2023年3月12日日曜日

礼拝メッセージ「主イエスに出会う」

2023年03月12日(日) 四旬節第3主日  岡村博雅

出エジプト記:17章1〜7 

ローマの信徒への手紙:5章1〜11 

ヨハネによる福音書:4章5〜42

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 ヨハネ福音書は一つ一つの出来事から主イエスとはどういう方であるかを語ってくれます。今日の福音をとおしてヨハネは「主イエスこそがいのちの水の与え主である」こと、そして、あるサマリア人の婦人の気づきを通して「まことの礼拝」について伝えてくれます。

 4章のハイライトと言うべき23、24節には「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」とあります。その意味で、この物語はその昔のどこかの誰かの話ではなく、「復活して今も生きているイエス・キリスト」とわたしたちとの出会いに気づかせてくれる物語だと言えると思います。

 今日の福音の背景であるサマリアは、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂したとき、北王国の中心になった地方です。北の人々は、エルサレムを中心とする南のユダ王国と対立して、ゲリジム山(標高881メートルの石灰岩でできた山)に独自の聖所を造り、後にサマリア人となって、民族的にもユダヤ人と分かれました。

 さて今日の福音は、「サマリアの女」と言う表現で描かれている一人の女性が主イエスと出会うところから始まります。この女性はひと目を避けて、太陽が燦々と照りつける正午ごろにヤコブの井戸に水汲みに来ました。そこには旅の途中で、暑さと疲れのために喉が乾いた主イエスが一人休んでいました。そこで出会った主イエスとサマリアの女性との間の対話を通じてヨハネはこの婦人が3つの壁によって人との自由な交わりを妨げられていたことを語っています。

 彼女は主から「水を飲ませてください」と頼まれ、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私にどうして水を飲ませてくださいと頼むのですか」と驚嘆し抗議します。

 この答えからも分かるように、第1の壁は民族間の「壁」です。真の礼拝をする神殿のありかはエルサレムか、ゲリジム山かを巡って、ユダヤ人とサマリア人は激しく対立していました。

 主イエスは喉の渇きを潤す水を求めただけでしたが、対話するなかで、この女性が実は魂の渇きを潤す水を必要としていることを見抜きます。そして、主は女性に「この井戸の水を飲む者は誰でもまた乾く。しかし、私が与える水を飲む者はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃいます。

 主は魂の渇きを潤す水のことをいっているのに、水は由緒正しい井戸からのものでも、ただ単に生活の必要を満たすためのものだとしか理解しないこの女性に対して、主は彼女を核心に導きます。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」。

 このことはおそらくこの女性にとって触れられたくない問題だったに違いありません。今一緒にいる男性は夫ではなく、彼女は過去に5人の夫を持ったことを主イエスは指摘します。ここに女性の前に立ちはだかる第2の壁があります。それは、男女間の「壁」です。彼女は、幸せを求めながらも、パートナーに恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついていたことが分かります。

 男の身勝手と風評に傷つき、暑さ真っ盛りの正午ごろに、重労働の水汲み仕事にやってくる。そんな人目を避けてひっそりと暮らしている、彼女の辛さ、悲しさ、恥ずかしさが伝わってきます。

 当時のパレスチナの社会では、女性は男性の所有物であり、また性的欲望の対象であって、だからこそ守られるべき存在だと見られていました。ですから主イエスのように、道端で、男が見知らぬ女性に声をかけ、立ち話をするということは考えられないことでした。それで9節、27節のように、この女性も弟子たちも主イエスが彼女に声をかけ、彼女と話していることに驚いたわけです。

 そして第3の壁は、人を交わりから遠ざけ孤立させる、人々の無理解による「壁」です。このサマリアの女性の生い立ちについてヨハネは語りませんが、おそらく不遇な中で育ち、5度の結婚に破れ、今や日陰者の暮らしをしていて、近所では後ろ指を刺される、外面的にはそういう生活だったのではと想像されます。

 ところで、今日の福音を読み進めていくと、この女性は主イエスに伴われるように主との対話に導かれて、まるでこれらの壁など存在しないかのように、次第に新たな境地に進んでいくことに気づきます。主イエスは、この女性の心の痛みを感じ取っておられて、彼女を憐れみ、愛おしみます。彼女を恥と囚われの思いから自由にして救おうとされます。そのために神の賜物である、決して渇かない、永遠の命にいたる水を与えようとされます。主イエスは、私達一人ひとりをこの女性のように導かれます。

 主イエスが彼女のプライバシーに踏み込んで語りかけたのは、彼女を辱めて、罪を自覚させ、悔い改めに導くためではありません。そうではなく彼女の心を福音でいっぱいに満たすためです。彼女が神の憐れみを知り、今のままで、神から愛されている自分を受け入れるためです。主イエスを信じて、真の礼拝にあずかりながら、希望を持って生きて行くためです。

 水はいのちのシンボルです。10節、11節の「生きた水」は、ヨハネ7章37-39節では「聖霊」を意味していますが、ここでは「人を真に生かすもの」と受け取れます。主イエスはまず、主のほうから「水を飲ませてください」(7)と言って彼女と関わり始めました。主イエスの彼女との関わり方は、「あなたも渇くし、わたしも渇く」という彼女への連帯性と共感に立つものでした。

 そして最後に主イエスはまことの礼拝について証します。23、24節 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と。

 「霊と真理による礼拝」、その霊とは「神からの力」であり、真理とは「主イエスにおいて現されたこと」だと言えます。つまりは「真心をもってする礼拝」と受け取ってもよいと思います。「共に集まり、お互いを愛し、愛され、真心をもって神を崇め礼拝する」、それこそが「霊と真理による礼拝」であり、人と人とを隔てる壁を乗り越える道だと言えるのではないでしょうか。

 主イエスとの出会いによってこの女性は飛躍しました。この女性の中に喜びと希望が湧き起こりました。それまで彼女は町の人々を避けてきたのかもしれませんが、主イエスに出会った彼女は28、29節「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません』」と言います。この女性は主イエスのことを告げ知らせる者になっていきました。

 そして、その彼女の言葉を、いや、人目を避けていた彼女がすっかり新しく変えられた姿を、神の愛を受け入れて喜びで開放された姿を町のサマリア人たちは受け入れ、主イエスを信じるようになっていきました。そして最後には直接主イエスに会って、「その言葉を信じるようになった」(39)とあります。

 心に傷を負った女性とサマリアの町の人々と主イエスとの間で心が通じ合ったいま、目の前でもうすでに神の救いの働きが実現しています。私達もそれに気づき、受け入れて行きたいと願います。

 パウロはローマ書5章の2節から5節でキリストの愛が私達を新たに造り変えてくださることを喜びと確信をもって語っています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。

 主イエスとの出会いはある意味で私達にとって苦難です。真実の自分に出会わされるからです。その苦難は戦いです。その戦いは忍耐を呼び起こします。忍耐によって私達は主イエスによって訓練されます。そして、主イエスは私達に新しくされる喜びと希望を与えてくださいます。主との出会いは素晴らしいものです。主を信じる者は、今やいつでも、どこででも主イエスに出会うことができます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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