2023年6月5日月曜日

それでも疑う。それでも共にいる。 

2023年6月4日 ルーテル小田原教会 江藤直純牧師

創世記1:1-2:4; Ⅱコリ13:11-13; マタイ28:16-20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 「信仰」という言葉を聞くと、日本社会では口に出しておおっぴらには言いませんけれども、どこか浮世離れしている感じを持たれたり、日常生活や実生活とはあまり縁がないようなものと受け止められがちです。科学技術が飛躍的に進歩し、やれITだやれAOだという今の世にはおよそ時代遅れのように思われているのではないでしょうか。

 しかし、そういう風潮であっても、いいえ、そういう風潮だからこそ、マザー・テレサとか中村哲とかといった生涯かけて全身全霊を傾けて神を信じ隣人に仕えるキリスト者を知れば尊崇の念を持ち、あるいはそれこそ命懸けで千日回峰の修行を成し遂げるお坊さんが出ると阿闍梨と呼び生き仏として崇めたりするのも確かです。使徒パウロとか先年宗教改革500年を記念したマルティン・ルターにも、今年生誕850年を迎える親鸞聖人にも正直心を打たれるのです。彼らの生、いのちのありようや生き方は自分にはおよそ理解もできなければ、とてもとても及びもつかないけれども、そこにはたしかに「真実」があると思えるのです。「本物の人間」を垣間見るのです。「信仰という世界」を本気で生きている人、利害損得も世のしがらみもかまわないで、大いなる方の前であくまで謙遜になり、信じるところに向かって誠実に歩む真摯な「信仰者」の姿を前にして、世間の人々は畏敬の念、畏れ敬う思いを抱かないではいられないのではないでしょうか。「信仰」あるいは「真実の信仰者」を色に譬えるならば、私には、澄み切った青空の光のような無色透明、あるいは明るく、清らかで、眩しくて、ある種神々しく、凜とした佇まいを見せる「純白の色」のように思えます。

 それと比べると、「疑い」という言葉は暗い、ネガティブな、あるいは時として弱い印象を帯びています。本来ならば一途な信仰、全幅の信頼、固い信念のほうがどう考えても望ましいと思われるのに、何かがそれを遮り、妨げているのです。蛇の誘いだったりサタンの唆しだったりの場合もあります。自分の理性に因る探究の場合もあります。それが「疑い」という心情であり、「疑う」という行動なのです。「信仰」が白なら、「疑い」は灰色でしょうか。グレーの濃淡はさまざまでしょう。ほとんど白に近い淡いグレーもあれば、ほとんど全否定とか憎しみとか敵対心さらには死をも表す黒に近い濃いグレーもあるでしょう。灰色の度合はいろいろあることでしょうが、はっきりしていることは灰色は純白ではないということです。

2.

 今朝どうしてこういう話しをし始めたかと言いますと、今日の福音書の日課に、「信仰と疑い」、「信じる者と疑う者」についてのごく短いけれども非常に興味深い言及がなされているからです。主イエスの十字架と復活の後、「11人の弟子たちは」彼らの故郷、ガリラヤに戻り、生前イエスさまが指示なさっていた「山に登った」のでした。あの山上の説教が語られた山だったでしょうか、山上の変容の舞台ではないかと言われているタボル山でしょうか。エルサレムのずっと北方のガリラヤ地方ということ以外は分かりませんが、ガリラヤは彼らのイエスさまとの出会いと活動の原点です。山は神が自己顕現なさる場、人との出会いの場であると言われていますので、主と弟子たちの地上での最後の出会いの場としては、「山に登った」という場面設定はどの山であれ、実にふさわしいことです。

 17節「そして、(弟子たちは)イエスに会い、ひれ伏した」と記されています。お辞儀をしたとか手を合わせたなどという姿勢ではなく、「ひれ伏した」というのは復活の主へのこれ以上ない真剣な礼拝行為です。仏教で言う五体投地にも匹敵する、全面的な最高の礼法だと言えるでしょう。弟子たちは頭も両手も両膝も地に付けて、畏れと敬いと服従の思いを表現したのです。信仰者としての心を体全体で表明したのです。

 しかし、マタイ福音書の記者は、驚くべきことを書いています。皆ひれ伏したのですが、「疑う者もいた」、幾人かは疑った、信じるのを躊躇った、と記しているのです。マタイに拠るならば、主が十字架の上での悲惨な最期を遂げられたので弟子たちは失意のどん底にたたき落とされましたが、復活の主はマグダラのマリアともう一人のマリアと再びまみえてくださり、彼女らを通して「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と弟子たちに伝えさせられたのです。ですから、エルサレムにおいてではなく、故郷であり、イエスさまと初めて会った地であり、宣教活動に数年間汗水流した地域、彼らの信仰の原点であるガリラヤで彼らは復活の主と相まみえることになるのです。事実、あの山の上で、復活の主とお会いできたのです。彼らは驚愕し、さらに歓喜に打ち震えながら、「ひれ伏した」のです。自分の目で懐かしの主の顔を見て、自分の耳で聞き慣れた御声をたしかに聞いたのです。約束されていたことは現実となったのです。信仰の世界が現にここに現れたのです。

 それなのに、「しかし、疑う者もいた」というのです。いったいどういうことでしょう。疑うなどとなぜそうなのでしょう。その場にいた弟子たちはみな同じ体験をしているのに、信じる者と疑う者に分かれたのです。疑った者たちは信じた者よりも一等劣っているのでしょうか。名前が書かれていませんが、疑った弟子たちとは誰のことでしょうか。もしかしたら、一人の人の中で信じることと疑うことが同居しているのかもしれません。もしも私たちが、もしもあなたがその場に居合わせたら信じたでしょうか、それとも疑ったでしょうか。両方でしょうか。そもそも疑うことはいけないことなのでしょうか。

3.

 ここに聖書と賛美歌があります。どちらも私のものですので、皆さんの聖書と賛美歌とは違います。個体としては違いますけれども、私のこの本も皆さんが持っていらっしゃる本もどちらも聖書であり讃美歌です。疑うまでもありません。疑うならば両方を並べてちょっと調べてみれば、どちらも日本聖書協会が発行した新共同訳聖書であり、日本福音ルーテル教会が出版した教会讃美歌であることは紛れもない事実であることがすぐ分かります。どちらもが新共同訳聖書であり教会讃美歌であることを疑う人などはいません。そもそも明らかな事実をことさらに信じるなどと大上段に振りかぶって言う、いわば信仰告白をする必要などありません。簡単に証明できるからです。

 では、私が信じ皆さんが信じている神さまが存在するということはどうやって証明できるでしょうか。聖書や讃美歌の存在のように表紙を見比べたり、中身を照らし合わせたり、いろいろな作業をして聖書と讃美歌であることを確認するように、神さまの存在を調べたり、確認作業をして、証明することはできるでしょうか。たしかに昔から神の存在証明ということは論理学とか宗教哲学とかでさまざまになされてきました。そうやって神は存在すると証明できたという人が地球上の90億人の中にはいるかもしれませんが、それで宗教が盛んになったとか、信者が増えたとか、平和が実現し幸福が広まったとかは聞いたことがありません。つまり、神さまが存在するという信仰の大前提というか基礎の基礎は、聖書や讃美歌やモノがあるというのと同じように扱うわけにはいかないのです。そうであるならば、信じる人がいて、信じない人あるいは疑う人がいても、それは当然なのです。

 先々週の日曜日は「主の昇天」を記念する主日でした。あの日の日課である使徒言行録の1章やルカ福音書の24章の記述は、復活のイエスさまが、あたかもロケットが宇宙に向けて打ち上げられて昇っていくように、地上から大空に向かって昇って行かれたと描かれています。西洋の宗教画にもそう描かれています。あなたはそれを信じられますか。

 もうかなり以前のことですが、人類が宇宙飛行というものができるようになったとき、最初の宇宙飛行士は「地球は丸く青かった」という言葉で報告をしました。別の飛行士は「天に昇ったけれども神さまはいなかった」と言いました。天には神はいなかったというのと同じ伝で言うならば、地球に深く穴を掘ったけれども地獄も黄泉の国もなかったと言えるかもしれません。大昔の世界観では、天は空の上にあり、人はこの地にいて、黄泉の国は地下にあるという三階建てになっていましたし、だからそう説明してきました。神さまのお住まいである天はこの空のずっと上にあるのだと。あなたはそれを受け容れ、信じますか。疑い、信じませんか。ある宇宙飛行士は、宇宙旅行の経験の後、キリスト教の宣教師になりました。

 今私たちはそういう三階建ての世界観を疑い、信じてはおらず、そのような世界観から解放されています。地球は丸いし太陽系の惑星の一つだと知っています。果てしない宇宙の広がりを、自分では行ったことはなくても学問的に教えられ、本や映画で見、またコンピュータが描くグラフィックデザインでその構造を目で見ることに慣れています。

 それなら、古い世界観を疑い、信じなくなり、そこから解放されたと同時に、神さまの存在も疑い、信じなくなったのでしょうか。いいえ、そうではありません。そうではなく、未だ有限な人間の知恵では捕らえきれない神の存在を何とかして新しい仕方、新しいイメージで捕らえようとしているのです。依然として私に語りかけ、挑戦し、生かし、人生を導くお方はいらっしゃるのです。依然として生きて、存在し、働いていらっしゃるのです。そのお方をより生き生きと、よりリアルにとらえるために、新しい世界観、宇宙観、人生体験を持つ私たちはその感性と霊性でもって生ける神をとらえようとしているのです。その出発点に疑うという命の営みがあるのです。

 日本で半世紀近くキリスト教の宣教師またカウンセラー、神学者として貢献なさり、90歳を超えた今もカリフォルニアに住みながら、日々思索し、著述しておられるケネス・デール先生が最近出版なさった書物がこの春に『神はいずこに』という題で翻訳されました。デール先生はこの本で神の新しいイメージを新しいたとえ(隠喩)を用いて縦横に語り、私たちに分かち合っていらっしゃいます。たとえば、その中に私たちを取り囲み、見えないけれどもそれがなければ生きていけない「空気」とか、魚にとってその中でしか命が維持される「水」とか、コミュニケーションを可能にする「電波」や「インターネット」とか、一つの秩序の中で働いている「引力」とか、さらには「光」とか「音」とか「炎」とか「太陽」とか、さまざま挙げておられます。それによって神さまとはどういうお方、どういう存在であるかを知るインスピレーションが与えられるのです。

 疑うことで古い思考の型から解放され、いのちの源であり愛である神の新しい理解、現代的感覚によりマッチする受け止め方、より生き生きとした、より意味深い信仰へと創造的に導かれるのです。神様はそのような人間のいのちの営みを喜んで許してくださいます。

4.

 弟子たちは「ひれ伏した」「しかし、疑う者もいた」、イエスさまはそのことを少しも意に介することなく、「近寄ってきて」(18)大切な使命を与えられます。「行って、すべての民を私の弟子にしなさい」「洗礼を授け」「教えなさい」(19-20)と。それを託されたのは100%「信じた人」だけではありません。「疑う者」にもです。疑っていい、真摯に疑いなさい、誠実に疑いなさい、神に問い続けなさい。そうすることであなたはきっと自分を縛っていた古い型から解放されます。新しい創造的な神関係に入れるのです。その日まで「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20)、これが復活の主イエスのお言葉です。これがキリストのお約束なのです。だから安心して疑っていいのです。疑うことは信じることと表裏一体です。光と影の関係です。私たちは信じますが、「それでも疑います」。たとえ私たちがそうであっても、主イエスは「それでも共にいてくださいます」。11人の弟子たちは、皆それぞれに使徒とされ、キリストの証人とされ、教会の礎石とされました。殉教してもこれ以上ない豊かな人生を送ったのです。「それでも疑う」、それでいいのです。なぜなら主は「それでも共にいてくださる」のですから。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン 

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