2023年4月23日日曜日

礼拝メッセージ「心の目が開かれる」

 2023年04月23日(日)復活節第3主日  

使徒言行録2章14a、36〜41 

1ペトロ1章17〜23 

ルカ24章13〜35

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 昨日、湯河原の朝祷会があって、世話人の方が「そろそろ食事を再開したいと思うけれどもどうでしょう」と提案されて、参加者一同賛成しました。朝祷会は超教派の集まりですが、ともに説教を聞いて祈り合って、その後に食事の交わりをするのが習わしです。

 説教を聞いて、お互いに祈って、食事をする。これは主イエスが弟子たちとなさっていたことです。今日の福音箇所のエマオに向かった弟子たちも、聖餐式につながる食事の場面から大切な気づきを得ています。教会はそもそもそういう集まりだったことを思います。

 けれども、この伝統がここ3年、世界にまたがるコロナウイルス感染対策のために避けられてきました。それがやっと今年に入ってから徐々に集まって食事することも再開されています。原点に帰ろうということでしょうか。聖霊の風が吹き渡っているのでしょうか。私たちの小田原教会も対面の礼拝と聖餐式は続けてきたわけですが、無理のないところで、さらにもう一歩、食事の交わりも進めていきたいという思いをもちました。

 さてルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるとされます。そして復活のできごとというのが、この二つの書物を結びつけています。その中心は、今日の箇所のちょっと前のところの空の墓の場面で、天使が婦人たちに語った言葉、「イエスは復活なさった」というメッセージです。「イエスは生きておられる!」というこの神からのメッセージがルカの二つの書物を貫く最も根本的なメッセージだと言えます。

 さて、今日の福音箇所には2つのことが書かれています。前半はクレオパともう一人の広い意味での主イエスの弟子たちが悲嘆にくれながらエマオという所に向けて歩いていた場面です。そこに復活の主イエスが追いついて来た。しかし二人はその人がイエスだとわからない。二人はエルサレムでの話、十字架の出来事を話します。するとその人は一緒に歩きながら、メシアについて聖書を説き明かしてくださるというものです。

 きっとその情景を描いたと思われる19世紀のスイスの画家ロベルト・ツントの「エマオへの道」という絵画がありますね。白い衣をきた人を真ん中に3人の旅人が大木の木陰の道をゆっくりと歩いて行く、その後ろ姿を描いた美しい絵です。60スタディオンて11キロちょっとの距離です。

 そして後半はエマオに到着した三人が宿屋で食事をする場面です。その人はパンをとり、賛美の祈りをささげ、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。

 すると二人の目が開け、イエスだとわかった。このことがとても大事ですね。これは聖餐式の原型、原点だと言えると思いますが、二人はこのとき初めて主イエスと人格的に結びついたということでしょうか。

 突然イエスの姿が見えなくなったために、彼らは思い起こします。彼らはこの出来事を振り返って、道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えたではないか、本当だ、そうだ心が燃えたではないかと力が湧いてきます。

 悲嘆にくれて悲しい顔をして、目もうつろだったこの弟子たちが聖書の話を聞いて心が燃えた。そしてまた主イエスと共に食事を共にしたということで、心が燃えた。この心が燃えたということ、これが聖霊の働きの大きなしるしだと思います。聖霊の働きを受けた、そして心が燃えた。こうした言葉がこの物語が告げる福音の中心メッセージだと思います。

 エマオに向かうこの二人は、主イエスが殺されたことで、まったく絶望してしまった。十字架のできごとを回想するわけですから当然だといえますが、言葉は全て過去形です。力のある預言者でした。十字架につけてしまった。そして私たちはあの方に望みをかけていました。みんな過去形です。もう今は終わってしまったことを言うわけです。

 彼らは過去のことにすっかり取り憑かれて、そこだけを考えています。その起こったできごとが彼らにとってどんなに絶望的であったか、彼らの期待がどんなに裏切られてしまったか、どれほど落胆しているか、そういうことがぐるぐると頭をめぐる。それしか考えられないわけです。

 なんで彼らの目が開かれていなかったかと言えば、やはり過去のこと、過ぎ去ったことばかりを見つめて、そこにへばりついているからでしょう。そこから離れられないという状態に原因があったと言えると思います。彼らは後ろばかりを見て、そこから離れられないということです。

 私たちもそういうことがないでしょうか。起こったこと、もう過ぎたことなのに、その過去にやたらとこだわってしまって、後ろ向きにしか考えられない状態、そういうときには不平不満も出て来るし、物事を積極的に見ることもできないで、悲観的になってしまう。それでは主から復活を予告されていたことなどは当然心に起こってこないでしょう。

 これに対して復活というものは主イエスの墓にいた天使たちが「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」というふうに問いかけるところにはっきりと現れています。これは人間的な思考への挑戦ですね。

ヨハネ福音書では、空の墓を見つめ泣いていたマグダラのマリアは後ろを振り向いて復活のイエスと出会いました。マリアはイエスの遺体が持ち去られたと思い、それで心がいっぱいになっていた。すると園丁かという人から後ろから呼びかけられた。彼女は振り向いて、名を呼ばれて初めて主イエスに気づきます。そこに彼女の回心が表されています。

 今日の福音においても眼差しの向け方がポイントになるのではないでしょうか。復活の主は、終わった過去のできごとや、後ろばかりを見ているその眼差しを前に向けるように、上に向けるようにと示されているのではないでしょうか。

 私たちもマグダラのマリアと同じように目の前で起こっている、悩みごとに取り憑かれてしまいます。あるいは今日のエマオへ向かう旅人のように、過ぎてしまったことばかりに心が向いてしまう。そういう状態に陥ってしまいます。しかしそんな私たちの眼差しを、前に向けてみる、上に向けてみる、そのときに主によって新しいことが起こってくる。きっと希望が見えてくる。復活ということも視野に入ってくるのだと思います。

 復活の主キリストの物語は、つい過去にとらわれしまう、目の前のことにとらわれてしまう私たちの心を前に向けさせてくれます。上に向けさせてくれます。私たちを前に向けて起き上がらせ、天の栄光に向けさせる、そういう働きがあるのだということを思います。

 また、エマオへの物語からは、主イエスが復活してなおいっそう、目が曇っていたり、まだなお目が開けていない、そういういろんな弟子たち、いわば迷える羊たちを探し出して、自分のもとに連れ戻すために、一緒に旅をつづけている。そういう復活の主イエスの姿がみえてくるのではないかと思います。

 復活なさった主イエスは、エマオ途上の弟子たちに対してそうであったように、なお私たちの一人ひとりの歴史にも入ってきて共に歩いていてくださっている。「神がそこにいてくださる」ということ、私たちはこのことを味わってみることが大事ではないかと思います。

 さて、二人がエルサレムに取って返すと、他の人たちも、「私も主に会った!」「私たちも主に会った!」というふうにして、みんなが集まっていた。復活の主によって心の目を開かれた者たちが集まってきた。バラバラになりかけていた弟子たちを復活の主が、呼び集めて、聖霊が働いて、もう一度、主イエスを真ん中にした集まりが新たに始まったのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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