2023年6月4日日曜日

礼拝メッセージ「父と子と聖霊の愛なる神によって」

 2023年06月04日(日)三位一体主日  岡村博雅

出エジプト記34章4〜6,8〜9 

コリントの信徒への手紙二13章11〜13 

ヨハネによる福音3章16〜18

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 聖霊降臨の主日で復活節は終わりました。ルーテル教会では聖霊降臨後の第1主日を「三位一体の主日」として祝います。この日は、「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、霊的な洞察を深める日として位置づけたいと思います。主イエスの受難と死と復活を見つめ、聖霊降臨を祝った私たちが、神が私たちを救ってくださるその救いの出来事を振り返りながら、今日は父と子と聖霊の働き全体をご一緒に味わいたいと願います。

 今日の福音箇所は、ヨハネ福音書3章1節から始まる主イエスとファリサイ派の議員ニコデモとの対話の中で語られている言葉です。ファリサイ派は福音書ではしばしば主イエスに敵意を抱くユダヤ教の指導者として登場しますが、ニコデモはその中にあって主イエスの言葉に深く感銘していて、へりくだって主イエスに教えを求めた例外的な人物でした。彼は仲間たちと同様に神学的な教養は豊かでしたが霊的な洞察力に欠けていました。ニコデモは主から教えを受けたいと思い、ある夜、主を訪ねてきました。今日の福音はその時の主イエスとの会話です。

 今日は特に16節から18節に焦点を当てますが、その前に、主イエスがご自分の死の重大な意味を説明した13節から15節を見ておきましょう。主はこうおっしゃいました。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。

 この言葉の背景にあるのは民数記21:4−9の物語です。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野を旅したとき、彼らは指導者のモーセにそむいて罪を犯したため、毒蛇に噛まれて苦しみました。その時モーセは、神の憐れみを祈り願い、神から一つの青銅の蛇を作るように指示され、全ての人に見えるように、それを旗竿の先に掲げました。青銅の蛇を仰ぎ見た者たちは、命が助かったという物語です。この物語は、第一朗読の6節、神がご自分を宣言した言葉「主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち〔た者。〕」という言葉の具現化だと言えます。

 「神の憐れみ」を具現化した青銅の蛇のように、人の子である主イエスも、全ての人に見られるように、上げられなければならない。「人の子が上げられる」という言葉には、「十字架の木の上に上げられる」と同時に復活の主が「天に上げられる」という二重の意味が含まれています。そこには青銅の蛇の場合と同様に神の愛の具現化、ラビングアクションという意味があります。

 主イエスはなぜ「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」のか、それが15節、「信じる者が皆、主イエス(の十字架)によって永遠の命を得るため」です。では神はなぜそこまでしてくださるのか。それが16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からであり、「主イエスを信じる者が皆滅びないで、永遠の命を得るため」です。

 そしてこの16節の「お与えになった」というのは単に「イエスを世に遣わした」、「派遣した」ということよりも「神は我が子イエスを十字架の死に至るまで与え尽くされた」と受け取ることができるのではないでしょうか。

 「世」という言葉は、ヨハネ福音書では特に「神を知らず、神から離れたこの世界」を指します。主イエスは、しかし神は自分を裏切り背く、そういう「世の人々を愛された」のだとおっしゃいます。ですからこの世界は神に見放された世界ではなく、神が主イエスをとおして大きな愛をもって救おうとなさっている世界だということを私たちは確信しましょう。この神の愛に思いを深めたいと願います。

 18節の「裁き」は「断罪する」の意味ですから「信じない者は既に裁かれている」という言葉は厳しく響きます。「私の夫は、私の家族はクリスチャンではない。では裁かれてしまうのか」と、そんな疑問も浮かびます。しかし、この続きで語られる「光と闇」のイメージがそうした疑問に答えていると思います。

3章19-21節にこうあります。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。

 主の教えを聞いたヨハネは、神はその人が神に背いたからといって断罪なさらないと言うのです。神は圧倒的な光として主イエスを与え、闇の世を照らそうとされた。その光を受け入れたときに、そして家族などの内に輝くその光を受けたときに、人は救いの中に入っていきます。私は赦され、救われた体験があります。私たちは赦される体験を通して主の救いを知っているのではないでしょうか。しかし、その光を拒否するならば、結果として闇の中に留まることになるわけです。

 ヨハネは「闇の中に留まること」が「裁き=断罪されること(救いから外れること)」であると考えています。このようにヨハネが感じているのは、ヨハネ自身が闇の中で主イエスの光を見いだしたという、神の愛を感じたという体験を持っているからにちがいありません。

 16節の「与える」というのは、無償で何かをプレゼントすることですが、どんなモノよりも、その人のために時間を使うこと、その人と一緒にいて共に時間を過ごすこと、それこそが最高の愛だと、若かった私を一ヶ月に渡って家族同様にホームステイさせてくれた、あるクリスチャンの友人から教わったことを思い出します。“Love is time.”本当にその通りだと思います。

 主イエスは「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)でとおっしゃいますが、このことから「神が独り子をお与えになった」ということを考えてみて気づきました。「神が主イエスと一つであることにおいて、神はご自分のすべてを与えてくださった」のです。

 主イエスのなさったすべてのこと、主イエスの生涯のすべては、神が私たちと共にいてくださり、私たちにご自分のすべてを与えてくださったことの表れなのだと気づかされて、私は感謝に満たされました。

 主イエスの弟子たちは、神が二通りの仕方で人間を救おうとされたことを体験しました。一つは「主イエスの派遣」、もう一つは「聖霊の派遣」です。例えばニコデモとなさった対話のように、イエス・キリストという具体的なひとりの人間の言葉と生き方をもって、神は人に語りかけ、人が神に近づく道を示されました。また弟子たちは、主イエスと寝食をともにしながら主から教えを受け、主の全てから、神の愛と神の救いを知りました。

 一方主イエスが世を去って神のもとに行かれた後、弟子たちは自分たちのうちに働き、自分たちを導く内面的な力を感じ、それが生前、主イエスが約束なさった聖霊の働きだと分かるようになりました。聖霊はどの時代のどんな人の中にも直接働きかける神の力です。そうです。私たちの一人ひとりが聖霊の働きを受けています。心を静めてみてください。きっと聖霊の働きかけが感じられます。

  主イエスの父である神が、子である主イエスと聖霊を通して私たちに決定的な救いの働きかけをしてくださっています。初代教会の人々は、神が父として、主キリストとして、そして聖霊として、一つになって、つまり「三位一体」の神として自分たちに働いてくださることに深く気づきました。

  だからこそ使徒パウロはその手紙を「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という言葉で閉じます。愛と希望に満たされて、そうせずに居られないのです。

 また、私たちが神に向かって歩んでいこうとするときにも、この三位一体の愛が大切になります。キリスト者は「キリストの言葉と生き方」を見つめ、「聖霊という内面に働きかける神からの力」に支えられながら、父である神への道を歩んでいきます。

 しかし、このことはキリスト者はいつも正しく、品行方正で、模範的な信仰生活を送るものだということではありません。悩みの多いこの世に生きる私たちは「ああ、しまった!」とつい道を外すこと“しばしば”です。にもかかわらず、神は親心をもって、真の友として、癒やし、立ち上がる力として、私たちを支え、望み、愛し続けておられます。

 「父と子と聖霊」は不思議な気づきを持って日々私たちを闇から救い出し、光へと導いてくださっています。神は、私たちの日々に「父と子と聖霊」としてダイナミックに関わってくださっています。皆さんも祈りの中で感じておられることでしょう。「父と子と聖霊」である神、愛である神の働きに信頼しながら、祈りながら日々歩んでまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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