2023年7月30日日曜日

礼拝メッセージ「天の国は」

 2023年07月30日(日)聖霊降臨後第9主日  岡村博雅

列王記上:3章5〜12 

ローマの信徒への手紙:8章26〜39 

マタイによる福音書:13章31〜33、44〜52

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所は、マタイ13章1節から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分です。13章のたとえは、主イエスのもとに集まってきた、まだ「天の国」とはどのようなものかに気づいていない人々が、主から「天の国」のたとえ話を聞きながら次第に「天の国」についての気づきを深めていくプロセスを描いています。

主イエスは神の国(天の国)はもうあなたがたのところに来ていると言われますが、私たちも主のたとえ話によって天の国(天の国と神の国は同じ意味です)への理解を深めたいと願います。

 まずからし種とパン種のたとえですが、「からし種」は直径1~2ミリのごく小さな種です。それが成長すると鳥が巣を作れるほどの3~4メートルの木になります。主は、天の国は、からし種のように、初めはごく小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになると語りました。

 主イエスはつねに批判や疑問に晒されていました。当時の人々にとって、主イエスの天の国(神の国)というメッセージは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるというようなメッセージに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、主イエスの周りに集まった人々はみすぼらしく、弱々しく、ローマ帝国を打ち負かすような神の国からは程遠いと感じられたことでしょう。しかし、主イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。

 そして「パン種」(イースト菌)、これも同じ意味のたとえ話です。パン種をパン粉に入れれば、発酵作用によってパン全体が大きく膨れます。「主イエスの周りに集まる小さな、弱々しく見える人々の集いは、社会全体を神の国に変えていくパン種だ」というわけです。

 このように主イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神、全ての源である神への信頼を求めているのです。

 このたとえ話を読んでいると、主イエスがきっとよく通る声で「あなたがたは、からし種だ!」、「あなたがたはパン種だ!」とにニコニコとたのしそうに話される姿が思い浮かんできます。

 つぎの3つのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。「畑に隠されていた宝」と「真珠」(天然真珠は当時ペルシャ湾やアラビア海沿岸でよく産出した)のたとえ話はよく似ています。この2つの宝のたとえ話では、「天の国」という宝を見つけたら、その人は「持ち物をすっかり売り払ってでも、それを買う」といいます。つまり「天の国」は人間にとって最高の宝だから、あなたがたは何にもまして「天の国」を求めなければならない、と教えているように受け取れます。他の解釈は可能でしょうか。

 それにしても、私たちにとって本当の宝とはなんでしょうか。 すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか。

 最初のたとえでは、当時の決まりが背景にあります。当時は貴重品を土の中に蓄えておくのは最も安全なこととされていました。また、土の中にお金や貴重品を見つけた場合、見つけた人がその拾得物の権利を持つとされていました。

 主イエスはこんな問いかけをしたのだと想像します。ある小作人が、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見した。(その宝を持ち帰ってよいのに)彼は、宝は隠したままで、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、畑そのものを手に入れた。それはなぜだと思うか。主はそのように問いかけたかもしれません。

 「畑」を自分自身のたとえだとすると、彼が見つけた「畑に隠された宝」とは、自分自身のうちに隠されていた宝だったとなります。だとすると、それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れたことになります。彼はもはや小作人にとどまっているのではなく、主体的に生きる、自立した農民になることに目覚めて、それを全てをかけて実現したということです。

 別の解釈も考えられます。それは「畑に隠された宝」や「真珠」を私たち人間のことだと受け取ることです。ちなみに、47節以下の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が漁をする魚です。人間が神を求めるよりも、神のほうが私たちを探し求めている、そう考えてみるとまったく別の面が見えてきます。

 このように考えた場合、「持ち物をすべて売り払って」というところも別なニュアンスを持つことになります。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした。それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)、「主イエスは私たちのために命をささげてくださった」ということを連想させます。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にないことです。

 この漁のたとえですが、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。福音記者マタイは「救いの歴史」というものを念頭にしていたと言われます。それはまず、「旧約時代の律法や預言」が現れ、次に主イエスによる救いが実現し、教会の時代となり、最後に世の終わりの裁きがある」というものです。

 このマタイ的な解釈の部分を取り除くと、本来のたとえは47節「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけだったとなります。そうだとすれば「神がどんな人をも招いている」、というところにこのたとえのポイントがあることになります。

 49節以下では、世の終わりについて言われますが、このことは今の私たちにとってどんな意味があるでしょうか?カルト宗教は、終末の裁きを悪用して、人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールしようとします。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。

 神の判断では何が「良し」とされるのかを明確に示して、その神の判断にかなう生き方をするように私たちに決断を迫るメッセージです。すべての人が招かれている、と同時に、だれもがその招きにふさわしく応えるかどうかが問われるということです。主イエスの福音にはこの2つの面があり、両方とも欠かせません。

 51節の「天の国のことを学んだ学者」とは、主イエスが語る天の国の教えをよく理解した弟子たちへの褒め言葉です。そして、それがすべての弟子のあるべき姿だというのです。

 続く52節の「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はもちろん、主イエスご自身のことでしょう。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとは主イエスによってもたらされた天の国の福音と考えることができます。私たちはこの主イエスに「似ている」というのです。

 最後に今日の第一朗読と第二朗読に触れます。そこには聖書の登場人物がいったい何を一番大事にしようとうとしたのか、何がその人の宝なのかが書かれていると思います。

 第一朗読の列王記3章では、ソロモンが父ダビデから国を受け継ぎますが、彼は自分が取るに足らない若者だということが分かっていて、それについて主なる神と対話しています。すると神が「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と述べます。「知恵に満ちた賢明な心」というものが、ソロモンにとって一番の宝だったことがわかります。

 第二朗読のパウロのローマの信徒への手紙8章では8:29「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」とあります。

 神は私たちを招き、私たちはイエス・キリストの兄弟になっていく。そして義とされる。罪人がキリストの十字架によって救われ、義人とされる。この義というもの、これがパウロにとって最も大切な宝なのだと思います。

 神は、必ず私たち一人ひとりの中に素晴らしい宝物を与えてくださいます。それはなんでしょうか。それが主イエスであり、永遠の命の約束であるなら、もしも本気でその宝を受け取ることができるとすれば、それはどれほど大きな恵みでしょうか!

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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