2023年9月3日日曜日

礼拝メッセージ「この道を行く」

2023年9月3日(日)聖霊降臨後第14主日 

エレミヤ書:15章15〜21 

ローマの信徒への手紙:12章9〜21 

マタイによる福音書:16章21〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週の福音箇所で私たちはペトロへの主の言葉を聞きました。「あなたは幸いだ。・・・あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」これは、他の11人の弟子たちの前で、直接にペトロに語られたものですから、彼にとって生涯忘れることのできない出来事になったに違いありません。

 漁師だったペトロは、ガリラヤ湖のほとりで主イエスに声をかけられて、共に暮す父親も食べてゆくための漁師の仕事も全てを後に残して主イエスに従ってきました。ですから、ペトロにしてみれば、主イエスが弟子たちの中で自分を一番の弟子として選んでくださったということはどんなにか嬉しく、誇らしかったことかと想像できます。

 21節に「この時から」とあるように、この出来事の後、主イエスはご自分が苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに受難予告をし始めました。この「受難予告」は主の特別な予知能力によるものだと考える必要はないと思います。

 ファリサイ派や律法学者たちは、主イエスが弱い立場の人々の側に立ち、また差別せずに人々に神の愛を説き明かしていることを、自分たち宗教指導者の立場や優位性を脅かすものとして苦々しく思い、また憎しみを増していることをよく分かっておられました。

 ですから、旧約聖書の時代に、神の御心を告げた預言者たちがイスラエル社会のエリートたちから憎まれて殺されたように、ご自分も彼らから迫害されて殺されることは避けられないと予測できたでしょう。

 にもかかわらず、主イエスは自分の身を守るために、これまでの歩みを変えるということはありませんでした。最後まで、父である神への信頼と神の子であるすべての人への愛を貫きます。「たとえ受難と死が待ち受けていたとしても、この道を行く」、十字架に向かうイエスの決断とはそういうものだったと思います。

 21節の「・・・することになっている」という言葉の元のギリシア語は「デイdei」という語で、決定的な意味を持っています。この語は必然的に起こることを表すだけでなく、それが神の定めたこと(神の計画)だということを表す言葉だからです。ですから、この語から主イエスが、ご自分の受難と死と復活が神のご計画であることを確信しておられたことが分かるのです。

 ペトロは主が苦しみを受けて殺されると聞くやいなや、主を引っ張って行って「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と面と向かっていさめます。ペトロは他の弟子たちの思いも代表してこう言っているのです。

 弟子たちは主イエスが、メシア、救い主であると信じています。しかし、民衆と同様に弟子たちは「メシア」は政治的なメシアで、大国の支配下で虐げられてきたユダヤ民族を抑圧から救い出してくれるメシアとして理解していました。ですから、弟子たちは「苦しむメシア」「弱々しいメシア」を受け入れられるはずはありませんでした。ペトロの言葉と態度はそういう彼らのメシア理解から生まれたものです。

 すると主イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4:10)を思わせるような厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」と言われる主イエスは天の父なる神のみ心に沿って、十字架に向かって歩んでいます。その歩みを邪魔することは、主イエスの生涯の最も本質的なことである、人類を救おうとする神の業を妨げることになります。それこそがサタンの業です。ですから主イエスの十字架への歩みの前に立ちふさがるペトロを、主イエスがサタン呼ばわりしたのは当然のことです。

 私たちもまた、人を神から引き離そうとする力、サタンの力が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

 受難予告の後、主イエスはご自分の受難と復活の道に従うよう、弟子たちを招きます。主が私たちに語る「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」(24)とはどういうことでしょうか。当時、十字架刑の死刑囚は見せしめのために十字架の木をかついで街中を歩かされました。そこから考えると「十字架を負う」とは「苦しみや死」よりも「辱めを受ける」という意味が強いのかもしれません。

 いずれにせよ、私たちにとってそれは何を意味するのでしょうか。「自分を捨てる」ということを文字通り受けとって、殉教すること、また隣人のために自分の命を犠牲にするとも考えられます。また、「自分を捨てる」ということを自己中心的に握りしめている願いを手放す事だという受け取り方もあります。お互いの考えを話し合えるといいですね。

 ところで、ある牧師によるこういう祈りに出会いました。

 「十字架の主よ、あなたが私たち一人ひとりに与えられた十字架は、たとえ小さく見えようとも、それから目を逸らさなければ、実は重く、大きく、負いきれないほどのものです。しかし、私たちのためにご自身の命を棄ててくださったお方の故にそれを背負い、あなたに従って行くことができます。あなたの軛を負わせてください」。

 この祈りで気づいたのですが、実は、私たちはそれぞれすでに十字架を与えられていて、それを負っているんですね。十字架、それは私たちの人生そのものです。私たちの人生は多くの場合、人々から注目されるような華々しいものではなく、ごく平凡です。私たちは決して世間からもてはやされるようなスターではありません。毎日を妻として夫として、子供として、親として、職場で、家庭で、地域で生きている。けれどもそんな私たちの人生は、生きてゆく上で決して、たやすくはないです。それが、この祈りの「十字架の主よ、あなたが私たち一人ひとりに与えられた十字架は、たとえ小さく見えようとも、それから目を逸らさなければ、実は重く、大きく、負いきれないほどのものです」ということではないでしょうか。

 そして、祈りはこう続きます。「しかし、私たちのためにご自身の命を棄ててくださったお方の故にそれを背負い、あなたに従って行くことができます。あなたの軛を負わせてください」。最後の「あなたの軛を負わせてください」という言葉でもう一つ気づきました。「私の十字架は、実は自分だけが負っているものではない。主がすでに担ってくださっているものであり、軛のように、主と共に負わせてもらうものなのだ」ということです。重荷であれ、辱めであれ、主が共に負ってくださるのです。私たちは主に導かれて、死を超える命に向かって、永遠の命に向かって主と一緒に歩めるのです。

 第一朗読で、主に不平を言う預言者エレミヤに、主なる神はこう言われます。19節「もしあなたが立ち帰るならば/私はあなたを立ち帰らせ/あなたは私の前に立つ」。20節「私があなたと共にいてあなたを救い/助け出す」。21節「私はあなたを悪人の手から助け出し/凶暴な者の手から贖う」。あなたの人生そのものが、あなたの十字架です。主は必ずあなたを助けて下さいます。だから人生を投げ出さず、しっかりと背負っていける。主が共にいてくださり、必ず贖ってくださるからです。

 最後に第二朗読で、パウロが、信仰者が自分の十字架を負うということは、日々どのような信仰と祈りをもって生きていくことなのかを言葉にしてくれていますので、パウロを通して語られる主の言葉を共に味わい、聖霊の力と助けを頂きたいと願います。ローマの信徒への手紙12章9節から21節を声に出して、ご一緒に読みましょう。

12:9  愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみ、

12:10 兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、

12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

12:12 希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈り、

12:13 聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。

12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。

12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません。

12:17 誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。

12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。

12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。(申32:35、詩94:1)

12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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