2023年3月26日日曜日

礼拝メッセージ「死からいのちへ」

 2023年03月26日(日)四旬節第5主日

エゼキエル書:37章1〜14 

ローマの信徒への手紙:8章6〜11 

ヨハネによる福音書:11章1〜45

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音箇所は、主イエスが墓に葬られたベタニアのラザロを「死からいのちへ」と移していく物語です。ラザロの生き返りは、確かに主イエスの復活とは違います。ラザロは地上のいのちに戻されますが、それはいつかまた死ぬことになるいのちです。これに対して、主イエス・キリストの復活のいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びず、今もいつも生きているいのちです。

 このような違いはありますが、それでもこの物語には主イエスが墓にいたラザロを、また時に墓にいるかのように生きている私たちを、大声をかけて呼び出し、その墓を開き、「死から復活のいのちへ」と移してくださるという福音のイメージがはっきりと示されていると思います。

 さて第一朗読では今から2500年以上も昔、預言者エゼキエルが神から示された幻が語られています。死んだ人間の肉体は腐って土に溶け込み、最後は骨だけが残りますが、この枯れた骨の復活の箇所は、まるで逆回しのビデオを見るかのように、死んだ者たちの骨が組みあわされて、そこに筋が付き、さらに肉と皮膚に覆われて人の形に戻るのですが、その人の中に霊が吹き込まれて初めて人間は生き返ることが語られます。

 この幻が、今日の福音が伝える主イエスが生き返らせたラザロの物語につながっていると思うのは37章12節以下です。「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」というわけです。

 主イエスの当時、死んだ人はラザロのように墓に埋葬されるわけですが、しかし私たちは身体的、生物的には死んでいなくても、生きていながら心や魂が墓の中にいるような状態にもなり得ることが思われます。つまり心の中にも墓というものがあるではないかと思うのです。

 その人のすべては、しかばねとして地中に埋められて、また亡きものとして、やがてこの世の人々から忘れられていきます。墓とはそういうものだと思います。しかし、神はそういう墓を開き、しかもそこに霊を吹き込むというのです。

 聖書によれば霊というのは神の息(ルーアハ)です。創世記2:7にあるように神は人を心と身体に創造したとき、そこに神の息(霊、魂)を吹き込みました。この霊は私たちの精神や魂を新しくするものでもあるわけです。ですからその人の内で神の霊が「生きている」ことこそがその人が生きていることだと言えます。

 それは第二朗読にもかかわってきます。第二朗読のローマ人への手紙の8章10節以下にこうあります。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。この手紙を書いたパウロはとても美しい言葉ではっきりと語っています。

 私たちは心が墓にいるような状態、つまり心が死んだような状態に陥ることがあります。しかしパウロは、神の霊が、死んだようになっている私たちの魂を生かし、心を生かすのだということを力強く証しています。

 私たちは生きる中で、体の苦痛や心の苦しみ、挫折とか、失敗とか、別れなどを日々繰り返していますが、それは言うなれば、私たちの身体と心が日々小さな死を繰り返しているということだと思います。そしてその総決算として最後の肉体の死を迎えるのだと思います。誰もその小さな死から最後の究極的な死まで、それを免れることはできません。

 しかしそうでありながら、主イエス・キリストはそういう人間の人生の中にも死を通して永遠のいのちに至る道があるということを示しているわけです。そういう道があるんだということ、それがキリスト教の真髄ではないでしょうか。

 とはいえ、キリスト者でない人が復活を信じるのはなかなか難しいことだとは思います。そしてまたそれがイエスという2千年前の一人の人といったいどんな関わりがあるのかということになると、さっぱりわからないという人も多いのではないかと思います。

 確かにイエスとなんて出会ったこともないわけですし、そこに何が起こったのか、イエスと復活がどういう関係があるのかなんてことはよくわからない。そんなイエスのことをリアリティーをもって感じ取るなんて無理でしょうという人が多いと思います。

 私たちは主イエスと直接会ったわけではないわけですから、ラザロの生き返りの話は、聖書から想像するしかないわけですけれども、ともあれ聖書によれば、ラザロはすでに死んだのだということは、主イエスには疑いなく分かっています。

 けれども、主は、そのラザロを「起こしに行く」と行動を開始します。マルタは主イエスと出会って、主から11:23「あなたの兄弟は復活する」と断言されます。そう聞いてもマルタには今、ここで愛するラザロが復活するという実感は起こらなくて、それは宗教上の教えの上でのことで、だからこそ11:24「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」という言葉が自然に口をついて出たのだと思います。

 しかし主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と断言したのは、これはそんな将来のいつ起こるか分からないことではないということです。主は、今私がここでラザロと出会い、マルタと出会っていることそのものがすでに復活なのだということを断言されました。遠い将来の、なにか観念的な終わりの時に最終的な救いが来るなどというようなあいまいなもやもやした話ではなくて、今ここにその救いは始まっているということを主は言われた。そして主イエスは「このことを信じるか」と更に踏み込んでマルタに問いかけます。マルタはそれに対して「はい、わたしはあなたを、メシアであると信じます」と答えます。

 私たちの周りにも不可能を可能だと思って取り組む人や、そういうことを行っている人がいます。近年では、アフガニスタンで頻発する干ばつに対処するために、約1,600本の井戸を掘り、今やその水で65万人以上の命が支えられているという、全長25.5kmの灌漑用水路を約17年間かけて造り、枯れた大地を復活させた中村哲医師のような方が必ずおられることを思いますが、そういうところで、私たちはラザロを生き返らせた主イエスの片鱗のようなものに出会うことが出来るのではないかと思います。

 今のこの世の人生というのはある意味で、牢獄の中のような、外にも出られないままそこで死刑になる、その朝をおののきながら待っている死刑囚とある意味似たような境遇の中にいると言えるかと思います。

 先週私は、40歳でホスピスから旅立たれた方の葬儀をさせていただきましたが、死というものが、深い不安や恐怖となって私たちの実存を絶えず揺るがしていることを思います。そういう私たちに、主イエスはその墓の石を取り除けなさいと強い言葉で憤って言うわけです。そして、さらにそこから「ラザロ出てきなさい」と言われます。

 この言葉は直訳すれば「ラザロ、こっちだ、表だ!」という、そういう言葉なのだそうです。それを主イエスは大声で叫んで、ラザロを呼び出す。そのように主は私たちを呼び出してくださるのです。私たちはまるで自分の墓の中に引きこもっているようなときがあるかもしれません。すなわち、自分が築いた壁の中で、なんとなく自分だけは安心していられるような、しかし、実は心が死んでしまっているような状態に陥ることがあるかもしれません。主イエスは、そんな墓から、私たちを呼び出してくださいます。

 私たちにとって、それはまさに復活であるわけです。新しいスタートであるわけです。主イエスがこの墓の中のラザロに叫ばれたように、私たちもまた「石を取り除けなさい、そして出てきなさい、こっちだ!」という力強い主の声を心の中で聴く者でありたいと祈り願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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