2023年3月5日日曜日

礼拝メッセージ「愛と救いと命のために」

 2023年03月05日(日)四旬節第2主日 岡村博雅

創世記:12章1〜4a 

ローマの信徒への手紙:4章1〜5、13〜17 

ヨハネによる福音書:3章1〜17

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週、四旬節第一主日のテーマは罪について、原罪についてでしたが、今日の聖書箇所のテーマは人は信仰によって新しく生きる者とされるということだと思います。

 今日の第一朗読は、神に従ったノアの子孫の中から、神が信仰の祖先と言われるアブラムを召し出した箇所です。神はアブラムを選び、人類に対する神の祝福の源にしようと望まれました。アブラムは初老の年齢にもかかわらず、神を信じ、神の言葉に従って全く新たな人生へと旅立ちました。

 そして第二朗読でパウロは、このアブラハムの召命を取り上げ、アブラハムがひたすら神を信じて神の言葉に従ったこと、神はその信仰を義と認められたと述べます。アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信仰の父と言われます。パウロはこう言います。4:13 「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」と。

 神が私達の信仰のゆえに私達を義としてくださることは、すなわち神が、私達を、水と霊とによって、新たに永遠の命に生きる者として神の国に迎えてくださるという今日の福音につながっています。

 では福音書に入ります。このニコデモと主イエスとの対話は新約聖書の中で最も重要な場面の一つだと私は思います。なぜならそこで出会ったのは、旧約の教えと新約の教えそのものであったからです。ニコデモは唯一絶対の神に救われることを目指しているものの、そこに至る道は、他のユダヤ人たちと同じく、モーセが伝えた神の律法を守りぬくことだと固く信じています。それは律法が定める正しい行いを積み重ねて、下から上に昇っていく道です。それに対して主イエスが教える新しい命にいたる道は、上から下へ、つまり神が人間に与える霊によって、神の霊によって人間の内面的な命、霊的な命が新しくされる。それこそが救いなのだという、実に自由でかつ普遍的な教えです。

さてこのニコデモはどんな人物でしょうか。彼はファリサイ派というユダヤ教正統派の信者で、社会的には上流社会に属し、ユダヤの七十人議会の議員というエリートです。年齢的には、老境に入っていたでしょう。つまり、精神的にも、経済的にも、安定しているはずの人物です。けれども彼は若いイエスから教えを請おうとやって来ます。

 ヨハネ福音書は、ニコデモは「夜」やって来たと言います。昼間ではイエスが民衆に囲まれていてじっくり話せないからということでしょうか。訪問にあたりニコデモはイエスについて情報を集めたことでしょう。洗礼者ヨハネとのこと、病人への癒やしや奇跡のこと、更には神殿から商人たちを追い出した事件などです。ファリサイ派の仲間たちはすでにイエスをマークしています。人々から勘ぐられないように、ひと目を避けて夜の闇の中を来たということかもしれません。

 恵まれて暮らし、社会的には何の不足もないニコデモですが、人は社会的地位が上がれば上がる程、年齢を重ねれば重ねるほど、悩みが深くなり、不安になることがあります。加えて律法による救いに寄り頼んでいるニコデモには、自分は一つも律法に違反していないと言い切れないジレンマもあったでしょう。しかし、彼は弱音を吐けず、どうして良いかわからなくなっていた。そこで、噂のイエスを訪ねてみようと思い立ったのではないでしょうか。現代に生きる私達も、そんなニコデモと似たりよったりではないかと思います。

 ニコデモは「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(3:2)と実に率直に謙遜にイエスの教えを聞こうとしました。

 しかし、主イエスは一段飛躍して宣言しました。「はっきり言っておく。(原文はアメーン、アメーン。荘重な前置きの言葉)。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)、この「新たに」(デノーテン)は「上から」とも訳せます。「上から」つまり神の力によって人は新たに生まれるのだ。そうすれば人は神の国を見ることが出来るというのです。

 ニコデモは狼狽して言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と。有能、勤勉、誠実なニコデモにはイエスの答えがあまりに想定外だったのでしょう。

 年を重ねたニコデモは自分の余命が刻一刻と終わりに向かっていることがわかっています。今までの生き方では先は闇のままで、希望がもてない。だからといって新たに生まれ変わってやり直すことなどできない。あくまでこの世的に考えるニコデモは途方にくれました。

 主イエスは再び繰り返します。5節、アメーン、アメーン。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。

 主イエスは、この「上から新たに生まれる」とは「水と霊とによって生まれる」ことだと言うのです。水はこの地上でのバプテスマ(洗礼)のことだと理解できます。そして「洗礼の水」は、これまでの自分が「水」によって水死することを象徴します。すなわち主イエスは、「ニコデモよ、これまでのあなたは死に、そして霊によって新しく生まれなさい」と言われたのです。

 「肉から生まれたものは肉である」。それは生まれながらの人間が、どんなに努力し英知を極めてこの世での成功を熱心に追求しても、たとえ力を尽くして神の戒めと法とを守り、奉仕に努めて神に祝福されようとしても、そうした人間の努力や能力の延長線上に神の国はないということです。「肉から生まれたものは肉」とはそういう意味です。

 しかし「霊から生まれたものは霊」だと主イエスはおっしゃいます。昔、神は預言者エゼキエルによって「新しい霊」(エゼキエル11:19)を授けることを予告されました。神の霊の力によって新しい命が吹き込まれない限り、新しく生まれることは不可能です。新しく生まれるためにはまず旧い自分のあり方を終わらせなければなりません。

 その夜は風が強く吹いていました。主イエスはそこで一つのたとえを示します。「風は思いのままに吹く。・・・霊から生まれた者も皆そのとおりである」。(3:8)(ヘブライ語もギリシア語も風には霊という意味を含みます)。ニコデモよ、風の音が聞こえるだろう。風は見えないが、力強く吹き渡っている。霊の世界も同じなのだ。霊は、上から、すなわち神から吹いてくる。

 ニコデモよ、肉に死んで、つまり罪に死んで、自分自身への囚われに死んで、旧い自分に死んで、そして霊的に復活する道こそが、神の国に入る道であることが信じられるか。あなたが死んで復活しないとでも言うのか。人を復活させることは、人にはできないが、神にはできる。神にはできないことはない。ニコデモよ、わたしを信じるか。主イエスはそう迫りました。

 この物語で最も大切なことは、私達の誰もがこのニコデモのように、新たに生まれることを可能にする主イエスを信じるか、信じないかという、この二者択一の前に立たされているということだと思います。

 この人間が霊的に新しく生まれるということを理解することはできません。人間の自然と知恵と力の立場に固執する限り到底理解することはできません。信じる以外にありません。そこで主イエスは3章11節から15節で最後の駄目押しをされます。

 主イエスは分かりえない私達を導くために、主ご自身が十字架に架かって死に、復活させられ、天の栄光に入られました。ニコデモのいう通り人間には誰もそんなことはできません。主イエスのみがこの道を切り開きました。

 モーセは荒れ野で人々が毒蛇に噛まれて死んだとき、神の命令で青銅の蛇を造り、旗竿の先に掲げました。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民数21:9)とある通りです。

 それと同じように、十字架の主イエスを信じて仰ぐこと、それのみが、水と霊とによってその人が新たに生まれ、永遠の命を得ることを可能にします。 (ヨハネ3:14,15)

 私達は神の国の門の前で、立ちすくみ、死の闇に怯えます。しかし主イエスは死に打ち勝ってくださいました。主は復活して私達と共にいてくださいます。主は私達が永遠の命に入る道を備えてくださいました。私達は「主よ、信じます」と告白して、主の十字架にあずかりながら人生を歩む者です。その決断をして踏み出して行くとき、そこに永遠の命と神の国の祝福が待っています。 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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