2023年7月23日日曜日

礼拝メッセージ「終わりよければ」

 2023年07月23日(日) 聖霊降臨後第8主日

イザヤ書:44章6〜8 

ローマの信徒への手紙:8章12〜25 

マタイによる福音書:13章24〜30、36〜43

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイ福音書13章には天の国(=神の国)のたとえが集められています。今日の箇所は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続いて、主イエスは終わりの日における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に私たちの目をむけさせていると考えてよいのではないかと思います。

 今日の箇所で、主イエスは「毒麦を、そのままにしておきなさい」とおっしゃいます。この優しさは福音だなあと、ホッとします。

 確かに毒麦にたとえられるような悪い人はいない方がいいに決まっていますけれども、この世の中から悪い人を一人、また一人とすべて取り除いていったら、はたして誰か残る人はいるでしょうか。もはや誰一人いないでしょう。私たちはだれも、神の前には相当な毒麦ですが、天の父は、そんな私たちを忍耐して、育ててくださっています。私はそこに感動しますし、感謝します。

 植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、主イエスが「毒麦」を「罪人」の意味でたとえておられるなら、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってありえます。これは単なる寛容の教えではなく、ここに、誰をも切り捨てない神の国のあり方が示され、主イエスご自身の生きた姿が感じられます。

 主イエスはこのたとえを通して、「そんな毒麦だらけの畑を、天の父は、ちゃんと最後には良い畑に変えてくださる」とおっしゃっているのです。終わりよければ・・・と思った次第です。私たちはそこに希望を置いて、信頼を置いて、毒いっぱいの世の中を、助け合って生きていきましょう。みんなで信じあって、「どんな毒でも、最後には良いものに変える」という神の働きのお手伝いを、少しでもやってまいりましょう。

 私は、自分の中に毒がいっぱいあるのを、よく知っています。先週のローマ書7章でパウロは自己分析をして、「私の五体の内は罪の法則のとりこになっている」(23)。「私はなんと惨めな人間だろう」(24)と告白しています。私たちは子どものころからずっといろんな毒を持っているし、その毒を使わないことはできたとしても、いくら努力してもそれを無くしてしまうことはできません。

 私の場合、もういろいろな方に助けていただいてなんとかやっていますが、すまない気持ちがあるのに、すぐに忘れてしまうとか、やるべきことがなかなかできないとか、皆さんからの寛容と忍耐に日々感謝すること抜きには暮らせません。

 ところで「教会」という場所について思いますが、教会の外の人から見れば、教会は善良な人たちの集まりで、つまり良い麦ばかりで何の問題もない理想的な場所だと思われているようですが、その実はお互いが毒をはらんでいながらも、一緒に育っていくところであり、やがては良い麦畑に変えられていく所です。だからそのことを信じて、お互いを大切にして受け入れ合っていく。完璧ではないけれど、そんな麦畑として存在していると思います。だからこそ、教会は神の国のしるしになりうるのでしょう。

 第1朗読のイザヤ書44章8節で神は「わたしをおいて神があろうか、岩があろうか」と、私を頼りにしなさいとおっしゃり、あなた方はわたしの証人として「恐れるな、おびえるな」と言っておられますね。そんなふうに神は人間を愛おしむ方だとわかります。

 一方、毒麦のたとえの説明の箇所(13:36〜43)では、終わりの日には裁きがある、だから、それに備えなさいと言われています。この部分は後世の教会の考えも入っている箇所だとも言われますが、こうした箇所を黙想するなかで、私にはマタイ5章48節で主が、「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」と言っておられることが浮かんできて、それを思い巡らしました。

 神は、「初めであり終わりである」(イザヤ44:6)とおっしゃるように、いわば100パーセントの方ですね。神は「すべて」であり、神にあっては「だいたい」ということがありません。

 しかし私たち人間はそこそこの存在です。毒をはらんでいますから100パーセントというわけにはいきません。でも神には私たちが毒をはらんでいることを認めていただいて、存在することを認めていただいています。

 心の内のことで言うなら、人間が神の前に100点で人生の締めくくりを迎えるなんて無理でしょう。卓越していると言われるような人でも10点くらいは毒なんだと思います。誰でもがそうですから、その足りない10点を裁き合ったら、誰も存在し得ません。

 私たちは100点でありたいと自分でも願うし、100点であってほしいと、人にも願いますけれど、80点くらいで、お互いになんとかやっていくというのが、神の国への道なんじゃないでしょうか。やがては神が、100点にしてくださるから、後の、この10点、20点くらいは、やり切れないままでもいいよと、「そのまんまでもいいよ」ということじゃないでしょうか。

 神は私たちの世界によい種をまき、その成長をいつくしみと忍耐をもって見守っておられます。だから、主イエスは愛をもって私たちの高慢をとがめ、寛容をもって私たちを裁き、深い憐れみをもって私たちを治めてくださるのです。そうして私たちに希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになるのです。私たちは、まだまだ毒だらけで、易きに流れがちですから、主はあなたがたは「完全な者をめざしなさい」と心を高くあげるようにと諭してくださるのです。

 神は私たちのような、不十分な者を神の子として、「忍耐をもって」、大切に「見守って」くださいます。そのまなざしの中で、私たちはようやく生き延びているのではないでしょうか。お互いにそうだと思います。

 そういう私たちが招かれている私たちの教会はそのように、「忍耐をもって大切にし続ける」という神の国そのものです。そうあり続けましょう。

 「100でない者は、終わりだ」と裁くような世の中ですけれども、私たちは、神の愛のしるしになれます。なにか「立派な愛のわざ」を行うと言うより、「寛容に受け入れるわざ」「忍耐し続けるわざ」に励むと言うほうが、より、神を表すしるしになるんじゃないでしょうか。私たちはそういう教会をイメージしながら希望を持ってやっていきたいと思います。

 この毒麦のたとえで、しもべたちが、「抜きましょう、抜きましょう」と言いますけれど、もし本当にその毒麦を抜いてしまうと、つまりもし神が毒麦を「抜く」と決心なさると、この私はもう存在しないんだということ、この事実は、やはり忘れないようにしたいものです。

 高慢な者を神はいさめられます。私たちは自分の力で存在しているのではないですね。神の忍耐によって存在している。「こんなに毒でありながらも」という、その神の恩というのか、その忍耐への感謝というのか、それをやはり、決して忘れずに、「だからもう、このあと20点くらいは、この人のここをゆるそう」とか、「受け入れよう」とか、そういう思いを大切にしたいですね。

 それができるのだということを、第2朗読で、パウロが言っています。「私はなんと惨めな人間だろう」と自分自身に絶望したパウロが、しかし、確かな希望の光をみつけて、この私を救ってくださる「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(7:25)と述べています。

 そしてこのローマ書8章の箇所では、自分の力や努力によっては弱い自分はどうにもならないと一度は絶望したパウロが、人を助け、道を開いてくださる霊の助けがある。神の聖霊の助けによって救われる確かな希望があるということを宣言しています。

 皆さん、ローマ書8章26節を見てください。「“霊”は、弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」とあります。 

 これは実にありがたいですね。弱い私たちは、もう、どう祈るかも分からなくなる。時には、毒に満ち満ちているような心になったりしているけれども、そんな私たちのことを、どこまでも承知の上で、“霊”は、私たちの内に宿ってくださる。一所懸命に、神に祈って、執り成してくださっている。こちらがそのことに気付いていなくてもです。この聖霊の忍耐と寛容、ありがたいです。本当にありがたいです。そのおかげで今日までやってこられたし、そのおかげで、これからもやっていけると思うからです。私たちは聖霊の助けによって終わりの日まで本当に安心です。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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