2023年5月14日日曜日

礼拝メッセージ「共にあり、内にいる神」

 2023年05月14日(日)復活節第6主日  岡村博雅

使徒言行録:17章22〜31 

ペトロの手紙一:3章13〜22 

ヨハネによる福音書:14章15〜21

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

  今日の福音書の中心にある主イエスの言葉は、18節の「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」という愛の宣言であり「あなたがたのところに戻って来る」という約束であると思います。繰り返し今日の福音箇所を読むうちに、この主イエスの温かくて嬉しい宣言が少しずつ心と魂の奥深くに静かな安らぎとなって響いてきました。

 主イエスがこの世を去って父のもとに行くと、弟子たちに残されるもの、弟子たちに与えられるものはなにかといえば、それは聖霊です。イースターから始まった復活節の中で、今私たちは神から聖霊が与えられる聖霊降臨の主日に向かって進んでいます。

 このところ私たちは告別説教と言われる、主が殺される前の日に語られた言葉から学んでいますが、今日の箇所もその告別説教です。

 主イエスはご自分が明日殺されることは知っています。それで、弟子たちに、「わたしの行く所に、あなたは、今ついて来ることはできない」(13:36)と告げたわけです。そのことで、弟子たちがどれほど不安になるか、どれほどつらい思いをするか、それはもう、主イエスは重々ご承知です。その上で、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。「あなたがたのところに戻って来る」と力強く言われる。この確かな約束を弟子たちに与え、また、私たちに与えてくださいます。

 「みなし子」と言えば、私たちは子どものことを思い浮かべるでしょう。生きていくうえで頼りである親を失ってしまった子どもたちを思い浮かべるでしょう。紛争でも戦争でも両親を失い、避難の途中で親と生き別れになってしまった子どもたちが数多く生まれます。日本の敗戦後に数多くの浮浪児たちがいたことは戦後70年以上を経ても語られていますが、今まさに、ウクライナで、ミャンマーで、スーダンで孤児となった子どもたちはどれほどかと思います。

 第二次大戦後の日本で両親を失った戦災孤児が約12万人にのぼったといわれますが、このうち、引き取り手がおらず、路上で身一つで生きなければならなくなった「浮浪児」と呼ばれた子供たちは3万5千人に上ったと推測されます。書籍やテレビのドキュメンタリーで、餓死、物乞い、スリ、そして浮浪児狩りと呼ばれた施策について目にして胸を痛めました。

 こうした「浮浪児」と呼ばれた子どもたちの悲惨さを思うと、主イエスの「みなし子にはしておかない」という言葉がより重みをもって感じられないでしょうか。旧約聖書には立場の弱い者、保護しなければならない者として「寄留者、孤児、寡婦」という言葉が随所に記されていますし、おそらくローマ帝国の侵略を受けて混乱していた主イエスの時代にも、親を失った子どもたちが路頭にあふれていたことが想像されます。

 主イエスはこの「みなし子」という表現を弟子たちに、大人に対して使われました。これには主がご自分を「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11,14)と繰り返し表現なさり、弟子たちや私たちを羊に、その羊を愛する良い羊飼いをご自身に喩えたことがもとにあります。

 羊たちは、羊飼いの主イエスなくしては生きていけません。みなし子たちが親なくしては生きていけないように、自分では立派に生きていけると誇っていても、神のみ前にあっては、また終わりの日のさばきを前にしては、主イエスなくしてはその実は生きていけない存在です。主イエスは、弟子たちを「みなし子」にたとえることで、弟子たちの、また私たちの根源的な弱さを指摘なさっているのです。

 主イエスはご自分が捕らえられ、殺されることを弟子たちに告げたときに、すでにペトロが離反することを予告しておられましたね。主イエスは、そんな弟子たちの根っこからの弱さをしっかりと見つめておられ、彼らのありのままを受入れ、彼らに新たな希望を与えようとしておられます。主イエスは目に見え、触れることのできる形ではいなくなります。主は世を去って父のもとに行かれます。しかし、その時を前にして、主は弁護者を遣わしてくださるように父にお願いすると約束します。

 父なる神が遣わしてくださる弁護者とは、「真理の霊」(14:17)です。この霊は弱く無力な人々のために、彼らの側にたって、彼らと共に働く言わば助人です。しかし主イエスは「世はこの霊を受け入れることはできない」と宣言します。世はこの霊を「見ようとも知ろうともしない」。この霊に何ら関心をもたないからです。それがこの世という罪ある世界の実情ですが、そういうこの世を足場にしているという点では、弟子たちも私たちも同じです。

 けれども、自分たちの弱さを悟り、その弱さゆえに犯す過ちに赦しを願って祈るという点で弟子たちは「この世」とは異なります。主イエスの十字架と復活の後に、すっかり打ち砕かれ、悔い改めた弟子たちは祈ります。その弟子たちの上に真理の霊、聖霊が注がれ、彼らは新しく生まれ変わります。

 今日の第1朗読ではアテネでのパウロの説教が取り上げられています。この説教はユダヤ人に向けたまったく旧約的なものではなく、異邦人に向けて自然、歴史といった現実の中から唯一の神を説き起こそうとしています。道で見つけた『知られざる神に』と刻まれた祭壇をきっかけにして、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの」をお知らせすると、パウロの伝道ぶりが明らかにされています。

 パウロはここで哲学者たちに対して、哲学的な論争をしようとしてはいません。旧約における創造の神から出発して、まことの神を語っています。この神は生命と世界の創造主として、人間から何かを要求する必要を持たないし、むしろ世界に生きるすべての人は、この神からいっさいの必要を供給されている。この神は尋ね求めさえすれば見出すことができるほど近くにおられるというのです。

 説教の結びに彼は神が選ばれたイエス・キリストの十字架と復活を語り、さばきの日が確実に来ることを告げます。人はだれも人生におけるそれぞれの道を通って、キリストのおられるさばきの座に行かなければならないことを説いて、人々に悔い改めを迫りました。

 第2朗読のペトロの手紙では3:15「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」と言って神学というものの役割について語られていると思います。「あなたがたの抱いている希望」とありますが、ここに信仰者と信じていない人々とのもっとも大きな違いが現れているということではないかと思います。

信仰者は常に復活した主との交わりの中にいる。そのことにおいて、確信と安心、落ち着きというものを得ることができます。そして迫害を受けてもゆるがないほどの信頼を支える力が聖霊であるというのです。ペトロは聖霊はそのように人の中に入ってきて働く人格となった神の喜び、神の愛、神の力であると言ってやはり聖霊について語っています。

 福音書に戻りますが、主イエスは、15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語り始め、そして21節「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と話を締めくくります。けっして十分とは言えない弟子たちの信仰をあるがままに認めて、彼らが再び立ち上がることを励ましています。

 主イエスは、この少し前に(13:34)「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と弟子たちに「新しい掟」を与えられました。この掟の新しさは、お互いが、お互いを「主が愛したように」愛し合うというところにあります。それが主イエスの掟です。

 自分の罪に深く気づき、打ちのめされた弟子たちは復活の主によって再び立ち上がり、主に従う道を歩きだしますが、その再生がこの愛の掟の実践に向けられていることは、見逃してはならない大事な点であると思います。

 その愛の実践は世界へと向かいます。主イエスは17章 22節でこう祈っています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と。この主イエスの祈りが示すように、この世界を神の愛と真理が支配する共同体に変えていくことが、主イエスが目指した究極の救いであり伝道の目的なのだと思います。聖霊は私たち一人ひとりの内にあって、きっと私たちと共に進んでくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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