって母性とか父性が備わっているだろうと長いこと思われてきました。しかし、実際はそうではありませんでした。先天的に持っていると思われてきた親としての愛情がない、子どもへの愛に満ちた接し方が分からないというDVの親は少なくないのです。いいえ、それどころか調べてみると、加害者つまりDVする親のうち自分自身がDVされた犠牲者だった人はかなり多いのです。子どもの時にDVされているので、つまり愛されていないので、今度は自分が愛する立場になってもいったいどうやったらいいか分からない、どう関わりどう接することが愛することなのか分からないというのです。そうこうしているうちに相手や子どもが思い通りにならずにDVをしてしまうのです。愛するという力は先天的なもの、遺伝的なものだけっでは十分に育ちません。自分が愛されてはじめて人は他者を愛することができるようになるのです。

 「三つ子の魂百までも」と言われてきました。三歳になるまでに、おむつが濡れて不快なときに泣けば新しいおむつに替えてくれて気持ちよくなり、お腹が空いたときに泣けばおっぱいをもらえてお腹は満たされる、それだけではなく、自分の存在を大切にしてもらい、かわいがられ、愛されることを日々の生きる経験の中でしっかりと身に着けることができたら、その子はそれからの長い人生を、人に信頼し、人を愛し、周囲の人々の中で安心して生きていくことができるようになるのです。

「愛された者だけが愛することができる」という言葉は真実だと思います。別な言葉で言えば、「愛は連鎖する」ものだと思うのです。

3.

 ところで、本日の福音書の日課では聖書の中心的な教え、愛に関わる教えが二度も繰り返されています。どなたもが一度や二度どころか、何十回何百回と聞いてこられたあの教えです。12節では「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」、そして17節にもう一度、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と念を押すように繰り返されています。実は13章の34節にもイエス様は同じことをおっしゃっています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。しかも、ここにはこの掟は「新しい掟」だと言われているのです。

 さて、皆さん。この教えのいったいどこが「新しい」のでしょうか。ご存じのように旧約聖書の中に極めて大切な教えが二つ含まれていて、その二つをイエス様ご自身も弟子たちにもまたファリサイ派や律法学者たちにも教えておられます。その二つですが、一つは申命記6章の5-6節です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたがたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。そしてもう一つはレビ記19章18節です。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」、これです。神を愛することと隣人を愛することはこのように聖書に一貫しているのです。

 そして、後者の隣人愛の教えには「互いに」という言葉は出ていませんが、私が隣人を愛する、その人もまた隣人である私を愛する、そうすると、「互いに」に愛することになるではありませんか。そうすると、あの二つの中心的な教え、神を愛することと隣人を愛することは神を愛することと互いに愛し合うこととも言えることになります。そうであるならば、この互いに愛し合うようにとの昔からの教えのいったいどこが「新しい」のでしょうか。そこを考えてみましょう。

 一つは、ここで言う愛は人間の生まれ持った自然の情、男女や家族のうちの情愛と言ったものや、かわいらしいもの美しいものを愛でる心ではないということです。400年以上前に宣教師や日本人の伝道者たちが「御大切」と呼んだものは、そのような自然の優しい感情以上のものでした。相手を、その人の人格や命、生活、人生を、あるいは心、からだ、魂をどこまでも大切にすることでした。相手への好き嫌いの感情とは無関係にどこまでも無条件で相手を受け入れ、認め、生かし、尊ぶことでした。そのために相手の欠けや喪失、痛みや嘆きや悲しみ、苦しみがあればそれを自分を捨てて、自分自身に引き受けてでも、その人を少しでも癒し、補い、助け、救い出すのです。罪の束縛からの解放は中でも大きいものでした。

 日本中のおおかたの子どもたちが大好きなアンパンマンを思い出してくださいますか。アンパンマンは困っている人を救うために何をしますか。テレビや本の世界には悪と戦い悪人をやっつけるいろんなヒーローが登場しますが、アンパンマンには彼らとの大きな違いがあります。決定的な違いがあります。相手が誰であれ、困っていたら、お腹が空いていたら、アンパンマンは自分の顔を惜しみなく食べさせるのです。彼の頭はあんパンでできているのです。それを食べさせるのです。自分が持っているものをではなく、自分自身を差し出すのです。言うならば自己犠牲です。

 原作者のやなせたかしはクリスチャンなのだと耳にしたことがありますが、ちょっと調べたくらいでは証拠は見つかりませんでした。お墓はお寺にあるそうです。やなせたかしがクリスチャンであるにしろないにしろ、アンパンマンの精神、彼の生き方はまさに聖書的です。自己を無にして相手を救うのです。相手を御大切にするために我が身を惜しまず相手に差し出すのです。キリストの愛、キリストを遣わされた父なる神の愛は相手を生かすために、相手を救うために、自分を投げ出す愛、差し出す愛でした。神が私たちのために人となり、十字架にかかるという愛でした。ヨハネ福音書が伝えているキリストの言葉、「私があなたがたを愛したように」というのはどのようにかと言えば、見返りを求めず、無代価で、相手の価値などには一切無関係に、ただひたすらに相手のために自分を、自分の命さえも差し出したようにということでした。このような愛の質こそが何よりキリストの愛の「新しさ」なのです。

4.

 もう一つの「新しさ」、それは私たちの愛には連鎖がありますが、その連鎖の始まりを明確にしている点です。DVの例で申し上げたことですが、私たち人間の愛の連鎖は強固ではありません。悲しいことですが、愛の連鎖はもろく、途絶えることがあります。しかし、愛されたら愛するようになるのです。愛の連鎖が始まるのです。

 三つ子の魂百までもという諺も、愛された者だけが愛することができるという言葉も紹介しました。自分は愛されている、そしてそれゆえに自分は愛していくのだというその信念、確信、価値観があれば多くの困難にも耐えていけます。しかし、余りに大きい困難に襲われると、愛されているという確信が損なわれ、愛する力が萎えさせられるのです。生きていく力が失われることさえ起こるのです。DVに見られる悲劇はさらなる悲劇を生みます。程度はともかく私たちは愛の連鎖が弱ったり切れたりするときに人生の生きづらさを味わいます。

 そういうときにイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じられます。ここで「わたしがあなたがたを愛したように」の「・・ように」に注目すると、「どのように」愛するのかという愛し方を手本を示しながら教えようとしていらっしゃるように聞こえます。もちろんこれはどのようにということも含みますが、ここで注目すべきは何よりも、イエス様が私たちを愛されたという事実そのものです。と言うことは、他の誰が愛してくれていなくても、イエス様は、イエス様だけはこの私を愛してくださったという事実です。私にとっての愛の連鎖の始まりは、大元は、根源はイエス様だということです。

 今日の福音書の日課の冒頭、9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」とおっしゃっています。そのことを別の箇所ではもっと力強くこう言われています。16節です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」のだと。まず私があなたがたを選んだ、先ず私があなた方を愛した、まず私があなたがたを御大切にした。その挙げ句、ご自分を捨てて十字架にかかり、そうです、そうやって私の命を贖ってくださったのです。これ以上の御大切にする方法はありません。

 人間の間でだれ一人私を愛してくれる人がいなくても、イエス様は愛してくださったのです。愛してくださっているのです。そして、その結果、その関係は愛する者同士のこれ以上ない親しい、対等な、全く新しい間柄になったのだと宣言なさったのです。「あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(14)と。

 愛とは心の中の思い、情緒的なものにとどまるものではありません。愛は命の営みに現れてきます。生き方にならない愛はありません。ヨハネはイエス様の次の言葉を書きとどめないではいられなかったのです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(16)に、そのため主は私たちを任命なさいました。外に出て行って愛の実を結ぶようにする。愛の実が残るようにする。実からまた新しい命が生まれてくる。芽が出てくる。花を咲かせる。実を成らせる。そうです、愛の連鎖が続いていきます。

 「互いに愛し合いなさい」、二度重ねて言われたこの言葉は最初は「掟」、二度目は「命令」と言われています。しかし、この掟にも命令にもそれを守れなかったら罰せられるという恐ろしい響きは全くありません。これは愛する者に対しての新しい生き方への喜ばしい「招き」なのです。今日の第二の朗読の少し前、ヨハネの第1の手紙の4章には招き、呼びかけということがはっきり分かるように書かれています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(Ⅰヨハ4:7)。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(4:11)。福音書記者ヨハネはイエス様の言葉だけを書き記していて、それに対する弟子たちの応答は書き残してはいません。しかし、私は確信しています。今日の日課に記されているイエス様の語りかけ、呼びかけ、招きを聞いた弟子たちは間違いなく異口同音にこう言ったことでしょう。「アーメン、まことにその通りです。私たちはそういたします」と。私たちもまた弟子たちと共に応えましょう。「アーメン、まことにその通りです。私たちもまたそういたします」と。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン