2023年6月25日日曜日

礼拝メッセージ「神を畏れ、人を恐れない」

 2023年06月25日(日)聖霊降臨後第4主日 岡村博雅

エレミヤ書:20章7〜13 

ローマの信徒への手紙:6章1b〜11 

マタイによる福音書:10章24〜39

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音は、主イエスが弟子たちを伝道に派遣なさった時の言葉です。福音の中心は27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」というところにあると思います。

 主は今や「暗闇で」つまり弟子たちに対してひそやかに語ったことを、「明るみで」つまり公にすべきだとおっしゃいます。主はご自分が救い主であること、また、どのようにして人々に救いをもたらすのかということを、これまではひそやかに語ってきましたが、今やその真理を世界中に言い広める仕事を、ご自分だけでなさるのでなく、弟子たちに委ねられました。弟子たちにはこれから迫害と苦難が待ち受けていることが予告されます。しかしそこで怯んでしまうのではなく、信仰を告白し続けるようにということが勧められます。そのために、「恐れるな」という言葉が3回繰り返されています。

 弟子たちは主イエスの福音宣教に従って旅をしながら、彼らは現実の無関心というか冷淡さにぶつかって、がっかりしたり、無力感にとらわれたりすることが多かったのではないでしょうか。この福音は10章から始まっていてその続きですが、弟子たちだけを宣教に送り出すにあたって、主イエスは勿論そういう弟子たちの遭遇するであろう困難を承知しておられました。だからこそ、今日の福音はそういう弟子たちが恐れないで宣教に出かけられるようにと弟子たちを励まし、また鼓舞しておられます。

 今日の福音の24節で「弟子は師にまさるものではないのだから、弟子は師のようになればいい」と言って、まず、弟子たちを安心させていますね。イエスさまは、きっと肩に力を入れず、ほうぼうの自然や景色を眺めて楽しんだり、疲れれば湖を渡る舟で居眠りもしたり、招かれたところで皆と食事をしながら笑い、人々の体や魂を癒やし、貧しく低くされた人々を憐れんで力づけられたことでしょう。主はあなた方は自分ひとりでミッション(使命)をおこなっているのではない、私が共にいる、だから恐れるなと励まされます。

今日の福音書のなかでは、そのミッションに派遣されるにあたって弟子たちは恐れることはないということについて主は3つの理由を挙げておられます。

その第1は「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という真理です。主はこの言葉によって人間がどんなに福音を抑圧して、押し込めても、いつか必ず、そういう障害を突破して、外に表れ出てくる。いわば神の真理は、不滅であることを示されます。福音は必ず、いつか表れ出てきて人々に効果を及ぼす、これをちゃんと信じよということだと思います。

 主イエスはこの福音の力を信じるがゆえに、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と命じられました。主の命令に従って弟子たちは大胆に信仰を告白して宣教に励んでいくことができるわけです。

 旧東ドイツではソビエトの支配下で弾圧されていた自由と民主主義が次第に力を蓄え、芽を出し、ついにベルリンの壁崩壊につながったことが思い浮かびました。権力者たちは自由思想を弾圧し、音楽や旅行までを厳しく制限してきました。しかし、市民が自由を求めるその魂を抑圧することはできませんでした。マタイの表現を借りるなら、人々は自由に対する魂の叫びを明るみで叫び、屋根の上で言い広めたということですね。

 次に「恐れるな」という第2の理由はこういうふうに書かれています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」というのです。

 この言葉は、何よりもまず神を恐れ敬うのであれば、それ以外のどんな恐れからも、むしろ解放される。なぜなら神が死者を復活させる力を持っているからだと主はおっしゃいます。そして、弟子たちにその復活の力に信頼することがまず一番大事なのだと教えられます。

 そして第3番目の恐れるなと言われることの理由は、それは神が最も小さなものをも漏らすことなくいつも配慮して心にかけてくださっているということです。一アサリオンは最小のローマの小銭で10円とか20円にあたりますが、それで雀が2羽買える。そんな雀にしても、神の配慮によって生きてちゃんと自分の生活を送っている。そのような自然界にある小さいことにも主は弟子たちの目を向けさせ、神の深い命への慈しみに気づきを与えます。

 このような励ましを受けた弟子たちは後になって主の復活後に始まる苦難においても主イエスへの信仰を告白し続けます。

 今の時代に日本に生きる私たちは、弟子たちのような迫害こそ受けませんが、生きる上にはいろいろなことで困難もあり忍耐が必要ですね。しかし、最後まで主イエスへの信仰を告白し続ける者だけが、最後の審判の時に主イエスの仲間だと認められると主はおっしゃいます。そして、それを目標に、それを心の糧にして、進んでいきなさいということが今日の福音では言われていると思います。

 人々を恐れるなという言葉は第1朗読のエレミヤの預言の中でも言われています。エレミヤは20章11節で「しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます」という言葉を語っています。ありとあらゆるわたしの恐れに対して、主なる神は共にいてくださる。神は「いつもわたしはあなたと共にいる」ということを言っている神なのだというわけです。その神の言葉と神の実在、そこに信頼をおいて生きる、それがとても大事です。

 そして32節に「人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者」とあります。これは人の前で主イエスを賛美するという意味です。それは主イエスをほめたたえ、救い主と信じて、心から受け入れるということです。「信仰を持つ」というのは、自分自身の思いや考えにとらわれないで、何よりも主イエスを認める、主イエスをほめたたえるというこの一点に尽きます。主イエスをほめたたえ、救い主と信じて、心から受け入れるとき恐れから解放されます。神以外の何者をも恐れなくなります。

 信仰に生きるということは、主の恵みと祝福に与ることです。信仰に立って築き上げる親子関係、夫婦関はすばらしいものです。しかし信仰によらない肉の関係では、多くの事件につながることを私たちは知らされています。

 神を真実に恐れることを知る者を、主は受け入れてくださいます。主は私たちの名を呼んで、父なる神にきっとこう言ってくださいます。「この◯◯は、まだ不信仰です。まだ依然として恐れを抱き、まだ罪を犯します。まだ成すべきことを成しきらない、怠りの中に生きています。しかし、どうぞ滅ぼさないでください。この者は私のものです。」そう言ってくださいます。

私たちは罪赦されて恵みのもとに生きているわけですが、それはまだ完成されているわけではありません。私たちは依然として罪を犯し続けています。しかし、罪を犯し続ける私たちの現状からの脱却をパウロは今日の箇所で語っています。

 6章1節に「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」とあります。これは神からの一方的な恵みによる赦しの恩寵を説いたパウロの信仰を逆手にとった考えです。「赦されるのだから、罪を犯しても大丈夫」という信仰態度です。パウロは誰もがそこを間違わないように全力でチェックします。2節「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」とパウロは続けます。そして「私たちはキリストと共に罪に死んだ人間だ。罪に対して死んでいるものが、どうして罪の中に生き続けることができようか、いやできない」というのです。

 ローマ書6章の今日の箇所でパウロが述べていることをまとめるなら次のようになるでしょう。「罪の赦しは現状のままの赦しだ。あるがままで救われるのだ。けれどもその救いの中には力が込められていて、その赦しの中に込められている力が、あるがままの私たちを作り変えて、新しいあり方に変えていくのだ」と、そのように言っているのです。

 主によって宣教に送り出された弟子たちは、失敗し、罪を犯し、それでも赦しに与って、どれほど悔恨と感謝の涙を流したことかと思います。私たちもそうしながら弟子たちのように霊的に深められ成長してゆきたいと願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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