2023年7月16日日曜日

礼拝メッセージ「降り注ぐ恵み」

 2023年07月16日(日)聖霊降臨後第7主日  岡村博雅

イザヤ書:55章10〜13 

ローマの信徒への手紙:8章1〜11 

マタイによる福音書:13章1〜9、18〜23

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週の福音の箇所はマタイ11章の最後の部分でした。マタイ12章は主日の礼拝の朗読配分では省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどの主イエスの活動と、それに対する人々の様々な反応が伝えられています。主イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(=神の国)は力強く成長しているということを語るのが今日の13章のたとえ話のテーマです。

 さて主イエスが、種蒔きのたとえを話してくださいました。「天の国は必ず実現する」という、そういう内容です。主イエスが語る当時のパレスチナ地方の種まきの仕方は、日本で目にするものとは随分違いますね。日本の種まきのやり方は、まず畑をしっかり耕して、土を均して、良い土地にしてから適切な間隔で小さい穴を開けて、そこに種を落として、土を被せる。大体そんな感じでしょうか。つまり、良い土づくり、良い畑作りこそがポイントだということでしょう。

 一方パレスチナでは日本のやり方とは全く違っています。まずは耕す前の土地に、一面に種を蒔いてしまいます。それからその土地を種もろとも深く掘り起こすように耕していきます。ですから、農夫が種を蒔くときには石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので気にせず、ぱっぱっぱと種を撒いてゆきます。日本のやり方が、丁寧で細やかというなら、パレスチナのやり方はどうでしょう、力まかせで大雑把というか、おおらかというか、ともかくずいぶん違います。

 では、この違いはどこから来るのかといえば、パレスチナでは日差しが強く、土を掘り起こしながら同時に種を地中深くに入れなければ種がすぐに干上がって死んでしまうからだそうです。確かにこういう種まきは一見、無駄が多そうです。しかし、ここではこういう蒔き方をすることで最終的には豊かな実りがもたらされるのだそうです。

 つまりは、土を深く掘り起こしながら、どの種もしっかりと土の奥深くに入れ込む、そういう作業をする農夫にとって、表面が多少固くても、石ころがまざっても、茨が生えていても、そんな難のある土地でも実りをもたらす良い土地だということになります。

 だとすると、主イエスによる本来のこのたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が手入れの行き届いた質の良い土地かどうかではなく、むしろ、そこから大きな収穫があることを信じて、希望を持って、忍耐して種を蒔く人のほうにあると言えそうです。

 日本の私たちからすれば、とにかく種をどんどんばら蒔く、このパレスチナ流は、なんだか、なかなか伸びないような種もあるようにも見えるわけす。でも、これで全体として豊かな収穫が得られる。主イエスのこの譬え話を聞いたパレスチナの民衆は、このことをよく知っていますから「イエス様、おっしゃるとおりです」と、「神さまがよく耕してくださるからどんな土地もよい畑に変わるんですね」。「だから豊かな実りがあるんですね」とよく分かったと思います。こういう主イエス話、福音を聴いた人達がホッとして、心の重荷をおろせた。そんなことからキリスト教が始まっていったのだと思います。

 今日の旧約日課イザヤ書55章10節に「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない」とあります。最近の集中豪雨や外国での干ばつ被害は人間の仕業の結果ですが、本来、ひとたび、神さまから恵みの雨が注がれたら、それは、何の目的も達せずに、むなしく流れ去ることはないはずです。必ず、「大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、糧を与える」。「それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず・ ・果たす」とある通りです。11節に「必ず果たす」と書いてあります。これは神の約束です。だから神が「必ず」と言えば、「必ず」そうなります。

 主イエスはこの「必ず」を信じて、種をまき続けてくださっているのです。私はこんな話を想像します。「天の父は、ご自分の愛を、みんなに与え続けている。それは、むなしくは天に帰らない。必ずみんなを救う。もちろん現実には、つらいことがあるように見えるけれど、それも含めて、ぜんぶ、神はちゃんと良いものに変えて、「必ず」実りをもたされる。今日も、明日も、どんなに暗い現場にも惜しみなく、愛と恵みを与え続けておられる。主はそんな解き明かしもされたことでしょう。

 人々がそれまで、神殿や会堂で聞いてきた教えは、「律法に従って正しく生きよ」でした。ですから「お前たちは、罪びとだ」「お前たちは、もっと正しく生きなければ救われない」「お前たちは、神から呪われた者たちだ」と、そんな話ばかりに違いありません。

 だから自分はだめなんじゃないかとつらい思いに沈んでいたと思います。否定的なことを言われ続けるのは本当につらい。生きるのをやめようと、そんな思いにもなりますね。

 でも、主イエスは、「神は、すべての人に、惜しみなく、種を蒔き続けておられる。愛と恵みを与え続けておられる」「あなたたちは、いまや、みんな神の国の住民だ」「喜べ、もうここに、天の国は始まっている!」と愛を込めて、おおらかに、しっかりと目を見て本心から宣言してくださるわけです。

 私たちにしても、このたとえをはじめて読んだときに、私は良い土地だろうかと思うわけですね。いっとき主の教えに感動してもすぐ心変わりする私は、道端に蒔かれた種にちがいない。俺だって同じさ、よしと始めてもすぐにグラグラし始める。僕はさしずめ石だらけの所に蒔かれた種だ。甘い誘惑にすぐ心が向くんだから。私は茨の中に蒔かれた種ね。多かれ少なかれ、正直に自分を顧みれば誰もがそんなことを思うのではないでしょうか。

 しかし、主イエスの種を蒔く人の譬えをきいた人々は、農夫達の種の蒔き方と土の掘り起こしを思い描いて、心から安心できたと思います。そうだ!「お前は良い土地じゃない」と、そんな言葉におびえなくていいんだ。道端でも、石ころだらけでも、茨が生えてたっていい。そこに種がまかれても大丈夫だ。農夫である神がしっかりと深くまで耕してくださる。日に焼かれて干からびないよう土深くに種を埋め込んでくださる。イエス様ありがとうございます。譬えを聞いて、大丈夫だって、安心しましたと人々のそんな姿が目に浮かびます。「福音を告げるというのは、人を安心させることだ」と。「福音を聞くというのは安心することなんだ」とあらためて思います。

 第二朗読ではパウロのローマの信徒への手紙8章の初めのところが読まれました。ここでのテーマは「神の霊によって歩む」ということです。5節に「霊に従って歩む者は」とあるとおり、パウロは5節からは神の霊(聖霊)に従って歩むことについて語ります。6節「霊の思いは命と平和である」、9節「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」。11節「もし、神の霊(聖霊)が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた神は、あなたがたの内に宿っている神の霊(聖霊)によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。

 パウロは非常に理知的であり、神学的ですが、同時に霊的なこと神秘的なことを大切にしています。私たちはすぐパウロの言う「肉」に従って、「神はホントにおられるのか」とか、「私は何のために生まれてきたのか」とか、「この苦しみに何の意味があるのか」とか、頭の中でいろいろ考えますけれども、そういう「考え」ではなくて、パウロは「霊に従うように」ということを言っています。また、主イエスは「祈るように」とおっしゃいます。「祈る」のも「聖なる霊に従う」のもどちらも神につながる道ですね。

 ある神学者がこう言っているのを知り、そうかと納得しました。「私たちの心が憧れているのは、神を証明することではなくて、神を見ることだ。神のうちに安らぐことだ。私たちは、それを求めている」と。

 ただ神を仰ぎ見て、神さまからあふれてくる、その恵みの中で「安らぐ」こと。これが、私たちの本当の生きる目的ではないかというのです。証明するの、しないのをはるかに超えた、神さまとの触れ合い。これこそが大事です。

 今年も暑い夏が始まりましたが、なんとか皆で乗り切りましょう。いろいろ、つらいこともありますけれども、それもすべて、神さまの恵みのうちです。今日も、天の父は惜しみなく、ご自分の恵みを無数の種のように、天からの雨のように、注ぎ続けています。安心して、神さまを仰ぎ見ることといたしましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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