2023年4月16日日曜日

礼拝メッセージ「揺るぎない平和」

 2023年04月16日(日)復活節第2主日 

使徒言行録:2章14a、22〜32 

ペトロの手紙一:1章3〜9 

ヨハネによる福音書:20章19〜31

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週各メディアでは「チャットGPT」という文章作りをしてくれる人工知能のことが盛んに話題になっていました。30年くらい前のインターネットの黎明期と同じような盛り上がりっぷりだと思いました。自由に検索できて便利になったと思っていたら、今度は質問すると人工知能がまるで対話相手のように答えてくれる時代になろうとしていることは驚きです。

 私も試しに「イエス・キリストの復活について」と質問を打ち込んでみましたら、ほぼミスなく手際よくまとめられた百科事典的な回答をしてきました。本当に面くらいました。これが神学校での試験なら間違いなく及第点です。しかも回答までほんの2、3秒でした。今日の説教に出てくる「トマス」と打ち込んでみたらどんな回答が出てくるのか、ちょっと気になりましたが、やめました。今の所、AIは膨大なデータから瞬時にまとめる力はあっても、人の霊性に訴える力はないと思いました。けれども、「まてよ!」と思いました。もしかしたら将来、スピリチャルな答えを出してくれる牧師AIができるかもしれない。そんなことも思います。これから様々な私たちの日常がこういう人工知能と関わりながら進んでいくのでしょうが、主のみ心にかなう方向で発展して欲しいと本気で思いました。

 先週の主キリストの復活祭からもう一週間経ちました。復活の主は、昨日も今日もこれからも皆さんと共におられる、そのことを日々の生活の中で感じながら過ごせたらどんなにか素晴らしいことでしょう。そんなことを願いながら、主の復活が信じられなかったトマスについて、今日は聖書から聞きたいと思います。

 さて、今日の福音箇所は先程述べたトマスの信仰をめぐる記事が中心ですが、その中に示される福音は「復活した主キリストが与える揺るぎない平和」です。このトマスは主イエス・キリストの復活を知らされても信じなかった人として知られています。この記事を読むと私はひねくれ屋だった中学生の頃、父から英語ではdoubting Thomas「疑い深いトマス」というんだと聞かされて、トマスは自分みたいだと思ったことを覚えています。そのトマスがどんな仕方で遂に復活の主イエス・キリストを信じる信仰に達したのか?トマスのドラマチックな復活の主との出会いは絵画にも描かれ、讃美歌にも歌われていますね。彼は「疑う」という点では現代の私たちのようです。そのトマスが疑いから信仰へと復活信仰を深めていった。その意味でトマスは重要な人物です。

 ヨハネ福音書には主イエスが復活された日の夕方(イースターの夕方)、主が、弟子たちが集まっていた家に現れた時、トマスだけが、一緒にいなかったと記されています。ですから、彼は主イエスに会えなかったわけです。(ヨハネ20:24)そもそも弟子たちはなぜユダヤ人たちを恐れて家に閉じこもらなければならなかったのか?

 イエスはユダヤ人指導者たちにとって自分たちの秩序や伝統や信条を守るためには邪魔であったので彼らは何が何でもイエスを消し去ろうとしたわけです。そして、その目的のために冷酷なまでの力を十字架において見せつけました。弟子たちは彼らの残忍さをひしひしと感じないわけにはいかなかった。今日の福音箇所の初めの19節には、はっきりと「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸にみな鍵をかけていた」とありますね。

 十字架刑につけられた主イエスを目の当たりにして、「次は自分たちが狙われる」と脅えて、逃げて、隠れていたわけです。一つ家に鍵をかけて閉じこもっていても弟子たちは、自分たちは卑怯で、みじめだという激しい自己嫌悪で、心は乱れに乱れていたことでしょう。

 そんな状況の弟子たちがひとかたまりでいるところに復活の主は現れて、「あなたがたに平和があるように」と、罪に苦しむ弟子たちを温かく包み込んでくださいました。みんなに、「手とわき腹」をお見せになって、ご自分が死から復活なさったことを示します。こうしてこの世の破壊的な力に打ち勝つもっと大きな力、死の力に勝る神の力があるということを証しなさいました。「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。簡潔に書かれていますが、この一文に弟子たちの大きな安堵が読み取れます。

 主はすかさず「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃいます。(20:21)。それは、罪が支配するこの世界に向けてあなた方を愛の使者として派遣するということです。そして、主は「息を吹きかけて」、弟子たちに聖霊を与えられた。それは創世記で、神が「土の塵」で形づくられた人間に息を吹きかけて、人間を霊においても生きる者にしてくださった有様を彷彿させます。主キリストは、聖霊によって弱い弟子たちの霊と心を強めてくださいました。

 しかしこの時、その家にトマスはいませんでした。思うに、たぶんトマスは、他の弟子にも増して、怖かったんじゃないのかという気がします。トマスが一番怯えていた。だから、トマスは、「こんな所でみんなと一緒にいたら、見つかって捕まるかもしれない。でも、自分は助かりたい」と、そう思って、どこかに一人で引きこもっていたのかもしれない。そんな推測ができます。

 理由はともあれ、主が復活された日曜日の夕方、トマスは主に会えませんでした。トマスは実証的である一方、心はかたくなで独りぼっちでしたから、みんなが「主が現れてくださった。俺たちは主にお会いしたんだ!」と言っても、「俺は信じない!」と強情を張ったわけです。たぶん、そんなトマスの人柄をよく知っている仲間たちが、「トマス、おまえも一緒にいよう。一緒にいればおまえも主に会えるよ。独りだけでいてはダメだ」と、連れ帰ったのかもしれませんね。

 これでもしも、トマスが仲間から外れて独りで居つづけたら、復活の主イエスに会えなかったでしょう。「信仰は、独りのことではない」と言うことです。この「独り」というのは「孤立したままで」という意味です。「独りだけで信じる」つまり「一人ぼっちで、仲間から外れて」というのは信仰においては意味がありません。「独りだけ救われてどうするのか?」ということです。そもそも人間は、「独り」ということがあり得ません。

 神は「人が独りでいるのは良くない」(創2:18)と、アダムにエバを与えられました。私たち現代人は、自分は一人で考え、一人で行動し、一人でも生きていけるというような勘違いをしていますけれども、たとえそうできたとしても、それは、聖書的に言えば人間らしいことではありません。信仰というのは独りでいてはいけない。孤立していてはいけないのです。

 ですから、復活の日から八日目にはトマスも一緒にいたおかげで、主イエスにお会いできて、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と、心の底からの信仰告白ができました。

 そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と、主イエスから、そう力づけていただけました。これこそ、主イエスが私たちに言ってくださっていることです。「信じない者ではなく、信じる者になろう」と。まったく私たち向けて言われていることです。

 私たちにしても、みんなと一緒にいないと、なかなか、「信じる者」になるのは難しいです。みんなから孤立しているときに、「さあ、信じよう。見ないでも、信じよう」と、いくらがんばっても、恐れや疑いが先に立って、「信じない者」にしかなれない。信じるというのは、みんなでやることですから。

 ですから私たちも来られない方にお便りを書いて週報や「るうてる」、説教コピーを送ったり、また可能な限り問安をしたりしますね。それは主キリストにおける兄弟姉妹として繋がっていましょうと、孤立しないことを願うからです。

 たとえ手紙であっても、電話であっても、みんなで一緒にいれば、そこに聖なる霊も働き、主の祝福が豊かに注がれて、「共にいる」という喜びと平和があふれます。

 第二朗読のペトロの手紙に「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与える」とあります。ペトロの言う通りです。復活の主は、復活を信じる者に生き生きとした希望を与えてくださいます。私たちはこの礼拝において、今ここに共におられる復活の主によって、そのことを信じない者ではなく、信じる者になる。そこにこそ主キリストから賜る揺るぎない平和があります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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