2023年7月2日日曜日

この五体、誰に献げん

 2023年7月2日 小田原教会 江藤直純牧師

エレミヤ28:5-9; ローマ6:12-23; マタイ10:40-42

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 今年の1月から6月までに4人の神学校の恩師や同僚を天に送りました。年明け早々に昨春卆寿を祝われた恩師が、その数日後にまだ60代の現役教師が、そして6月になってから立て続けに70代の隠退した先生方が相次いで天に召されました。3月にはまだ50歳の牧師が召されました。先々週は月曜日と土曜日に葬儀に列席しました。

 私もこの8月で後期高齢者に仲間入りするのですから親しい方の訃報を受け取ることが増えてもおかしくはないのですが、それにしてもこう続きますと、改めて死というものを考えさせられます。地上に生を享けた以上は、いつの日かはその終わりの日が来ることを覚悟しなければなりません。しかし、ただ死を覚悟するというだけでは十分ではないでしょう。「よく死ぬ」ということができることを願います。

 でも、「よく死ぬ」ということはどういうことでしょうか。やるべきことをやりおえてから、痛みも苦しみもなく穏やかに死ぬ、家族や親しい人たちにお礼を言ったり別れを告げたりしてから死ぬ、そういうことができればいいとは思います。思いますけれども、私たちは生まれてくる時も所も家族も自分では選べないように、死ぬ時も所も年齢も残す家族の状態も、さらには最後の引き金となる病気の種類も死までの段取りも自分では選ぶことはできません。事情が許せば納得のいく治療をしてくれる病院とかホスピスとかを選びたいという願望はありますし、自宅で家族と最後の時を楽しみたいという希望は持ちますが、これもいろいろと幸運が重ならないと願いどおりにはいきません。

 高齢になるまで生きることができても、生き甲斐でもあった読書をする視力がなくなっていき、大好きだった宗教音楽を聴く聴力が衰えた方もいらっしゃいます。まだまだ大きな働きが期待されていたのにガンに襲われて早く亡くなった方もいます。今もなおALSで長く寝たきりで自宅療養している友人もいます。人生の長さ、量も、生活の質も医療や福祉の助けを借りて最善を尽くそうとは思いますが、しかし、希望どおりにはいきません。視力や聴力の衰えも、ガンやALSに罹ることも、これらはどれも私たち人間が有限性を持つ体をもって生きるように造られていることから起こる事態です。人間には老化するようDNAに組み込まれていると言います。信心深く日々を過ごしても来るものは来るのです。健康には気をつけて暮らしますが、避けることのできない、受け入れるしかない現実です。そうなると「よく死ぬ」ということはむずかしい、あるいは無理なのでしょうか。

2.

 どのように死を受け容れるかということへの関心から死生学というものに興味を持つようになってから、いろいろと読んだり聞いたりしてきた中で、とても印象に残った言葉がいくつかありますが、その一つにこういう言葉がありました。それは「よく死ぬことはよく生きることだ」という言葉です。いつ、どこで、どうやって死ぬかということは選べません。ですから、どうやったら「よく死ねるか」とそればかりを考えてもダメなのです。そうではなく、「よく死ぬことはよく生きることだ」なのです。なるほどそうかもしれません。もちろんこれは簡単ではないでしょう。しかし、「よく死ぬ」ことと違って「よく生きる」ことはある程度までは私たちの意志や努力にかかっていると思われます。ですから、「よく死ぬ」ことはままならなくても、「よく生きる」ことは自分でどう生きるかを考え、選びながら造り出していける面があるでしょう。しかし、それで完全ではありません。

 生きるべきか死ぬべきか、生きるならどう生きるべきか、そのことは現代の私たちだけでなく、百年前にも千年前にも二千年前にもそう努めた人々はいたのです。きっとたくさんいたことでしょう。今朝、聴きました使徒書の日課を書いた使徒パウロもその一人でした。彼は親しいフィリピの信徒の人々への手紙の中でこうホンネを吐露しています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(フィリ1:21-24)

 苦しみと労多いこの世を去ってキリストと共にいることを選びたい、熱望している、その方がはるかに望ましいとまで正直に言います。しかしながら、実はもう一つの選択肢があり、迷いながらも、そちらは自分のためというよりも「あなたがたのために」必要なことだからと判断し、後者の道を選ぶのです。「生きる」ほうです。

 そうであるならば、その「生きる」道はどうしたら「よく生きる」道になるのでしょうか。そのことを考えるには大前提があります。大前提とは何か。それは、私の命とは、洗礼を受けたキリスト者であるこの私の命とはいったいどのようなものなのかということです。そのことを確認することから始めなければなりません。

 パウロにとって自分の命の本質は明らかでした。今から訪ねていこうとしているローマの信徒たちに向かって、使徒パウロは自分の信仰的確信を次のようにためらわずに、大胆に、披露するのです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3-4)

 洗礼を受けたのは、自分のキリストへの熱い信仰を表明するためとか、教会という宗教団体に入会するための儀式だと思われがちです。たしかにその面はあります。しかし、肝心要のこと、洗礼によって「神さまとの関係で起きること」とは何か。端的に言えば、洗礼によってわたしたちが「キリスト・イエスに結ばれる」(3)ということです。それは取りも直さず「キリストの死にあずかる」(4)ことなのです。そして、それだけではなく、キリストが神によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた「新しい命を」、キリストの復活の命を、「生きる」(4)ようにされるということだと言うのです。

 このことはわたしたちが心理的にそう感じているかどうかという問題ではなく、神によって定められ与えられた「霊的な現実」(ボンヘッファー)なのです。わたしたちの「古い自分」(6)は、パウロ流の強い言葉で言えば、「罪の奴隷」(6)だったのです。言い換えれば、「罪に支配された体」(6)でした。創造主の創造の意図に背いた、自己本位の生き方をしていることが罪であり、そういう人間の在り方が罪の奴隷なのです。しかし、そういう「古い人間」は「キリストと共に十字架につけられ」(6)「キリストと共に死ぬ」(8)ことになりますが、そこにとどまりません。「死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことはなく」「死はもはやキリストを支配しません」(9)、そればかりかキリストが生きておられるのは「神に対して生きておられる」(10)のです。ですから、洗礼によって、キリストと結びつけられることによって、死ぬだけでなく、「復活の姿にあやかり」(5)「キリストと共に生きる」(8)ことこそがこの身に起きることだとパウロは言うのです。

 これが神の前でのわたしたち人間の実相なのです。洗礼によってこの身に起こされる現実なのです。それは霊的な現実です。だから、パウロはこう勧めます。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11)。それが今の洗礼を受けたわたしたちの命であり、これからのわたしたちの生き方であり、わたしたちが「よく生きる」ための大前提なのです。

3.

 「よく死ぬことはよく生きることだ」ということを実現するためには、この大前提、つまり、私が私流に一人で生きるのではなく、十字架と復活のキリストに合わされて生きること、キリストと共に十字架で罪に死に、キリストと共に復活させられる、そのように神が差し出してくださる「霊的現実」を受け容れ、そう信じて生きることです。

 50歳で召された友は、ガンの発見が遅れ、しかも原発の部位が直ぐには分からず、治療が難しく、最後の数ヶ月は食べ物を口からは摂ることもできず、お棺の中の顔はやせ細っていて痛ましいばかりでした。しかし、キリストの十字架による罪の赦しを信じ、キリストが与えてくださった復活の約束を信じて、最後まで自宅で家族と共に穏やかに、平和のうちに生き切ったと伺いました。病は酷く、その人生は平均寿命をはるかに下回るような短さでしたけれども、まさに「よく生きた」のです。ですから、彼はたしかに「よく死ぬことができた」のです。

 「よく生きること」を考えさせられるテレビドラマがあります。NHKの朝ドラ「らんまん」は植物学者牧野富太郎をモデルにした牧野万太郎という青年が主人公です。幼い頃から無類の植物好きで、由緒ある造り酒屋の当主になることを放棄して、植物学に専念します。このドラマの中で万太郎はよく草花に話しかけます。そして草花の在り方、生き方を言葉で表現します。わたしなどそれを聴くとハッとさせられるのです。草花はそれこそ数え切れない程多くの種類があります。大きさも大小さまざま、色も形も千差万別、目立つものもあれば地味なものもあり、よい香りのするものもあればそうでない匂いのするものもあり、日向に育つものも木陰にひっそりと生えているものもあります。しかし、万太郎に言わせれば、草花はどれ一つとってもあってもなくてもいいものなどはけっしてなく、一つひとつに生きている意味があるというのです。雑草などという草はないのです。だからどれにも固有の名前がありますし、ないといけないのです。言い換えれば、どれもが自分に与えられている遺伝子や性格や気候や環境やその他の生存条件をそのまま受け容れて、生きているというのです。わたしなどこの作者はクリスチャンではないかと思ったほどですが、友人の一人も全く同じことを言ったので驚きました。

 聖書的な表現をするならば、草花は創造主の御心に添って生きているのです。そして枯れるのです。だからその命が長かろうと短かろうと、華やかで美しくあろうとまるで地味だろうと、虫に食われようと、そのままで「よく生きる」し、「よく死ぬ」のです。

4.

 しかし、人間はそうはいきません。創造主がお与えになった生の諸条件だけでなく、創造主が望まれる命のありよう、生き方を、素直に、従順に、喜んで受容するということができません。むしろそれに背く、自己中心の生き方をついつい選んでしまいます。使徒パウロが次のように言っていることに耳を傾けましょう。「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」(12)。

 洗礼によって、キリストの十字架で罪から解放され、キリストの復活によって新しく神に対して生きるようになる、これが今私たちに与えられている生の条件です。ですから、「律法の下ではなく、恵みの下にいる」(14)し、「罪に仕える奴隷」としてではなく「神に従順に仕える奴隷」(16)となって、「汚れと不正の奴隷」としてではなく「義の奴隷」(19)となって、「神の奴隷」(22)として生きるようにされているのです。これこそが私たちに既に与えられている生きる条件であり、既に置かれている生きる環境なのです。奴隷という言葉がきついなら「僕」と言い直しても「子」と置き換えてもかまいません。私たちに望まれているのは「アーメン、はい、不束者ですが喜んでそうします」と応えることです。パウロが言う「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:13)との勧めに、「はい、キリストの助けによって、そうします」と応えることです。そのときに「よく生きる」ことが始まります。何の仕事をするか、どういう業績をあげるかは関係ありません。その結果「よく死ぬ」ことができ、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」(23)を賜るのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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