2023年7月9日日曜日

礼拝メッセージ「安らぎを得る」

 2023年07月09日(日)聖霊降臨後第6主日  岡村博雅

ゼカリヤ書:9章9〜12 

ローマの信徒への手紙:7章15〜25 

マタイによる福音書:11章16〜19、25〜30

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

   今日の福音箇所では洗礼者ヨハネや主イエスを受け入れなかった人々のことが語られています。いつの時代もと言えるかもしれませんが、当時、主イエスを受け入れた人々と受け入れなかった人々がありました。そのような中でも、主イエスは祈り、人々を分け隔てなく招いておられます。今日は主によるこの大きな招きをご一緒に味わいたいと願います。

 マタイは25節で「知恵ある者や賢い者」が主イエスを受け入れなかった人達で「幼子のような者」が主イエスを受け入れた人達だと言います。当時の知恵や賢さは律法に関する知識を意味していましたから、イエスを受け入れなかった者とは世間で評価されているファリサイ派のような人であり、一方「幼子」とは無知な者や無能力者のことを指しますから、「幼子のような者」とは貧しく無学な民衆のことを指しています。つまりマタイは世間的な評価を受けない人々こそが主イエスを受け入れたと言うのです。

当時の人々は罪人(ざいにん)として処刑されて終わった主イエスの活動は人間的には失敗だったとみなしたかもしれません。しかし、主は人の評価ではなく、神の意志の実現を見すえておられました。

「天地の主である父よ、・・・」という主イエスの柔和でへりくだった祈りは主キリストが屠り場に引かれていく子羊のように自分の運命を自ら受け取っていく、十字架を担っていくという、そういう姿を現していると思います。

27節で「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と言われていますが、この言葉はヨハネ福音書の「わたしを見た者は、父を見たのである」(14:9)という言葉とも重なっていると思います。

また「子が示そうと思う者」という言葉は、主イエスご自身の思いが何よりも「幼子のような」と言われる貧しくて無力ながら救いを求めている民衆に向けられていたということを示しています。主は祈りの中で彼らへの神の思いを見いだし確信していたのです。

28-30節はこの慈しみあふれる「幼子のような者」への祈りとその中で得た神の思いへの確信に基づいて、主はこの私たちにも、全ての人に対しても呼びかけています。

「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉と思いに感動します。そしてこう言いたいです。皆さん、主のことばに癒やされてください。どうぞ「ほっ」としてください。今抱えておられる重荷をおろしてほっとすることを現代の私たちはどれほど必要としていることでしょうか。

しかしおいそれとその重荷を放り出すわけにはいきません。ですから、今の状況をなおも生き抜いていくために「わたしの軛を負いなさい」と主はおっしゃいます。あなたが背負っているあなたの十字架を拒まずに負いなさい。そして私にも共に担わせてくださいと主はおっしゃいます。私もあなたの軛を負うのだから、あなたの重荷は軽くなる。必ず神の知恵が与えられる。神の助けがあると信じて、さあ、まず魂において、その重荷を私に委ねなさいとおっしゃいます。きっと「ほっ」となさるでしょう。

私は先週、「もう死んでしまいたくなる」と嘆きながら、それでも懸命に重荷に堪えて、日々の歩みを進めておられる方のお話を伺いました。状況は複雑で、話を伺ったからと言ってこれといった解決はまだ何も見えませんが、「休ませてあげよう」という主の救いのことばにより頼んでご一緒に祈りました。

そして私は「休ませてあげよう」という主の言葉を信じて、主が共に負ってくださるのだから、大丈夫と信じて、きっとその方の軛は軽くなると信じて、主による希望をもって、今日も祈り続けています。

さて第一朗読の箇所では「あなたの王が来る」と「平和の王」の到来が告げられていますが、9章9節にその方は「神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る」とあります。

この「高ぶることなく」と訳されたヘブライ語の「アナウ」は、もとは「身をかがめ小さくなっている人の様子を表す」のだそうです。ですからこの語は経済的に圧迫されていたり、人から虐げられて苦しんでいる人という意味で「貧しい人」と訳されることが多いそうです。

マタイ11章29節に「わたしは柔和で謙遜な者だから」とある「柔和」はこの「高ぶらない者」というザカリヤの預言につながります。

そして「謙遜」と訳された語は直訳すれば「心において身分が低い人」となるそうです。これも「身分が低い」「小さくなっている」という意味です。

こうしてみると主が「わたしは柔和で謙遜な者だ」とおっしゃるのは、つまり主ご自身が「わたしは柔和で謙遜だ、高ぶらず、貧しく、小さくなっている者だ」と言っていると受け取ることができます。そしてこれはゼカリヤ書が告げる「神に従う平和の王」の姿に、人類の本当の指導者の姿に重なるものです。

なりふりから威圧されず、自分たちの仲間だと親しみを感じる主イエスから「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という招きの言葉を聞いた小さくされてきた人々は、安心して主イエスに近づくことができたのではないでしょうか。

当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいましたが、そういうラビの弟子になるのは難しいことでした。しかし主イエスの弟子になるのには何の備えもいりません。「わたしに学びなさい」、「わたしの弟子になりなさい」と、主は父なる神の慈しみに満たされて、疲れた人、重荷を負う人、また貧しく身分の低い人々を心から招かれました。

最後に第2朗読のローマ書7章を見ておきたいと思います。パウロは6章までは誰もが陥る罪の問題を描写しましたが、7章では主キリストを信じる自分自身の恥部をえぐり出します。主キリストによって犯した罪を赦されて、さらに罪を潔められる段階に達しようとするキリスト者としてのパウロが自分の目に写った自分自身の罪の姿を自己分析しながら描写しています。

ある説教者はこの文章を読むと、まるで精神分析の文章のようで、現代の我々も、これほど精密な自己分析はなし得ないのではないかと思うと言います。パウロは「善を望んでいる私の中に、それを阻むもうひとりの私がいる。それこそがわたしの中に住んでいる罪なのだ」と言います。

つまりパウロの自己が自分の中で分裂しています。自己が一本になっていない。そしてこれはわたしたちが胸に手をあてて考えるときに、どうしても認めざるを得ない、思いあたる節があることではないでしょうか。自分の中にいるもうひとりの自分が、頭をもたげて、キリスト者の自分が望まないことを考えたりしたりするわけです。

キリスト者のパウロは自己分析をして「善をなそうと望む自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づく」と言います。「内なる人」としては神の律法を喜んでいるが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かると告白します。

ここまで追い込まれると、とても人間の努力などでは乗り切れないということがわかります。そして24節で彼は誰はばかることなく苦悶します。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか」と。

このみじめな人間が、今救いを求めてイエス・キリストに呼ばわっているというのが七章の結末です。しかし嘆いて終わるのでなく、続く8章で、パウロは私達の内に宿っている神の霊に基づいて生きるという大きな希望について語ります。

キリスト者としてパウロは神学的に語りますが、福音書の主イエスは恵みと慰めに満ちて「休ませてあげよう」と神の親心の愛と憐れみを告げてくださいます。主イエスがおっしゃるとおり「休ませてあげよう」という言葉にとどまって、力んだりとか、無用なことに空回りするのでなくて、神が与えてくださる導きを、その慰めと安らかさをいつも拠り所にして、本当に大切なことを見極めて生きることができるようにお祈りしたいと思うしだいです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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