2023年9月5日火曜日

小さいが重みのある十字架

 2023年9月3日 小田原教会 江藤直純牧師

エレミヤ書15:15-21;  ローマの信徒への手紙12:9-21;  

マタイによる福音書16:21-28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 以前にご紹介したことがあったかもしれませんが、日頃見聞きすることも少ないので、もう一度その冒頭部分をご紹介します。今から423年前に長崎で出版された書物の中に収められていました。

 「ばんじかなひ玉ひ、てんちをつくり玉ふ御おやデウスとその御ひとり子われらが御あるじゼス キリシトをまことにしんじ奉る」。「ばんじかなひ玉ひ」、「ばんじ」です。すべてのことが「かなひ玉ふ」、おできになる、つまり全能であるということです。「デウス」、ラテン語で神のことです。「御あるじ」、主のことです「キリシト」は今は「キリスト」と発音します。そうです。これは私たちが毎週毎週唱えている「使徒信条」の出だしのところです。西暦1600年、江戸時代が始まる前にすでにキリシタンたちは日本語で2世紀からずっと伝わっている使徒信条を自分たちの日本語で唱え、信仰告白をしていたのです。大名も武士も百姓も漁師も身分に関わりなく、一つ心となって自分たちが信じる神とキリストとはいったいどなたであるかを表明していたのです。たとえそうすることが自分たちのこの世での不利益になるとしても、いえ、実際やがて過酷な迫害に遭うことになるとしても、唱え続けていたのです。420年以上も前の古めかしい日本語の信仰告白を聴くと、当時の無名のキリシタンたちのリアルな信仰告白が胸に迫ってきます。

 「あなたこそ生ける神の子、キリストです」、これは1954年に刊行された口語訳聖書でのパウロのフィリポ・カイザリアでの信仰告白です。実に力強く格調高い告白です。1987年の新共同訳では、キリストを旧約以来の伝統的な表現であるヘブライ語のメシアに戻して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と訳しました。5年前に出た聖書協会共同訳でも同じく「あなたはメシア、生ける神の子です」となっています。福音書が伝えるもっとも古い信仰告白です。それよりももっと古い信仰告白はパウロによれば「イエスは主である」(ロマ10:9, Ⅰコリ12:3)でした。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」、弟子たちを代表してのペトロのこの告白をイエスさまはきっと喜んで受け入れられたことでしょう。

 しかし、これをペトロがこの告白は自分の功績だと誤解しないようにはっきりと釘を刺されました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)と言われたのです。この点については使徒パウロもまったく同感であって、コリントの信徒たちにこう言っています。「また、聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリ12:3)。人間には理性もあれば宗教心もあるのだから、自分なりの信仰告白ができそうなものですが、聖書はそうは認めません。生身の人間には人間を超えた存在についての正しい、心の底からの認識は実はできないのです。ただ、「天の父」の力によって、あるいは「聖霊」の導きによってのみ可能になるのです。

 ペトロにしてみれば渾身の力を振り絞って口に出したものの、告白の内容が自分の心の底からのものとなるためにはまだまだ時が必要でした。それはなにも味噌や醤油や酒がそうであるように発酵するのに、熟成するのに一定の時間が必要だという意味ではありません。時間というよりも出来事が必要だったのです。その出来事というのが主イエスの苦難と十字架の死そして死からの復活でした。そして、その苦難と十字架の死と復活とが自分自身にとってのものであるということを分かるための自分の経験もまた必要だったのです。

 今朝の福音書の日課は、イエスさまが弟子たちにご自身が経験することになるこれからの出来事を初めて予告なさったことを綴っています。しかも福音書はそれが三度繰り返されたと記しています。それでも、ペトロたちがイエスさまの十字架の死、ましてや死からの復活の本当の意味を理解できるようになるのには、時間だけではなく、その出来事そのものを自分自身で経験しなければならなかったのです。イエスさまがメシアであることはだれにも話さないようにと口止めされたのは、それが重大な秘密だからだと思っていましたが、もう一つの理由がありました。それは肝心の弟子たちがその真意をまだ分かってはいなかったからです。わかってないから、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16:22)と必死の形相で諫めたのです。つまり、イエスさまの苦難と十字架の死と復活ということが自分自身にとって必要だなどとは夢にも思っていなかったのです。想像することなどとてもとてもできなかったということを暴露してしまいました。

2.

 ペトロとしてはせいいっぱいの善意からの忠告のつもりでした。それを事もあろうに、イエスさまからひどい言葉を浴びせられたのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)。ペトロたちはこの言葉がいったいどういう意味だか、まったく分からなかったことでしょう。

 でも、お叱りの言葉の格段の厳しさと共に、次の言葉は十分には分からなかったにしても、きっと耳にとまったことでしょう。いえ、耳にだけでなく心に深くとどまり、そのあとの人生でずっと覚えていたのではないでしょうか。その言葉とは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(12:24)です。「自分を捨て」というところは岩波訳には「自分を否み」と訳されています。英訳でもそれに似た、否定するとか断念する、放棄するといったニュアンスです。つまり、ここには「自己否定」ということと「自分の十字架」という二つの重大なキーワードが「わたしについて来たい者」に求められているのです。このことを今日はじっくりと考えてみましょう。

3.

 「十字架」という言葉から皆さんはすぐにどういうことを思い浮かべられますか。私がよく参照にします『広辞苑』第七版には次の2点が書かれていました。「①罪人を磔にする柱。木を十字形に組み合わせて作ったもの。はりつけばしら」。そして「②キリスト教徒が尊ぶ十字形のしるし。イエスが磔にされ、その受難・死・復活によって人間の救済を成し遂げたことの象徴であり、礼拝の対象」と客観的に記述してあります。

 もう一つの私が愛用している『新明解国語辞典』にも似たような二つの説明がありますが、それに加えて実際の用法の説明もあります。「①罪人をはりつけにする十字形に組み合わせた柱」。これは広辞苑と同じですね。新明解はそれに続けて「十字架を負う」という使い方があることに言及し、その説明をこう書いています。「どのような手段によっても消し去ることのできない苦悩(苦難)を一生負い続ける」。たしかにこういう意味で「十字架を負う」という表現を使うことはありますね。さらに、「②キリスト教(徒)のしるしとして持つ、十字架をまねた形のもの」と書いてあります。さらに、「犠牲として強制される、重い負担の意にも用いられる」と記述し、その用例として「重すぎる十字架」という言い方を挙げています。

 たしかに重罪人の処刑の際に使われるはりつけ用の木の柱のことと、キリスト教において救いとの関わりで長く大切にされて使われてきた意味とがあります。しかし、そこから派生して「十字架を負う」とか「重すぎる十字架」といった用法も教会の外においてもしばしば使われるのは間違いありません。それでは、今日の日課でイエスさまがおっしゃった「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というお言葉はどういう意味だったでしょうか。「自分の十字架」とは一体何でしょうか。

 イエスさまの十字架が私たち罪人の罪を贖うためという、これ以上なく重く、掛け替えのない意味を持っていることを思いますと、私たち一人ひとりに背負うように促されている「自分の十字架」もまたそれほどに重く、深刻な意味を持つのだとしたら、そう聞いただけで身震いをし、尻込みをしてしまわないでしょうか。自分の罪でさえ自分ではどうしようもないのに、人様の罪を贖う十字架など、そんな大それたことは私などにはとうていできません、と言わないではいられません。謙遜などではなく、正直にそう思うのです。

 それでもイエスさまが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃっています。そういうときに、今日の使徒書の日課が思い出されました。日課の直前、ローマの信徒への手紙の第12章の書き出しはこうです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12:1)と。ここには、キリスト者の生き方の基本的な姿勢が示されています。ここで「いけにえ」という旧約に伝統的な儀式、祭儀と関わる表現がありますが、旧約の預言者たちに共通する特徴は祭儀よりも倫理を優先させる傾向が強いということです。イザヤ書1章には「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる」「むなしい献げ物を再び持って来るな」(イザ1:11, 13)と書かれており、ホセア書6章には「わたしの喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセ6:6)と記されています。ですから、使徒パウロも、動物の犠牲などの祭儀ではなく、「自分の体」を、つまり「自分の生き方そのもの」をいけにえとして献げなさいと言っていて、「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝である」(ロマ12:1)と断言しながら勧めているのです。

 では、動物のいけにえや穀物などを献げる祭儀ではなく、神が喜ばれる「生き方そのもの」とはどういうものでしょうか。日課の12章の9節以下をもう一度見てみましょう。「愛には偽りがあってはなりません」(12:9)。愛とは自分の心情のことではなく、相手への具体的で、無私の、その人を尊び生かす関わり方です。見かけではなく、表面的なポーズではなく、無垢で純粋な相手本意の実際の関わり方のことです。見せかけの愛は偽りだと見抜かれるのです。人の目はごまかせても、神の目はごまかせません。「愛には偽りがあってはなりません」とわざわざ使徒パウロが言うのは、私たちの愛にはしばしば偽りがあるという事実を知っているからでしょう。

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:

10)。兄弟愛とは気の合う者同士の感情とか気分などではなく、相手を自分よりも優れた者、価値ある人と思い、敬い、尊び、重んじる実践です。そうするようにと、そのように生きるようにと勧められているのです。嫌な言い方ですが、人を愛する、しかも具体的な行動を伴って関わるというときに、ひそかに内面の優位さが私たちの心の隅に忍び込むことはないでしょうか。行動の背後に「してあげられる」という相手への優越感が隠れていないでしょうか。

 さらに続きます。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい」(12:13)。相手の貧しさ、あるいは欠けているところをそのままにしておかないで、その穴を自分の持っているもので補ってあげるようにとの勧めです。口先の同情ですませるのではなくて、平たく言えば自腹を切りなさいと言われているのです。有り余るゆとりのあるときにはそうしなさいとは言われていません。その人の貧しさや欠けはその人のものだ、自己責任だと言ってしまうのではなく、我が事として、自ら痛みを負ってでも助けなさいと言われています。しかも、そのような好意的な関わりをするのは自分が好意を抱いている人に対してだけするように限られているのではありません。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(12:14)。ここまで言われると、そうそう簡単に、はい、そういたします、そのようにできていますと即答するのは躊躇われることでしょう。

 それらの勧め、あるいは戒めを集約するような有名な言葉がここで語られています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(12:15)。そうだ、そのとおりだ、そうすべきだ、そうしようきっと誰もが思うでしょう。いい言葉、美しい教えだと感じます。ところで、この二つはどちらがやりやすいでしょうか。ある人は、喜ぶ人と共に喜ぶ方が泣く人と共に泣くよりも易しいと思うかも知れません。喜ぶ方が気楽というか楽しいというかだからです。しかし、私は実は逆に思うことがあります。泣く人と共に泣くのは、泣き悲しんでいる人に同情すればできます。しかし、同情するとき表には出しませんが、少しだけ相手よりも優位に立つ思いが潜んでいる場合があります。けれども喜ぶ人と喜ぶときは、顔で一緒に喜んでいても、心のどこかで羨む気持ちや妬む気持ちが隠れている場合があるように思えます。無条件に、素直に喜ぶ人と共に喜べればこんないいことはないと思いますが、百パーセントいつもそうなるとは限らないのが正直なところではないでしょうか。さもしいというか見苦しい心の動きが蠢くときがあるのを否定できないのです。

4.

 こんなことを言い続けると、あまりに自虐的だとか厳しすぎるだと思われるかも知れません。ふだんはそこまで考えないよと言われるかもしれません。ええ、私たちはふだんは目をつぶって見ない振りをしています。そうですけれども、聖書の光を自分の心に差し込まれると、イエスさまからじかに語りかけられると、自分の心の奥底にあるものを見て見ぬ振りはできなくなります。ましてや「わたしについて来たいならば」と言われると、そうしたいので、もはやありのままの自分を、みっともないような自分を認めないわけにはいかなくなります。

 そのときイエスさまはおっしゃるのです、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。自分を捨てよ、自分を否め、自分を否定せよと言われるときの「自分」とは、たった今聞いたばかりの聖書の言葉という光によって照らし出された自分の弱さ、足りなさ、欠け、曲がっていたり歪んでいたりするところのことです。高慢さや自己中心さを含まれます。そういう「自分」を思い切って否みなさい、痛みを感じても否定しなさい、棄てなさいと優しく諭されているのです。「自分の十字架を背負って」とは、そのような弱さ、足りなさ、欠け、歪みを居直ってごまかしたり、自己正当化したりせずに、自分はそのような弱さ、欠けを持った者であるということを認め、その上でそれを磔にし、死んで滅ぼされるようにしていただきなさいと導き励ましてくださっているのです。何のために。それは、弱さや欠け、罪が滅ぼされると、そこには死からの解放が待っているからです。復活が、新しいいのちが待っているのです。その日まで「自分を捨て、自分の十字架を背負って」、しかし、黙ってじっとしているのではなく、不完全ながらも、弱さや欠けや罪を抱えたままであっても、目の前の人に、及ばずながらも、愛の関わりをして行きなさい、そうすることで「わたしに従いなさい」と主イエスは招いていてくださるのです。

 こうなったときに、私たちは怯むでしょうか。足踏みするでしょうか。そうしたいのは山々だけど、自分にはそれはできない、無理だと思うでしょうか。なぜなら、「自分」は、「自分の十字架」は一つひとつをとって見れば一見小さいようですが、真摯に考えれば重みがあると感じるからです。

 そのときイエスさまがペトロたちに語られたあの言葉を思い出してください。ご自分は「多くの苦しみを受け、殺される」と、つまり、ご自分は「十字架を背負って」地上の生涯を全うするとおっしゃったのです。その十字架とは、そうです、それは他でもありません、私たちのことです。小さな、しかし重みのある十字架を背負っている私たちのことです。弱さと欠けと罪を持つ私たちを主イエスはご自身の十字架として背負ってくださるのです。それが十字架を背負って神の示される道を歩まれるイエスさまの姿なのです。イエスさまは私たちに無理難題を吹っ掛けられているのではないのです。私たちがそうできるようになるための手立てを講じておられたのです。

 そのお蔭で、私たちは自分の十字架を背負いながら、イエスさまが示された道を、愛の道を、たとえ少しずつであっても、歩いて行くことができるのです。「自分の体を、そうです、自分の生き方そのものを、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12:1)。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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