2023年9月10日日曜日

礼拝メッセージ「ともに祈るなら」 

 2023年9月10日(日)聖霊降臨後第15主日 岡村博雅

エゼキエル書:33章7〜11 

ローマの信徒への手紙:13章8〜14 

マタイによる福音書:18章15〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイ18章は教会のあり方についての教えを語っています。それはまず子どもを受け入れること(1-5) が語られ、次に小さい者をつまずかせないこと(6-9)が語られ、更に迷いでた羊のたとえが語られます。今日の福音はそれに続く箇所です。15節に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあるように、今日の箇所はその迷いでた子羊である「罪」を犯した兄弟姉妹にどう接するか、その兄弟姉妹との関係を失わないように、どう取り戻すのかということがテーマになっています。そこに主イエスの心があるとマタイは伝えています。

 主は、それがどんな罪であっても、罪を犯した兄弟姉妹を放っておかず「忠告しなさい」(15)と言われます。しかし適切に「忠告する」というのは難しいものです。忠告することによって、かえってその人が頑なになったり、忠告したことで恨みを買うことだってあります。それでも主は「忠告しなさい」と言われるのです。なぜでしょうか。

 第1朗読で、神はエゼキエルに7節「あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない」と言っています。その人に、人間の倫理や道徳や正義によるのでない神の警告を伝えること。それが警告や忠告というものの本質であり、神の言葉を伝えることこそがその内容なのだと分かります。ですから忠告や警告をするにあたって、神はどのように告げておられるか、まずそれを聞き取ることが大切です。

 更に神はこう言われます。11節「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」。主イエスは、この神の思いに立って、私たちに兄弟姉妹がが「悪しき道から立ち帰るように」忠告しなさいと言われるのです。神はその人を慈しみ、また憐れんでおられます。ですから私たちの警告や忠告は、上から目線で注意する、その人の自尊心を傷つけるような自分の考えを語るものではなく、主の名によって集まり、主の名によって祈りあう、その人への愛と謙遜な配慮に満ちたものになるはずです。忠告とはそのような信仰の業であると気付かされます。

 私たちが、兄弟姉妹に忠告しようとするとき、マタイ18章20節にあるように主が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束してくださっていることはなによりの支えです。今日はこのことを見ていきましょう。

 なにより大切なことは、今ここに、主イエス・キリストがおられることです。聖書は、主イエスは霊として共にいてくださると告げています。そのことがよく分かっていれば、信仰は成り立ちます。大切なことは、その主イエスが今生きておられることです。私たちを、この私を愛してくださっているということです。

 しかし、主イエスがおられると信じることになんの迷いもないかというと、必ずしもそういい切れないという危険があると思います。祈っていて、こんな祈りに意味があるのだろうかと、ふと空しい思いに捕らわれたことがある方はきっとあると思います。礼拝に汗をかきながら来て、いったい何のためにこうして来ているのだろうという思いが湧いてくるような体験をした方もあるのではないかと思います。こういう神から私たちを引き離そうとする力にいつの間にか捕らわれているというときに、このような誘惑に打ち勝つ道はあるのでしょうか。あるならば、それはどのような道でしょうか。

 それは聖餐と洗礼、そして主イエスの約束を信ずることだと言われます。第2次大戦後に、ドイツの代表的な神学者たちが集まって聖餐理解について論議し、それをまとめました。

 彼らが最初に確認したこと、それは、聖餐は、主イエス・キリストがお定めになったものであるということでした。キリスト者の誰かが始めたのではない。主が始めてくださいました。十字架の死に先立って、主が弟子たちと共に最後の晩餐をなさった時、これをこの後も繰り返すようにと命じられた。だから私たちも聖餐を大切にして、私たちも聖餐を祝い続けています。

 洗礼式も、主イエス・キリストがバプテスマを施しなさいと命じてくださったのです。ですから、教会の歴史の最初からキリスト者になるための洗礼式が行われてきました。

 そして、三つ目として今朝の福音箇所である18章には、もう一つの重要な約束が与えられています。20節です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と主は約束してくださっています。

 この「その中にいる」という言葉は、ギリシア語の原文では「真ん中にいる」という意味の言葉です。ですから主は「わたしはその真ん中にいる」と言われたということです。

 「真ん中」というのは、誰からも等しい場所です。誰にも一番近いところです。このど真ん中に主イエスはいてくださると約束されたのです。

 主が「真ん中」におられるということと同じ重みをもって、もう一つ大事なことがあります。それは主が「二人または三人がわたしの名によって」と言われたということです。単に二、三人が集まるのと、「二人または三人が主の名によって」集まるのとでは違いがあります。大事なのは人が主の名によって集まるとき、その集まりの中心は誰かということです。

 ここで「わたしの名によって」という言葉に注目します。「わたしの名によって集まる」の「名」とは単なる呼び名ではなく、そのものの本質を表します。ですから、私たちが、イエス・キリストの名によって集まるというのは、そこに主イエスがおられるということです。

 いわば主イエスによって支えられている私たちが、その肉体も魂も、全部、身ぐるみすべてを主イエスに支えられている私たちが、主と共にそこに集まるということを意味します。

 私たちは主イエスのうちに一つに結ばれてここにあります。主がここにおられるということは、信仰によれば、私たちが実在することよりももっと確かで、もっと深いものです。それがこの「主の名によって」ということに込められています。

 人間というものは、非常に矛盾に満ちた存在です。生きていく上で、人と出会い、その助けと支えを必要としますが、またその一方で自分の欲望や望みを優先するし、相手を傷つけたり、その人の人生を破壊してしまったりもします。

 人を必要としながら、人を傷つけてしまう。そういう弱い私たち人間が、罪を犯す度ごとに裁かれて、人とのつながりから切り離されてしまうならば、そんな世界で生き残ることのできる人間は誰もいないでしょう。ですから赦し合うことは、罪深い人間が共に生きていくための絶対不可欠な条件だといえます。今日の福音で主イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら・・・」と、まさに互いに赦し合うことを私たちに訴えています。

 罪を犯した兄弟姉妹をそのまま放っておくことは、相手の滅びを黙認することと同じです。それは許されません。そこで主イエスは、愛の業として罪を犯した兄弟姉妹に働きかけていくことを勧めています。

 主は、そのために手段を踏むことを勧めます。そして最後に「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なす」ようにと言われます。それは罪人を突き放してしまうかのような印象を与えますが、そうではありません。主イエスが異邦人や徴税人の中に飛び込んで行かれたことを見れば明らかです。主は私たちにも罪人の懐に飛び込んでいくことを促しています。

 私は教会生活をしてきた中で、尊敬していた兄弟が罪を犯し、収監されるという経験をしました。この方はその為にこの世の物の実に多くを失いながら、しかし、ご家族の絆は決して破壊されることなく、みな耐えきり、みな幸せを掴んでいます。その方は今やある教会の重鎮として活躍しておられます。私は、これはそのご家族が、おりが良くても悪くても主に信頼し、祈りあう家族であり続け、神の憐れみをいただき続けたからだと実感しています。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と主はおっしゃいます。主の言葉はまったく真実です。主は私たちの間においでになって、罪人を赦し続けることができるように、お互いに赦しあえるように、今日も私たちを支えてくださっています。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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