2023年4月30日日曜日

礼拝メッセージ「命を豊かに受けるために」

 2023年04月30日(日)復活節第4主日   岡村博雅

使徒言行録:2章42〜47 

ペトロの手紙一:2章19〜25 

ヨハネによる福音書:10章1〜10

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 私たちはキリスト者として生活していて、常日頃から「聞く」ということの大切さを知っています。聖書に聞く、御言葉に聞く、主イエスに聞く、などなどですが、今日の主イエスによる羊飼いと羊のたとえ話からは「主イエスに聞く」ことの大切さは、羊にとっては死活問題ですらあることが感じられます。

 ローマ書10:13-15で、パウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル3:5)と宣言して、さらに救いへの道筋を語っています。宣教する者は「神に遣わされ、宣べ伝え」、救いを求める者は「それを聞いて、信じて、神を呼び求めて、救われる」のだと言います。救われたい者が行うべきことはまず「聞く」ことです。それが「信じる」ということにつながれば、救いへの道筋は開けていきます。「聞く」ことこそが救いの始まりです。

 今週の福音に語られる羊は、耳に馴染んだ羊飼いの声が自分の名を呼ぶと、その後について行きます。羊という動物は、その声を知らない者が呼んでも、決してあとについて行きません。今日の主イエスが語られた喩えにはどんな意味が込められているのでしょうか、御言葉に聞いていきたいと願います。

 ヨハネ10章の主イエスの言葉は、実は9章の「生まれながらの盲人」を主イエスがいやされた物語とひと続きになっています。9章では安息日の癒やしがテーマになっていました。思い出していただきたいのですが、主が生まれつきの盲人の目に、つばでこねた泥を塗り「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と言って、盲人の目を開けたという奇跡です。それは安息日のことでした。

 安息日は厳しく規定されています。出エジプト記31章14節「安息日を汚(けが)す者は必ず死刑に処せられる。だれでも安息日に仕事をする者は、民の中から断たれる」。当時のユダヤ社会で権威をもっていた宗教家たちは、「聖なる神」に喜んでいただくために、神が天地創造の仕事を終えて安息なさった日に由来するこの律法は、厳格に守らなければならないものだと思いこんでいました。

 しかし主イエスは、その日が安息日であり、その人を癒やせば仕事をしたとみなされ、宗教家たちとの間に確執を生むことを知りながら、その人の目を開き、その人を救いました。それは主イエスが、今ここで、この人が救われることが、その生まれながらの盲人にとって、どんなに大切で、天の父がどんなにお喜びになるかを分かっておられるからです。その人の魂が救われるために、天の栄光のために。しかしそれは当時のユダヤ社会にあっては自らの命をかけた行為であったわけです。

 この主イエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られています。そして主は「わたしは良い羊飼いである」(10:11)と愛情深く宣言されます。

 ここで羊飼いについて知っておきたいと思います。イスラエルの人々は半遊牧生活をしていたと言われています。ダニエル・ロップスの『イエスの時代の日常生活』という本などによりますと、羊飼いは50~100頭の羊の群れを追い、草のあるところを求めて旅していきます。羊は弱い動物なので、1頭だけでいたらすぐに野獣に襲われて食い殺されてしまいます。羊飼いの役割は、羊を1つの群れに集めて、狼や泥棒から守り、草のあるところに導いていくことでした。

 夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰かの持ち物というわけではなく、その囲いの中で、あちこちの羊飼いの羊がごっちゃになって夜を過ごします。

 朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いの声に付いていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹の羊を見分けることができたと言われています。こういう当時の実際の羊飼いの姿が背景にあって、今日のたとえが語られています。

 こうした予備知識を踏まえて今日の福音を見てみます。1節から5節では「聞く」と「知る」が大切な動詞だと読み取れます。3節に「羊はその声を聞き分ける」とあります。原文ではただ「聞く」という言葉なのだそうですが、ここは羊はその声を「聞き分ける」というように日本語訳が工夫されていて、羊が自分の羊飼いの声を「聞き分ける」、そしてその声に「聞き従う」ということが強調されています。

 4節には羊はその声を「知っている」とあり、5節には、ほかの者たちの声を「知らない」からとありますが、この「知る」はただ単に知識として知っているという意味ではなく、お互いの関わりを表している言葉だと思います。

 この箇所の先の14-15節で主はこう言っておられます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と。この言葉には両者の深い交わりが感じられます。

 9章で目をいやされた盲人が、「あの方が罪人(つみびと)かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と言ったことも思い出されます。彼にとって主イエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなくて、自分を救ってくださった主イエスとのつながりそのものの問題でした。

 先程紹介したイスラエルの羊飼いは、一匹一匹の羊に名をつけ、あの子はこうで、この子はこうだと、それぞれの羊の容姿や特徴を把握して可愛がっていたことでしょう。羊の方も、そんな羊飼いに深く馴染み、その声をしっかりと聞き覚えて、信頼して従ったに違いないと思います。主イエスは羊飼いと羊のあるがままの様子をたとえにして語られましたが、それは、たとえ話を聞いている人々にとってよくわかったことでしょう。

 このたとえで羊とは人々のこと、私たちのことであり、良い羊飼いは主イエスです。律法を金科玉条として、弱い人の悩みや苦しみを顧みようとしないファリサイ派のような人はさしずめ、泥棒や野獣です。

 7-9節で主イエスはご自分を「羊の門」にたとえます。9節「わたしを通って入るものは救われる」これは、主イエスを通って神の国に入る、天の家に入るというイメージなのでしょう。それに対して次の「門を出入りして牧草を見つける」は実際の羊の囲いのイメージを思わせます。餌となる牧草はこの世では囲いの外にあるからです。どちらの場合も、主イエスが人々を豊かないのちに導く方であることが示されています。

 このたとえ話が語るのは、主イエスが「羊のために自らの命(プシュケー)を捨てる」方であり、同時に「羊が肉体の命を超える、根源的な命、永遠の命(ゾエー)を豊かに受けるために」この世界に来られた方だということです。

 主イエスはおっしゃいます。10節「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」と。この盗人は危険なカルト宗教や、あるいは独裁的な政治家や軍人の害悪をも思わせます。主イエスは私たちから何も奪いません。身勝手な盗人とは全く逆に、ご自身の命を私たちのために捨てることによって、その尊い豊かな命を私たちに与えてくださいました。

 主イエスははっきりとおっしゃいます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と。第二朗読でペトロが「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者のもとへ立ち返ったのです」と言うように、私たちはこの主の声を心に聞いて、主に従い続けていく者でありたいと願います。

 さて、今日の礼拝の最後に私たちは第一朗読の使徒言行録からも聞きたいと願います。復活の主イエスによって集められた主イエスの羊である初代教会の人々のことが46節以下に描かれています。「毎日ひたすら、心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って食事をし、神を賛美していたので民衆全体から好意をよせられた。こうして主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである」とあります。なんとも霊的な活気にあふれていて、私は素直にあこがれます。

 私たち小田原教会の姿は42節の「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」という方に近いと思います。私たちも、初代教会の信徒たちのように、心を一つにし、礼拝し、聖餐をし、食事をし、互いに仕え合いながら霊的に深められて行きましょう。そこには主イエスがくださる命を豊かに受けた群れの姿があります。恵みと希望があります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン 

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