2023年5月7日日曜日

礼拝メッセージ「主イエスの約束」

 2023年05月07日(日)復活節第5主日   岡村博雅

使徒言行録:7章55〜60 

ペトロの手紙一:2章2〜10 

ヨハネによる福音書:14章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音テキストは十字架の死を前にして、主イエスが弟子たちに語った告別説教、いわば遺言です。その内容は、主イエスは目に見える形ではもういなくなる。しかし、弟子たちに「約束」を残していくというものです。

 主イエスの十字架の死は西暦30年ころと言われており、ヨハネ福音書は1世紀末に書かれとされますから、ヨハネはおよそ60年以上前のことを振り返って書いているわけです。すっかり年老いたヨハネは、主と過ごした日々の出来事の一つひとつを懐かしく思い出しながら、しかし後になればなるほど主イエスの深い慈しみの心と真意がわかってきて、この福音書をしたためたのだろうと思います。

 主イエスの約束は当時の弟子たちだけでなく、現代を生きる私たちに向けても語られています。主イエスが残した約束について、また第1朗読と第2朗読では、その約束がどのように実現しているのかを共に思い巡らして行ければと願います。

 この告別説教が語られたのはユダが主イエスを売り渡すために、最後の晩餐の席から夜の(ヨハネ13:30)闇の中へ出ていった後のことです。しかしその場は依然として光とくつろぎに満ちていたことでしょう。そんな時に、主イエスは弟子たちとの別れについて切り出しました。

 「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13:36)と主イエスから言われてペトロを始め弟子たちは動揺します。

 全てを主イエスに掛けてきた弟子たちです。不安になるのは無理のないことでしょう。しかしそんな彼らに主は語りかけます。「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と。主は弟子たちを真の信仰へと招かれました。ここで主が言われる「信じる」ということは「絶対に確かだと思えるものに信頼して、自分の身を委ねる」ということです。

 イザヤ書(40:6-8)にこんな言葉があります。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。/草は枯れ、/花は散る。/しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

 私たちが、神と主イエスをそっちのけにして、はかないものを頼りにしている限り、不安や心の動揺は続くでしょう。世間の目が気になり、権力や財産や名声などが何より大事になってしまうと、人への信頼とか、思いやり、愛などというものは二の次になってしまう。だからこそ主は、「神に信頼を置き、自分の身を神に委ねなさい」と私たちが神に向かって心を高くあげるようにと呼びかけます。

 神はこの世界を導き、私たち一人ひとりに温かなまなざしを注いでおられます。この神を信じ、神にすべてを委ねることができるならば、たとえ目先の光と支えが奪われたとしても、心の深いところでは、落ち着きと平安を保つことができるのではないでしょうか。

 私は信仰によって死を前にしても平安な方々とお会いできたこと、これからもお会いすることを牧師として本当に幸せなことだと思っています。

 「神を信じる」というだけでなく、ここで主イエスが「わたしをも信じなさい」と、ご自分に対する信頼を呼びかけていることも見落としてはならないと思います。実のところ、弟子たちとの別れは、弟子たちにとっては悲しみと落胆以外のなにものでもないことでしょう。すっかり落ち込んでしまう出来事でしょう。しかし、主イエスにとっては違います。それは救いの奥義の中のことだからです。

 主との別れがなければ、主が住むところを用意しに行くと約束することも、天の父の家での再会もありません。人間の常識では敗北でしかない十字架も、主イエスにとっては、天の父のみ旨であり、死を過ぎ越して復活につながる道です。それは人類に救いを開く道です。しかし、この時の弟子たちには、それがまるで見えていません。そこに主イエスと弟子たちの違いがあります。

 最近ある方とこんな話をしました。「十字架の救い、この常識ではありえないことこそが、神の私たちへの愛のしるしです。全ての人のために、主イエスは神を信じて、ご自分を神に委ねて、十字架の処刑を受け入れ、喜びをもって、この新しく生きる道を私たちに開いてくださいました」と。そうしましたら、その方がポツンと「十字架なんて、かわいそう」とポツリと言われた。

 確かに十字架は可愛そうです。これ以上の悲惨はない。でも単に可愛そうでは終わらない。それが復活への道であり、それが私たちの救いへと繋がる道だからです。十字架がなければ復活もないということをこそ伝えたい。主が復活させられたのは、最後の晩餐の夜に弟子たちに約束したように、私たちが死の後に行く場所を用意しに行くためだと言っても言い過ぎではないと思います。

 私たちは「死んだら、行く所があるの?天国あるの?」なんて、疑っています。けれども、ここで主は「天の父の家こそがあなたがたが帰っていく所だ。わたしがなすことを信じなさい」と宣言しておられます。そのための主の十字架であって、その根底にあるのは、神の愛であり、主の喜びと赦しであり、永遠の命への確かな道です。

 私たちはそのことを言葉からだけではなく、礼拝や祈りや信徒同士の交わりなどによって霊的に深められて確信するようになります。教会生活を通してこのような積み重ねができるということは本当に恵みとしか言いようがありません。

 さて、今日の第1朗読も、第2朗読も、どちらも聖霊を背景にして語られているという点で福音朗読とも重なっていると思います。

 第1朗読には、信仰と聖霊に満ちた人(使6:5)として12使徒たちから選ばれ、際立った活躍をしていたステファノの殉教が語られています。7章の前半にはステファノの素晴らしい説教が記されています。ユダヤ民族の歴史を聖書に即して見事に要約しながら、最後に「あなたがたは聖霊に逆らっている。正しい方(イエス)も預言者たちもみな殺してきた」と厳しく結論づけたためにユダヤ人は激しく怒りました。(7:54)さらに、ユダヤ人たちを駆り立てたのは、55−56節にあるステファノの言葉です。「天が開いて、人の子(主イエスのこと)が神の右に立っておられるのが見える」。この言葉に、人々は耳をふさいで、一斉に襲いかかり、エルサレムの都の外に引きずり出すと、怒りと裁きを込めて石打の刑にします。しかし、この時、聖霊に満たされたステファノには父の家にいる主イエスの姿がありありと見えていました。まさしくステファノにとって、主イエスは神に至る道でした。

 また第2朗読には「霊の乳」ということが出てきていますが、聖霊の意味で使われています。今日の箇所の前のところを見みると、1章23節に、「あなたがたは・・・神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」とあります。あなたがたは・・・新たに生まれた」のだから、「生まれたばかりの乳飲み子のように」「霊の乳」を飲んで救われるように成長しなさい。救われるように成長するためには「聖霊のミルク」が欠かせない、そうすることで、2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わえる。

 ここには、自身の弱さや世間の誘惑と戦いながら、辛抱強く信仰を貫いて生きて行こうとする人々への励ましがあります。ペトロは「あなた方は信仰者として、たった今生まれたばかりだ」といいます。生まれたばかりの赤ん坊が、ただひたすら母親の乳を求め、養育されながら大きくなり、成長してゆく。そんな様子を、私たちと主イエスへの関係にたとえています。

「あなたは主イエスから愛されて、純真に、ひたむきに主イエスを求めなさい。そして、霊的なミルクを飲んで成長して、救われなさい。」とペトロは勧めます。「聖霊によって育てていただく」、このことを願っていきたいですね。ここでも私たちは礼拝を通して、聖餐を通して、信徒同士の交わりを通して、聖霊のミルクを頂いていることを実感します。霊的成長に欠かせない色々な場所や機会はありますけれども、教会は最もふさわしい恵みとして与えられていると思います。

 主イエスは、私たちを、たとえ世間的には重要視されなくても、神にとっては、選ばれた尊い、生きた石だと言ってくださいます。たとえ私たちが何度も失敗したとしても、私たちを生まれたての子供のように、霊のミルクを与え続けて成長させて、霊的な家を作る生きた一つの石としてお用いくださいます。そんな私たちが生きて活動する日々は光に満ちていませんか?やがて主が用意してくださった天の父の家に凱旋する日が来る。今日はその約束の素晴らしさを味わい、感謝を共にいたしたいと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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