2023年6月11日日曜日

礼拝メッセージ「あるがままで」

 2023年06月11日(日)聖霊降臨後第2主日 岡村博雅

ホセア書:5章15〜6章6 

ローマの信徒への手紙:4章13〜25 

マタイによる福音書:9章9〜13

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音はこのマタイ福音書を書いたと言われるマタイが主イエスから「わたしに従いなさい」と弟子になるように招かれたときのエピソードです。しかしこの短い物語の主人公はあくまで主イエスです。主がくださる深く貴い神からの憐れみです。この憐れみについては皆さんはすでに式文にある「キリエ」でご存知のことかもしれませんが、かわいそうと思うというより、深く共感することと言っていいと思います。

 私たちは苦しみの時、悲しみにある時には家族や友人などに共感してほしいと願いますね。しかしそのような時、主に祈り求めるとき、主は必ず深く胸を痛めて私たちに共感してくださいます。どういう方法でかはわかりませんが、わたしたちは真の慰めを受けることができます。私たちはすでに神からの憐れみの内にあります。今日はその恵みに与っているということを聞きとっていきたいと願います。

 弟子たちは主に召されたわけですが、その召しには違いがあることに気付かされます。主イエスはペトロとアンデレ兄弟を弟子に召されたときには、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)とおっしゃり、漁師だった二人は網を捨てて従ったとあります。それに比べ、マタイの場合は極めてシンプルです。主はマタイが収税所に座っているのを見かけて「わたしに従いなさい」と言声をかけ、「彼は立ち上がって」主イエスに従った。それだけです。

 漁師だった二人は、また漁師に戻ることができます。事実主イエスの死後に彼らは再び漁師に戻ります。しかし、マタイは一旦収税所を出れば、自分が二度と徴税人に戻れないことは自分自身の自覚から明らかだったと思います。マタイの覚悟は後戻りのない厳しさを伴うものであったと思われます。

 徴税人というと、ザアカイの物語を思い出しせんか。徴税人は支配者であるローマにへつらい、またいなおって、あこぎなことをしながら、ローマの手先になってユダヤ人同胞から税を取り立て、それを支配者に収めることを生業としていました。ですから、徴税人はユダヤ社会の嫌われ者です。ユダヤ人同胞からは裏切り者、罪人とさげすまれ、憎まれていたことが思われます。

 おそらく主イエスはマタイが収税所で座っている様子を一目見て、この男の心に深く根を降ろした苦しみを見抜いたのでしょう。能力があり、ローマの権威を笠に着て金に困らず、しかしユダヤ人同胞からは屈辱的な扱いをされている。そのマタイの心は自分では抜け出そうにも抜け出せない卑屈で自虐的な自己顕示に満ちていたのではないでしょうか。

 福音書の9節、主イエスはそんなマタイを一目見かけるなり声をかけ、マタイも主の声にそのまま従った。この「主は私を召し、私は立ち上がった」という出来事は彼にとってまったく奇跡的なことだったのではないかと思います。マタイは、それが確かに自分の身に起きたと証する自筆のサインのようにそれを記しました。そしてマタイは主イエスとともに在る喜びを、主の福音を「マタイによる福音書」として私たちに伝えました。

 注解書によれば、「マタイ」とは「主の賜物」という意味です。彼の生来の名は「レビ」です。主に弟子入りした「シモン」が「ペトロ」と呼ばれたように、生粋のヘブライ人である「アルファイの子レビ」(マル2:14)は弟子入りして「マタイ」というギリシア語の名を与えられたと考えられます。

 主に従ったそのマタイがまずしたことは、主イエスを必要としている人々を自分の家に招いて盛大な宴を開くことでした。10節にその宴の席には「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」とあります。

 ここで罪人と言われるのは、律法学者たちの教え通りに生活することがあまりにも困難で律法を守ることができない人たちです。ユダヤ教の口伝律法には数多くの規定や指示があり、戒律や義務だけでも613個もあるといわれますから、その日暮らしで賢明に社会の底辺で生きている人々、娼婦や、盲人、障害者などを含む罪人とされた人々がファリサイ派のように教えに従って生きることなどとうてい不可能でした。また徴税人は豊かですが、仕事柄異邦人と触れて汚れているということで罪人の代表でした。主の弟子となったマタイはそういうユダヤ社会から分断された人々が主イエスと交わり、主の慈しみに触れてもらう機会を作りたかったのでしょう。

 11節に大勢が笑いさざめくあり様を見たファリサイ派の人々が「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難します。

イスラエルでは共に食事をすることは深い意味を持つといわれます。他人を食卓に迎えることは、その人を尊敬しているしるしであり、その人への信頼と友好と赦しの確認であり、神の前で一つであることを表すしるしだといわれます。

 けれどもファリサイ派の人々は、罪はその人と交わることによって伝染すると信じており、自分が汚れないように罪人との間に距離を置いて遠ざけ、決して罪人とは交わりませんでした。

 ですから彼らにとって、主イエスが、罪人と言われて見下されていた人たちと席を共にすることは、彼らのしきたりに真っ向から反することで、我慢のならない、断罪すべき行いであったわけです。

「なぜ、罪人と一緒に食事をするのか」と問われた主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われました。主は、マタイも、ここに招かれた人々もみな神の前には罪人であると認めます。しかし、罪人とは、人が断罪して、交わることを避けるべき相手ではない。

 罪人は神に癒やされるべき病人なのだと彼らの霊的な理解が不足していることを指摘されました。そして、主イエスはファリサイ派の人々に対して、ホセア書6章6節を引用して「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とおっしゃって、神は神殿の祭儀に忠実であることよりも、彼らが分け隔てなく隣人を愛することを求めておられる、預言者ホセアはそう伝えているではないかと諭されました。

 主イエスが罪人と食事を共にしたのは、彼らに神からの愛情と憐れみを深く感じとってもらうためです。神の救いを表すためです。彼らは一緒になって、笑いあい、くつろぎあいながら、なんの偏見もない優しく豊かな主の心と、また、踏みつけにされている彼らの痛みと悲しみへの主イエスの深い共感を感じ取って、主の愛に心を動かされたことでしょう。

 最近はよく「共生」という言葉が聞かれます。「共に生きる」と書きますが、主イエスはすでに2000年前の、偏見と差別に満ちたユダヤ社会において、社会的弱者との「共生」を示しておられたと理解することができます。

 ちなみに、ルーテル教会では様々な施設を通しての働きによって共生を目指す試みが続けられていますが、そこにはなんと言っても、主イエスの貧しい人々、小さくされた人々への慈しみの眼差しに倣うということが共通していると思います。言い換えるなら、神が創造なさった人間とは、人種によらず、国籍によらず、性別や信条によらず、障害のあるなしにかかわらず、あらゆることで差別されず、偏見で見られず、主の名によって歓迎されている一人ひとりだということを主イエスは示してくださったということです。

 最後になりますが、13節の「行って学びなさい」と言われたその「行って」という言葉は「出て行け」という意味です。主はファリサイ派に対して「あなたがたは自分が立てこもっている信仰の砦から出なさい」、自分にとって美しい場所、潔癖を守れる場所、道徳を守れる場所、そう思っている場所から出て行きなさいと言われたのです。

 主イエスは、マタイが収税所から立ち上がって出て行ったように、私たちにも、あなた方も自分の信仰の砦から出て、差別と偏見を捨てて、真実の憐れみを学ぶことができる場所へ行かなければならないと促しておられます。

 なぜなら、ありのままの私たちは決して公平ではなく、人を偏り見るものだからです。また、私たちはいつも充実していて元気で毎日を生きていくことなども不可能です。主はそのことをよくご存知ですから、あなた達にはいつも医者が必要だとおっしゃったのですね。マタイは医者を必要としていました。そして救われました。もしマタイが、主から共感による憐れみを受けず、悔い改めだけを要求されていたなら、マタイの中に主に従うという奇跡は起きなかったのではないかとすら思います。主はまことに神の憐れみそのものです。だからこそ「わたしに従いなさい」と私たちを招いて、私たちを救ってくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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