2023年4月2日日曜日

礼拝メッセージ「主イエスの十字架」

 2023年04月02日(日) 受難の主日 

イザヤ書:50章4〜9 

フィリピの信徒への手紙:2章5〜11 

マタイによる福音書:27章11〜54

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今週から聖週間に入ります。その頂点はすべての人の救いのために、主イエスが十字架の死から永遠の命へと過ぎ越す聖なる3日間です。最後の晩餐と洗足の教えの聖木曜日。主の受難と十字架の死の聖金曜日。そして金曜日の日の入りから土曜日の日の入りまで、教会は主の死をしのび、続いて復活前夜祭であるイースターヴィジル(この礼拝は日本のルーテル教会では三鷹の神学校で行われます)を経て主の復活の朝をむかえます。

 今日の聖書朗読では、主イエスの受難物語が読まれます。多少のニュアンスの違いはありますが、すべての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がそれを伝えていることからも初代教会にとって、主の受難がどれほど大切な意義をもっていたかがわかります。

 受難と死を通って主キリストが復活の栄光へと過ぎ越していく物語は、主イエス・キリストの生涯のもっとも中心的な出来事です。今日の礼拝では、キリストの受難の出来事が少しでも自分たちの出来事として感じられるように、朗読の役割を分担して聖書の人物になっていただいて福音箇所を読みたいと思いました。皆さんにはご自分の役割のところを声にしていただきました。どうでしょうか、この物語の中に入り込めましたでしょうか。みんなで本気になって「十字架につけろ」と叫ぶと伝わってくるものがありませんか。

 何故主イエスは十字架につけられたのかですが、それは、ユダヤ人の宗教的な権威者たちが主イエスを殺そうと決めたからです。その理由はいくつかあげられます。エルサレムに入城した主イエスを群衆がメシア(救い主)として大歓迎していること。主イエスが自分たちの権威や神殿の秩序をないがしろにするような発言をしたこと。主イエスが自分を神の子だと主張したことなどから、これでは自分たちの宗教秩序に対して大変おおきな妨げになるということで、イエスを排除すべきだと決めたからです。

 ユダヤ人の宗教的な権威者たちは初めからイエスを亡き者にしたいと思っていたわけですけれども、しかし死刑を執行する権限はローマ帝国の総督であるピラトにしか与えられておらず、ユダヤ人は十字架刑を執行できません。そこで彼らは夜中に形だけの裁判を開いて、次の日の朝、イエスを総督ピラトに引き渡すことを決定しました。

 ユダヤ人たちにとってイエスがメシアであるということは宗教的、教義的な問題です。ただしメシアであるということは、イスラエルの王として支配する者という政治的な意味でもあるので、それはローマ帝国にとっては反乱者とみなされます。

 ユダヤ人たちはこれを利用してイエスをローマの裁判にかけさせ処罰させようとたくらみました。今日の福音はそこから始まります。

 ユダヤ人の指導者たちから、「イエスは自らユダヤ人の王であると称した」という告発を受けた総督ピラトは、これは一応重大なことだというわけで、まず、イエスに向かって「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねるわけです。しかし、ピラトはイエスという男は単なる夢想家に過ぎないというくらいにしか思っていません。ローマ帝国にとってなんら実害を及ぼす人間でないことを実はよく分かっていました。ピラトにとっては騒ぎや暴動を起きず平穏であることが重要でした。

 ピラトはイエスに過ぎ越し祭の恩赦を与えて解放したかったし、民衆もそれを望むだろと思っていたわけですが、ところが、宗教的権威者たちは、群衆をそそのかして、強盗のバラバでなく、イエスをこそ十字架につけろとみんなで騒いだわけです。

 ユダヤ人の指導者たちがもし真理に従っていたならば、主イエスをローマ帝国の総督に渡すなんてことはできなかったはずです。またイエスに何の犯罪も認めていなかったピラトもイエスをローマ帝国への反逆罪のかどで処罰するなんてことはしなかったはずです。ここには目の前の利害のために、自分が本来大切にしていたはずの思想や原理原則をいとも簡単に投げ捨ててしまうという、そういう人間の罪の姿が現れていると思います。

 また、主イエスとピラトの間での真理をめぐる問答というのは、政治において真理がどのように働くのかという人類の歴史や運命にとっても、本当はとても重大な問題が提起されているというふうにも見ることができると思います。

 マタイは、鞭打たれて疲労困憊し、憔悴した主イエスの姿にこそ人間そのものの姿が現れているということを言いたかったんじゃないでしょうか。その主イエスの姿には強い者の犠牲者として踏みつけられて、冷たく、理不尽な、社会や人々から打ち捨てられた者の苦しみというものが現れていないでしょうか。

 あるいは無力な者を踏みつける権力者たち、そういうことをする加害者である側の非人間性というものも現れていないでしょうか。それは人間が神から目をそむけた有様だと言えます。自分が世界を支配して王になろうとするエゴというものが現れているのだと思います。それは私たち人間にとっての最も深刻な罪です。

 主イエスは十字架につけられて苦しみ、最後に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのか」という言葉を叫んで死ぬわけですけれども、この主イエスの叫びをどういうふうに解釈するかが問われます。

 これは詩編22編の最初の言葉だと言われますが、その詩編22編をずっと後の方まで読んでいくと、神をほめたたえる内容に変わっていきます。ですから主イエスは詩編22編をとなえて、神をほめたたえたのだと解釈されることがあります。

 少なくとも主イエス個人の人間的な絶望の叫びであったというわけではないと思います。やはり、先程言ったような、人々から理不尽な扱いを受けることによって苦しむ人々、すなわち、神がいない、神の真理がない社会や世界において苦しむ人々すべての嘆きを主イエスは自らが引き受けて担われたのだと言えるのではないでしょうか。それが十字架の上での主イエスの死であると思います。

 そのことを第2朗読のフィリピの信徒への手紙では、神と等しい存在であったイエス・キリストが自分を無にして、自らの自由意志で私たちの中に入ってきて、人間と等しくなられて、その苦しみを受けたということが言われています。

 当時の社会の奴隷の立場を考えてみれば、これは驚くべきことだったということがわかると思います。奴隷というのは、その身分は生まれながらに決められてしまっていてどうにもできない。運命の名のもとに縛り付けられているのです。しかし、主イエスは、その奴隷の立場に自ら入ってこられて、さらにそれ以上に悲惨な十字架の死に向かって従順に歩んで行かれました。

 そこに神の自由があるということがこのフィリピ書では言われています。私たちも、この主イエスの神に対する自由を自分のものにすることによって、本当の自由に至るということが言われているのだと思います。

 そして主イエスの十字架と復活において、死を前にしての本当の希望というものが生まれたのではないでしょうか。それは死に勝利することであり、復活することを信じることです。それがキリスト教なのだと思います。

 死は真っ暗闇なものかもしれません。それは神秘に違いありません。しかし死とは実はすべてを包み込むものなのではないでしょうか。宇宙は把握できないほど大きいけれども、神はもっとそれよりも広大で、すべてをお造りになった神秘なる方です。その方が静かに私たちを迎えて歓迎してくださる。私たちは主イエスによってそういうことを信じることができます。

 命が終わろうとする時、私たちは死を恐れて不安になって、この世の虚しいものにより頼んで、すがろうとするのではなくて、理解不能な死というものに入って行くときにも、もう何かにしがみつく必要はない。もう戦う必要もない。あれこれいろんなことを、追い求めて、あれをやろう、これをやろうとする必要もない。ただあるがままで、よりどころとなるものを何も持たずにそこに入っていくことによって、けれども本当に祝福されて、この世の旅路を終えて、本当の自分の家に帰る、天の家族に迎えられるということを信じることができる。永遠の命を生きるのだと希望することができる。主イエスの十字架の死と復活によって、それをしっかり捉え直すのがこの受難の主日なのだと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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