2023年6月18日日曜日

礼拝メッセージ「憐れみの主」

2023年6月18日(日)聖霊降臨後第3主日 岡村博雅

出エジプト記:19章2〜8 

ローマの信徒への手紙:5章1〜8 

マタイによる福音書:9章35〜10章8

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 今日の福音書箇所に、主イエスは群衆が「弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)とあります。この主イエスの心の内はどのようでしょうか。

 私たちは、悲しいこと、苦しいこと、また腹の立つことにも出会わずに生きていくことはできないことを思います。日々の身近なことばかりではなく、国内に目を向け、世界に目を向ければ、悲しく痛ましい事件が次々に起こっており、報道を通じて弱り果て、打ちひしがれている人々の姿を目にします。私たちの良心はそんなとき「主よ、私たちはどうすればよいのでしょうか、何ができるのでしょうか」と自問します。

 そんな私たちのために、今日の福音は主イエスがどんな思いで人々をご覧になり、人々に寄り添おうとなさったか、その主の心の内を知ることで私たちが弟子として主に倣えるようにと促されていることに気づかされます。今日与えられた箇所から聞いてまいりましょう。

 マタイは福音書の初めのところ4章23節と今日の9章35節で主イエスが人として地上にあった時の働き全体をまとめて、ほぼ同じ言葉でこう述べています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。

 こう言った後でマタイは最も大切なことを語ります。彼は主がご自身の活動を通じて人々をどのように見て、どう感じたかという、主イエスの「深い憐れみ」について語っています。36節、主は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と。この人々への「深い憐れみ」とは「深い共感」と言い換えてよいと思います。この深い共感こそが、主イエスを主イエスたらしめるものです。キリスト者とは、この主イエスの憐れみのこころを、深い共感を自分のものとしていけるようにと祈り願う者です。

 ところで旧約聖書の時代イスラエルの人々は神をどのように見ていたのでしょうか。旧約日課の出エジプト19:5に「今、もし私の声に聞き従い、私の契約をまもるならばあなた達は私の宝となる」とありますが、古代イスラエルの人々は、「神は聖なる方であり、万物の主である。罪を犯すものは罰し、掟に忠実なものには豊かな報いを与える」という、そういう契約を結ぶ神だと理解していたことが旧約聖書全体から分かります。

 しかし預言者エレミヤは、繰り返し神に背くイスラエルに対して、神は理屈なしに心の底から深く憐れみ揺り動かされてしまう方だと伝えようとしました。

 そして神は、神の人間への憐れみそのものである独り子主イエスをこの世に送ってくださいました。主イエスは神が義の神でありながら、至らない者、過ちを犯す者をも深く憐れみ、愛のゆえに辛抱強く待ってくださり、赦し、救ってくださる方であることを、身をもって知らせてくださいました。

 弟子たちの派遣に触れる今日の福音は、この主イエスによる救いの働きが、まず12弟子たちに託された次第を語ります。そして今や人々の魂への働きが、聖霊の助けによって、教会に招かれている私たちに託されていることを語ります。

 さてマタイ福音書に戻りますが、弟子たちを宣教に派遣するという事になったのは、主が「弱り果て、打ちひしがれている人々を見て、深く憐れまれた」からでした。主は弟子たちに言われました。「収穫は多い」、「収穫のために働き手を送ってくださるように、神に願いなさい」(37,38)と。

 まったくそうです。助けを必要としている人は多いが、働き手が少ないのです。今、この時にも戦闘下にある国や地域では抑圧する者も、抑圧される者もふらふらになっていると思います。それだけでなく、私たちの身近でも、やはり生活や健康に多くの不安を覚えている方々が多々あるのではないでしょうか。そのような私たちの社会にはどうしても人を助ける者、導く者が必要です。

 苦しんでいる人達というのは、むしろ救いのすぐ近くにある人達だと言えます。ですが、例えば殻を破り卵からかえろうとがんばる雛鳥を親鳥が助けるように、外から殻を突っついてやる、そういう人が足りない。だから、そういう人が与えられてくるように、神に祈りなさいと主は言われるのです。

 9章はそういうふうにして終わるわけです。そしていよいよ祈りが聞かれて、その働き人が与えられた。今度は主イエスが働き手である12弟子を送り出す話が10章というわけです。今日の福音はそんな位置づけがされています。

 主イエスは12弟子を呼び寄せて、彼らに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすための権能をお授けになった」とあります。マルコやルカにも弟子の派遣の話があって、ルカは72人を派遣したと言いますが、弟子の派遣についての要点は、人数ではなく、「権能をお授けになった」というその「権能を授ける」ということにあります。

 マタイは10章7節以下で「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と述べます。その通りに読むと、これはまさに主イエスがなさっていたことの全てです。ですから、主イエスは弟子たちに、主がなさっていたことと同じことができるという権能を授けた、弟子たちにご自分と同じ神の子の力を委ねられたというふうに読めます。

 でも私たちは、それはイエス様だからできたけれども、私たちはイエス様ではないから、とてもイエス様と同じことなどできないと思う。もしそこで権能を委ねられた者として責任も問われるとなれば避けたくなるでしょう。

 しかし主が弟子を派遣するという主イエスの宣教はそういう責任論ではありません。現代において病気を治すのは医学の領域のことです。しかし、その人の魂の領域において主の権能は今も働きます。その人の魂の痛みや悲しみに寄り添い、癒すことを主イエスは私たちに求めておられるのです。

 主がまず言われたことは10章7節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」ということです。

 主イエスが弟子たちに権能を授けられるのは、まずこの神の愛、神の力を人々に伝えるため、あなたは神に愛されていると伝えるためです。主イエスは神が創造してくださった大地に立って、弟子と同じ、人としての弱さをもって生きるなかで、教え、また数々の業をなさりながら働かれたわけです。

 主は12弟子たちにも人としての弱さや限界があることをじゅうじゅう承知のうえで派遣されたのです。だからあなたは主の名によって、つまり主の愛と一つになって、神の愛を伝え、祈りをもって病人の魂をいやし、死んだも同然だった人を生き生きとさせ、悪の思いから解放しなさいと言われるのです。

 弟子たちは、出て行った先々で触れ合った人々から様々なことを学んだと思います。当然失敗があったでしょう。しかしそれでもくじけず、弱り果ててしまった人々への深い共感を続けることを主は弟子たちに期待しておられたに違いないのです。主ご自身が深く憐れまれたようにです。それこそが主イエスから弟子たちへの大きな期待でもあるわけです。

 今日、主イエスはそのように私たちを世に派遣されます。私たちを派遣するにあたって主イエスはただ派遣するのではありません。主は私たちが出ていった先々で恵みの体験ができることを知っておられ、また期待しておられます。そして希望に溢れて派遣してくださいます。

 使徒パウロは、ロマ書5章1節から5節で、どんなに困難な状況にあってもそこには主にある希望があることを語ってくれています。そして、その根拠は「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからだ(ロマ5:5)」と宣言しています。「聖霊による神の愛」これこそが主イエスが私たちに委ねてくださる権能の源、主の憐れみの源です。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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