2023年4月9日日曜日

礼拝メッセージ「主の復活」

 2023年04月09日(日)主の復活主日 

使徒言行録:10章34〜43 

コロサイの信徒への手紙:3章1〜4 

マタイによる福音書:28章1〜10

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 改めて、ご復活のごあいさつをいたします。

 ご復活、おめでとうございます。

 神は、どんなに私たちを愛しておられるかということを、主イエスの死と復活においてすべて表してくださいました。キリスト教においては復活こそが中心メーッセージです。世界の教会はその恵みにあずかって、感謝して、主日ごとに礼拝を続けています。私たちは、今、そのような神の愛による礼拝に与っているのだということを覚えたいと思います。

 今日はマタイ福音書の主の復活から聞きます。主の遺体は金曜の日没の前に、つまり安息日が始まる前に墓に納められました。主イエスを十字架につけさせた人々は、ローマ総督のピラトに申し出て、イエスの遺体が盗まれないようにと見張りの番兵たちをつけてもらいました。念には念をいれたわけです。

 マタイ28章は、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」と始まります。この記述から、金曜から数えて三日目の朝、つまり土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に神は主イエスを復活させたと考えられます。

 マタイ福音書はマルコ福音書を元にしたと言われますが、幾つかの違いがあります。ここではマタイにそって見ていきます。主の墓に駆けつけてきた女性達が墓に着いた瞬間に墓が開きます。地震が起こり、それと共に天使が現れ、墓を塞ぐ大きな石をどけてくれました。マタイは彼女たちが墓に着いたとたんに墓が空であることを目にしたと言いたいのです。墓は閉じられていた。番兵も見張っていた。けれども墓の中には主イエスはおられなかった。

 見張りをしていた番兵達も女性たちも地震と天使の出現に「恐ろしさで震え上がり、死人のように」なりました。すると天使は彼女たちに「恐れることはない」(5)と語りかけます。これは「禁止の命令形」で、「恐れることをやめよ」という意味です。

 「恐れることはない。イエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、・・弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。・・あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」(5−7)。この驚愕の知らせに女性たちは恐れながらも大いに喜んだとあります。

 弟子たちに主の復活の出来事を一刻も早く知らせるようにと言われて、急いで走ってゆく女性たち。すると彼女たちの行く手に復活の主が立っていて「おはよう」と声をかける。これはギリシャ語の直訳では「喜べ」という意味です。

 彼女たちは主の足を抱いてひれ伏して礼拝した。主は「ガリラヤに行きなさい。そこで会おう」といいます。このあとの16節以下をみると、このガリラヤにおいて復活のイエスは弟子たちを世界宣教にお遣わしになります。

 実に生き生きとテンポよく、力強く語られているこの福音箇所だと思うのですが、これから何か新しいことが起きる、予想もしなかった何かすごいことが起きる、そんな「始まり」を私たちに予感させてくれる福音だと思います。

 今日の第一朗読には、キリスト教が異邦人伝道へとその第一歩を踏み出すというやはり「始まり」の物語が記されています。

 コルネリウスというローマの百人隊長は家族揃ってユダヤ教の信仰の厚い人でした。彼はある日、夢で使徒ペトロを自宅に招くよう神から掲示を受けます。同時期にペトロも異邦人にも伝道するようにとの掲示を神から受けます。

 その時のペトロの説教は今使徒言行録を読んでいただいたとおりです。コルネリウスとそこに集まっていた大勢の人々の上に聖霊が下りました。それは大きな驚きでした。

 ペトロはそれまで割礼を受けた神の民である自分たちが主イエスを信じたからこそ自分たちに聖霊がくだったと思っていたわけです。しかし、聖霊は、別け隔てなく、ユダヤ人ばかりか異邦人にも降ることをペトロはここで目の当たりにし、彼らに洗礼を授けました。

 この出来事を契機にして、それまで、ユダヤ人にしかイエス・キリストの福音を語っていなかったペトロたちでしたがそこが大きく変化します。この後、キリスト教はユダヤ人以外の世界中の人々によって受け入れられていきます。

 コルネリウスの物語は初期のキリスト教がユダヤ教の一派閥という枠組みを超えて世界宗教になっていった新しい始まりを示しています。

 ところで皆さんは「復活」というと、いったん死んで元に戻るという、「蘇生」みたいなイメージがありませんか。日本語だと、「敗者復活戦」みたいに、一度ダメになったけど元に戻るというイメージがありますが、そうではありません。

 聖書がいう「復活」とは、主イエスが死に打ち勝ち、神の永遠のいのちを生きる方となったということを意味します。復活はまさに、「永遠のいのちに誕生していく」というイメージです。全く新しい段階に入るのです。その意味ではやはり「始まり」だと言えます。

 人は死んで全てが終わるのではない。死というものを私たちはいやいや受け取らなければならないということではない。死というところで私たちは神と出会います。コロナであったり、戦争であったり、人権侵害であったり、そんな人生の危機に際してもなお世界は「復活という恵みに包まれている」のだと聖書は教えてくれます。

 しかし、現代人の多くが復活を認めません。むしろ死こそが確実なものだと思って、恐れています。今日の福音書の女性たちも空っぽの墓を見て恐れにとらわれています。そんな女性たちに天使も復活の主も「恐れることはない」と繰り返します。8節に女性たちは「恐れながらも大いに喜び」とありますように、この時点では「喜び」と「恐れ」が同居しています。

 彼女たちが本当に恐れから解放されるのは主イエスに出会ったときです。主イエスは「おはよう」と語りかけます。この言葉は直訳では「喜べ」です(あいさつの言葉でもあるので「おはよう」と訳されたそうです)。さらに主イエスは天使と同じ言葉で彼女たちに「恐れることはない」(10)と言います。この出会いが、彼女たちを根本から変えます。

 私たちの中にもさまざまなことに対する恐れがあるでしょう。時としてわたしたちは恐れに囚われて身動きできなくなっているかもしれません。その逆に「恐れ」から解放されて「喜び」に満たされていく体験もします。凍り付いていたわたしたちの心が動き始める体験、そういう体験をすることができたなら、それは主と共に味わう復活の体験だと言えるのではないでしょうか。私は共にいてくださる主イエスを知って、それまで体験したことのない安心と自由を味わってきました。今もそうです。クリスチャンは辞められないと思う所以です。

 さて、今日の第二朗読のコロサイの教会への手紙3:1に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」とあります。「上にあるものを求める」、これは私たちの生き方へのメッセージです。

 私たちは上にあるものよりも下にあるもの、つまりこの世のことだけに目を向けていると、自分の力で所有できるもの、キラキラした目に見えるものだけを頼りにして生きるということになりかねません。それは上にあるものをまったく排除してしまっている生き方に思えます。しかし私たちは聖書から、そういう生き方ではなく、神からの恵みや恩恵など、上にあるものをこそ求めなさいと言われていることを覚えたいと思います。

 それはまた、憎しみや暴力に勝利するのは、実は愛なんだという神からのメッセージを、私たちが受け取って自分の生き方の基盤にするかどうかということが問われていることであって、それは他の誰かではない、それを始めるのは自分なんだということです。主の復活を信じ、自分のものとすること、その根本的な決断をするかどうかが復活という問題の一番中心にあることだと言われているのだと思います。

 復活の主キリストと弟子たちの出会い、それは2000年前に起こった一回限りの出来事というだけでなく、時空を越えて今もわたしたちの中で起こっている出来事であり、目には見えないけれど今も生きている主イエスと私たち自身との出会いの物語です。

 私たちは日常の生活のさまざまな場面において復活の主キリストと出会って、日々変えられていく、日々新しくされていく。今日の復活の主日に、「こんな人生はいかがですか?」と主は招いておられます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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