2023年5月21日日曜日

礼拝メッセージ「いつも共にいる神」

2023年05月21日(日)主の昇天主日  岡村博雅

使徒言行録 1: 1~11  

エフェソの信徒への手紙 1:15~23 

マタイによる福音書 28:16〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日私たちは主イエスの昇天を祝います。それはこの日を堺にして主イエスが聖なる霊としていつも私たちと共にいてくださるようになったからです。

 使徒言行録は主イエスが地上から天にあげられた次第を語ります。復活した主イエスは40日(使1:3)にわたって弟子たちに姿を現しました。復活後も彼らと共に食事をして(使1:4)地上の生活をなさいました。

  弟子たちと食事をしていたとき、「あなた方は間もなく天の父が約束なさった聖霊による洗礼を授けられる。だから、エルサレムから離れないように」と言い残し、その後に彼らが見ているうちに天にあげられ(使1:9)ました。

 今日はマタイ福音書の結びの部分を読み、主の昇天について思いを巡らしたいと願います。ここには二つの大きなテーマがはっきりと示されています。①まず復活した主イエスが神の子としての栄光と権威を受けたこと。そして、②主は、目に見えないけれどいつも私たちと共にいてくださるということ。今日はとりわけ、「復活の主はいつも私たちと共にいてくださる」ということをしっかりと心に刻みたいと思います。

 初めに使徒言行録を見ていきましょう。主イエスの復活は驚くべきことですが、6節から8節を見ると、弟子たちはこの時に至っても、まだ主が復活されたということの意味を十分に理解していなかったことが分かります。6節、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と彼らは勢い込んで主に迫っています。復活の主が弟子たちに40日間に渡って現れてくださり、また共に食事してくださったことで、弟子たちは「この方が一緒なら我々はローマ帝国にも勝てる。我々はイスラエルを復興できる」と以前にもまして確信したのではないでしょうか。

この時、彼らには主が間もなく昇天なさるのは全く思いもよらないことだったのです。人間というのは、いつも神のご計画や意志に対してとても鈍く、自分中心に、またとても性急に迫っていくものだということがこの時の弟子たちに現れています。

 主は彼らの「いつなのか」という問いは否定せず、それは父なる神の領域に属することなのだから、その性急な思いを、神に信頼することで克服しなさい。神にゆだねなさいと言われました。

 そして彼らがなすべきことは、次のことだと言われました。

 8節「聖霊を授けられ、力を受け、全世界の人々に対して主イエスの証人となる」。これはどういうことかといいますと、キリストの弟子とそうでない人と比較するとわかりやすいのですが、普通人が何かを成し遂げようとするとき、自分の夢や目標を達成したいという自己実現の欲求が原動力になりますね。しかし、キリストの弟子たちは、そういう人間的なモチベーションからではなく、主イエスが受けた聖霊と同じ聖霊を受けることによって、主イエスのみ業に倣う者とされるのだと言っているのです。主イエスご自身が洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた時に、父なる神に聖霊を注がれて公生涯に入られたように、です。

 そして実際に、彼らは聖霊を注がれ、自分たちの経験した事実をそのまま語りつたえて伝道していきました。聖霊が弟子たちを導いて伝道したその記録がこの使徒言行録です。

 9節から11節は、主イエスの昇天と再臨について語っています。キリスト教信仰において、どちらも理解し難いと感じる内容が述べられています。昇天というのは、主イエスの地上における活動がここで区切りがつくことを意味しています。また聖書において「雲」は神の栄光を表すしるしです。

 今日の福音箇所には「疑う者もいた」(マタイ28:17)と書かれていますが、この9節、10節は、「弟子たちが主キリストの勝利をもはや疑いえない仕方で、その出来事を目撃したことを示しています。主は彼らにご自分の昇天を目撃させることで彼らの復活の主を疑う心を克服させました。

 続く11節は主の再臨について述べています。キリスト教信仰では、この世界の歴史は一つの方向に向かって進展しており、決して無目的に進んでいるのではないとします。この世界には、はっきりとした神の意志と計画がある。それが完全に実現し完成するときが主の再臨のときだと理解します。

 では、再臨はいつ、どのようにおこるか。弟子たちと同様に私たちもそう問いたくなりますね。しかし主は、父なる神が「御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」とおっしゃいます。

 私たちの理解を超えた再臨のことは神に委ねればよい。主がいつも共にいてくださるのですから、私たちはただ、その日、その時を希望と忍耐をもって楽しみに待ちながら、来るべき日にむかって生きるように求められています。

 さて、福音書に移ります。マタイ福音書は、復活の主イエスと11弟子たちの出会いについて28章でごく簡単に触れています。11弟子たちは、からの墓の場面で天使から告げられたように、ガリラヤへ行き、主イエスから指示された山に登りました。そこで初めて主イエスと出会うことができた彼らは、まず主イエスにひれ伏しますが、すぐその後に「疑う者もいた」と書かれています。マタイはなぜ、主との再会という大切な場面で弟子たちの「疑い」を強調したのでしょうか。

 原文ではマタイが使った「疑う」と同じ語がマタイ14章のペトロの「疑い」に使われています。それは湖の上を歩く主を見たペトロが、吹き荒れる波風の中、舟から降りて自分も主のもとへ行こうと歩き始めたときです。ペトロはしかし強い風に恐れをなして水に沈みかけました。主イエスはペトロを助け上げ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱ります。この疑ったという語が17節の「疑う」と同じなのです。

 この時のペトロの心には、主イエスの近くにいきたいという願いと、強い風への恐怖とが同居していました。このような心が二つに分かれた状態が「疑う」「ディスティゾ−」という言葉で表されています。私たちにも日頃思い当たることが多々ありますね。主を信頼していると言いながら、目の前にちょっと難しい状況が起きると不安になってしまって、思い煩う。そういう意味で、私たちもしょっちゅう主を疑っているわけですね。

 マタイは、復活を信じることは難しいと感じるのちの時代の人々に、「主の弟子たちにも疑う心があった。しかし、主イエスの力強い言葉を聞くことによって、信じる者に変えられていったのだ」と語りかけようとしているのかもしれません。

 復活の主イエスを信じる、いや信じられない、と二つに別れた心で、主の前にひれ伏している弟子たちに主イエスは近寄って言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、すべての民を私の弟子にしなさい・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と。

 主の方から近寄ったということが大切です。私たちが恐れや不安で疑い惑うときにも、必ず主の方から近寄ってきてくださるからです。

復活の主は一切の権能を父なる神から授かっている。これが復活の主を理解する鍵です。だからこそ、主は世の終わりまでいつも、弟子たちと、私たちと共にいることができるのです。主は疑う者をもけっして見捨てません。疑いはきっと解消していきます。主が共におられるからです。

 19節で主イエスは、「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」とおっしゃいます。祝福をするとき、また祈るとき、キリスト者は「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えます。これはマタイ福音書が書かれた時代(紀元80年頃)の教会で、実際の洗礼式で用いられていた表現だと考えられています。

「洗礼を授ける」という言葉の元の意味は水などに「浸す、沈める」です。ですから主は洗礼によって「父と子と聖霊という神のいのちの中に人を招き入れなさい」とおっしゃったのだと考えられます。

 そして「名」とは単なる呼び名ではなく、そのものの実体を表します。

 私たちは祈りの結びに「主イエス・キリストのみ名によって」と唱えます。これは、主の昇天から始まったことです。主イエス・キリストは、昇天により、永遠の命に移り、この世界のあらゆる制約を受けなくなりました。いつでも、どこでも私たちと共におられる神となってくださいました。

 主の名で祈ることは、今ここに共におられる主を信じて祈ることです。主はここにおられる。これは福音です。感謝です。いつでも、どこででも、どんなときにも、主の名を呼びながら生きてまいりたいと願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン 

0 件のコメント: