2023年7月2日日曜日

礼拝メッセージ「喜んで受け入れる」

 2023年07月02日(日)聖霊降臨後第5主日 岡村博雅

エレミヤ書:28章5〜9 

ローマの信徒への手紙:6章12〜23 

マタイによる福音書:10章40〜42

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今読んでいただいた旧約日課のエレミヤ書28章には、主の言葉を忠実に伝える預言者エレミヤと偽預言者ハナンヤとの対決が記されています。エレミヤは、主の裁きの言葉は厳しいが、しかし今主の言葉に聞き従うなら命の道を進めると祭司や人々にせつせつと説きますが、彼らはエレミヤが伝える主の厳しい言葉に従うことを好まず、自分たちにとって心地よい言葉を語るハナンヤに従おうとします。ここには今日の福音となりうる一つのテーマが浮かび上がります。それは「どの声に従うのか」ということです。

 今日のローマ書6章でパウロが繰り返し語っている言葉に注目すると、それは「従う」、「仕える」という言葉と「奴隷」という言葉ではないかと思われます。一見すると「奴隷」「仕える」「従う」とは今の時代の自由を重んじる考えとは相反するのではないかと思われますが、今日はパウロの言わんとするところから福音を聞きたいと願います。

 16節でパウロはこう書いています。「 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」と。

 ここでパウロは私達がキリスト者として生きるという事を「声に従う」という一点において語っています。人間というのは必ず誰かの声に従っているとパウロは考えているわけです。勿論自分は主体的に判断していると言う人もあるでしょう。その場合、その人は実は自分の考え、つまり自分の脳が語る声に従って生きているということです。ですから、私たちは必ず誰かの声を聴き、その声に従って生きていると言えます。

 そして、その場合パウロはあなたに語りかける声はいろいろあるとは言いません。その声は二つだと考えています。その一つは最終的には「死へと誘う声」です。その声は死に至る、「罪の奴隷」に語りかける声だと言います。もう一つは「義に至る声」、人間として当然歩むべき義の道へと私たちを導いてくれる声、私たちが心から従うことを求める声です。パウロはこの二つの声のどちらかしかないと、ここではっきり言います。もちろん、私たちが従うべき声とは16節の「神に従順に仕える奴隷となって義に至る声」です。

 17節〜20節では、あなたがたは、かつては罪の奴隷だったが、今は「罪から解放された」、「罪から自由になった」と「自由」ということが強調されています。「自由」は奴隷という言葉に対して、すぐに対比されて出てくる言葉です。奴隷と束縛とはワンセットですが、それに対抗するのは、その束縛から解き放たれて自由になるということに違いありません。

 しかし、ここでパウロがはっきりと認めていることは、罪の奴隷である者は、義による歯止めがかからず、野放しである。つまり自由奔放に振る舞うということです。人が罪を犯す時、その人は神との関係からパッと解き放たれてしまっている。罪の奴隷となったその結果はどうなのか。21節であなた方が罪の奴隷であったときに、「どんな実りがあったか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うことであり、それらの行き着くところは、死にほかならない」とパウロは釘を刺します。

 さらに、パウロは22節で「救われるということは罪から自由になることである。そして罪から自由であるということは、神の奴隷になるということなのだ。あなたがたは、神の奴隷として、すなわち義の奴隷として、聖なる生活を送り、その実を結んでいる。そんな人生を送っているあなた方の行き着くところは、永遠の命なのだ」と義の奴隷として暮らすことの恵みと報いを言うのです。

 ここまで考えてきて、私たちはこう思うのではないでしょうか。「罪の奴隷」という言葉は分かる。確かに私たちはつい隣人を顧みることを怠り、自己中心に陥って罪の力の虜になってしまう。それはまさに罪の奴隷の姿だと言える。けれども、その一方の「義の奴隷」とは何だろうか。福音はその人に奴隷的な服従を強いないはずではないのか。そういう考えが湧いてきます。

 パウロはキリスト者の自由を声高らかに語る人です。本当はパウロも義の奴隷などという言葉を使いたくないと考えられます。けれども、人間の持つ弱さ、脆さを考慮すると、義の奴隷という表現を取らざるをえないのだと言えます。パウロが強調したいのは、自由ということよりも、むしろ自分から進んで服従するということだからです。

 使徒言行録20章2,3節の記述からパウロはギリシアに行く前に3ヶ月ほどコリントで過ごし、その間にこのローマの信徒への手紙を書いたと推測されています。

 パウロはコリントで伝道し、教会を建設しました。しかし、コリントの信徒の様子にパウロは悩まされました。そのために涙を流して書いた手紙がコリントの信徒への手紙だと言われます。こうした体験がこのローマ書6章の主張の背景にあると考えられます。

 パウロの悩みをひと言で言えば、コリント教会の人々が義に対して従順でなかったことです。彼らは今や自分たちは罪から解き放たれた。だから思うままに自由に生きてよい。そういう自由があると錯覚したのです。コリント書を読むと、買春をする信徒や、義理の母と関係を結んだ信徒が(一コリ5:1)言われています。また、礼拝や集会で勝手に喋りだして秩序を乱す者もいた。

 パウロはそうした悩みを包み隠さずに書き記しましたが、それはきっとパウロ自身の中にも弱さとの戦いがあったからです。パウロは別の箇所で自分の肉体を打ち叩いても(一コリ9:27)キリストに服従するための戦いをする。死ぬまでこの戦いを続けるのだと言っています。そういう戦いの中で、パウロは自由だと主張するだけでなく、自分から進んでキリストに服従する自由を得ていると言い続けます。信仰者たちに、共に従うべき声を聴いたではないか、その声を聴き続けて従い抜こうではないかと呼びかけています。

 17節に「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり」とあります。これは救いの鍵を示す言葉です。17節の「伝えられた教えの規範」とは何を意味するのか。それを明らかにしたいと思います。私は、それはペトロの手紙一の2章21節以下に明らかにされていると思います。

 主イエス・キリストについてです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。どうでしょうか。主の救いと慰めを語るこれ以上の文章はないと言ってもよいと思います。

 私たちが主のもとに立ち帰った時に、そこで自分が主の奴隷として生きることがよく分かるようになります。ただ主イエス・キリストに従う時にのみ、キリスト者の自由と服従とが一つになり、すばらしい喜びの世界が開けてきます。主キリストへの服従に生きることによってのみ、豊かな恵みに生きることができる。パウロはそのことを私たちに本当によく分かってもらいたいに違いありません。

 今日のマタイ福音書では12弟子を宣教に送り出すにあたって主イエスが告げた教えの最後の箇所が読まれました。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)とキリストの弟子を受け入れる人々への報いが語られています。私たち日本のキリスト者は社会の中で本当に少数派です。しかし、私たちがパウロ流に言えば主キリストの奴隷として生きようとするならば、必ず理解し、支援してくれる、キリスト者でない善意の人々とも出会うことができるということは私たちがどこかで経験していることでありましょう。

 最後にローマ書6章22節、23節に共にアーメンと言って終わりたいと思います。お読みします。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。アーメン

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


0 件のコメント: