2023年5月28日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊によって」

2023年05月28日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)

使徒言行録;2章1〜21 

コリントの信徒への手紙一:12章3b〜13 

ヨハネによる福音書:20章19〜23

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 復活祭から50日目の日曜日である今日私たちは、使徒たちの上に聖霊が降り、教会としての宣教活動が始まったことを祝おうとしています。

 ルカは復活の主が天に昇られる前に使徒たちに宣言なさったことを記録しています。ルカ24:45以下ですが、主はまず11弟子たちの心の目を開いて聖書のメシア預言がご自分において実現したことを悟らせてからこう宣言されました。

 あなたがたは、主キリストの受難と死と復活の証人となる。そして主の名によって罪の赦しを得させる悔い改めをあらゆる国の人々に宣べ伝える。そのために、父が約束された聖霊をあなたがたに送る。聖霊の力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。このように聖霊降臨について約束されました。

 今日私たちは、聖霊の働きについてヨハネ福音書と使徒言行録、またコリント書から聞こうとしています。自分に与えられている聖霊が実際に私たちの人生においてどんなふうに働いてくださっているのでしょうか。

 また私たちは日々を順調に過ごすという一方で、迷ったり、悩んだり、つまずいたり、傷ついたりしながら生活することも当然あるわけです。聖霊は、私たちのそんな日常を恵みのうちにはぐくんで、困難な経験を通しても、私たちが霊的な成長をするように導いてくださっています。今日は私たちが自分の経験してきている聖霊の働きに気づいて、その恵みを思い巡らしたいと願います。

 先日のこと、9年ほど前に小田原少年院のクリスマスを経験したことのある青年が教会を見て「懐かしい」と声をかけてきました。話しを聞くうちに彼は「牧師さんは悪魔を信じますか。俺は信じる」と、真剣な顔で言いました。やんちゃなことをやったりするときに悪魔の力を感じるということでした。彼の「やんちゃなこと」という表現は、子供のイタヅラとは違います。何かしらの犯罪を犯した経験を指しています。

 そして、彼は私にこう尋ねました。「自分が危なくなりそうだったら教会に来てもいいですか?」。5年ほど前まで毎年クリスマスには小田原少年院のクリスマスを小田原の牧師たちと信徒さんが超教派でやってきました。彼はそれを懐かしんでいました。彼は自分がやんちゃなことをやってしまったのは、それが悪魔の誘惑に負けてしまっての結果だと自己分析しているんですね。そして、悪魔に対抗する何かしらの力が教会にはあると思ったのでしょう。だからやってしまう前に教会に来てみようと、そう思いついた。少年院を卒業して10年近く経って、聖霊に導かれて彼は心の内を語ってくれました。

 聖書は聖霊について語りますが、また神から私たちを遠ざけ、私たちを試みるものとして悪魔や悪霊も登場します。聖霊は風とも言われ、また息とも言われます。ギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」です。現代の私たちは気象の影響として風を理解しますが、旧約時代の人々は、目に見えない大きな生命力、力を感じたときに、それを風や息として表現しました。

その力が神からの力であれば、それは「聖霊」です。そしてそれが罪にいざなう悪の力であれば悪魔や悪霊によるものだと考えました。

 聖霊は目に見えません。しかし使徒言行録では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」という表現で、人間が耳で聞き、目で見ることが出来るしるしとして聖霊を物語っています。

 ところで原語では「炎のような舌」の「舌」という語は6節の「言葉」と同じ語です。舌と言葉に訳し分けられています。使徒たちが語る言葉がきっと燃えるような情熱をもって目に見え、耳に響いたのでしょう。

 またヨハネ福音書3章8節に「風(プネウマ)は思いのままに吹く」とあります。「思いのままに」とは聖霊が働く範囲を人間が限定することはできないということです。と同時に、私たちが意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているという事実を物語っています。聖霊の働きは非常に広いものです。そしてこの働きの広さは大切です。

 更に聖霊は私たちの内に具体的に働きます。第2朗読のコリント書でパウロはこう述べています。3節「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」。私たちが信仰を告白するとき、それは聖霊がすでに私たちに働いていてくださっている証なのです。パウロは続けて述べます。

 聖霊はそれが全体の益となる務めや働きを信仰者に与える。ある人には、知恵と知識を与え、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力を与えてくださる。このように聖霊の力にあずかることで私たちはさまざまに奉仕できます。パウロはこうした働きは私たちが一つになるためだと言います。皆が一つになるために私たちは洗礼を受けたのだと洗礼の意義と目的を強調しています。

 体は一つでも、多くの部分から成っているように、一つのキリストの霊によって私たちは結びあっています。私たちは、人種や地位や身分によって区別されたり、差別されることなく、皆で一つのキリストの体である教会を形作るために、洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらっていると述べます。

 聖書には、人が特別に聖霊を意識する2種類の体験が述べられています。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験です。もう1つは、神と人、そして人と人とが結ばれるという体験です。

 自分の体験からも明らかですが、人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを痛感します。しかし、それでも何とかこのミッションを果たせたとするならば、そこに不思議な仕方で神が助けてくださった、という実感があると思います。本当に自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。

 使徒言行録や、パウロの手紙はそうした聖霊体験の記録と言っていいと思います。また旧約聖書、サムエル上16:13、イザヤ61:1にも、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降ると表現されています。

 そしてなんと言っても決定的な聖霊体験は主イエスのそれです。成人した主イエスがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録2章のペンテコステの出来事でも、最後まで主イエスについていけなかった弱い弟子たちが福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降ります。ヨハネ20章では、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることと聖霊の授与が結ばれています。

 私たちキリスト者にとって一日一日がまさに聖霊体験と言えますが、私たちが神からのミッション(使命)を生きようとするときは特に、聖霊との結びつきを繰り返し体験するのではないでしょうか。

 打ちのめされて、うずくまっていた人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、お互いの理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないような体験ではないかと思います。

 神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされます。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。

 聖霊はお互いを通して働きます。福音が命じる神と人・人と人との関係回復である「ゆるし」の実現は、聖霊の働きと切り離せません。

 パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、30から31節で、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、ガラテヤ5:22-23で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と断言しています。

 聖霊など信じないという人は多々あると思います。聖霊の働きは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、頭で理解しづらいのは当然だと思います。大切なのは聖霊を頭で理解することよりも、わたしたちが神の働きや神の助けを自分の中に感じて、他の人の中にもそれを見いだすことではないでしょうか。先程触れた青年の話しを聞きながら、私は今聖霊が働いてくださっていることを思いました。すると心が穏やかになりました。聖霊は信じる人を通して働きます。共に神の導きに従って歩んでいこうとするとき、聖霊は必ず私たちと共に働いてくださいます。


 望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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