2023年3月19日日曜日

礼拝メッセージ「闇から光へ」

 2023年03月19日(日)四旬節第4主日  岡村博雅

サムエル記上:16章1〜13 

エフェソの信徒への手紙:5章8〜14 

ヨハネによる福音書:9章1〜41

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今朝の物語は、思い込みや先入観にとらわれた人間の愚かさを明らかにしながら、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」というこの物語を締めくくる主の言葉に向かって進んでいきます。

 私達がただ目でみるだけではなく、それを超えて心で見るとはどういうことか。見るためには光が必要ですが、主イエスはその光りの意味について、すなわち真の光りである主イエスを知るとはどういうことなのかについて気づかせてくださいます。この四旬節に私達も主イエスという光を心に受けて、光の子として生きていきたいと願います。

 第一朗読では偉大な王であったダビデ王が選ばれたとき、神がどのように人を選ぶかをサムエルに語ったことが記されています。7節、「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」。これらの言葉は、今日の朗読全体に響いています。人間というのはサムエルのような賢者でさえ、つい見た目に動かされます。しかし神はそうではない。その人を心によって見られます。心に刻んでおきましょう。

 そして第二朗読では、今日の朗読全体の結論をのべるような内容が語られています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」このように光の子となって主に結ばれ、復活に生きるあり方が語られています。これも四旬節に私達が心に刻む言葉です。

 では福音書に入ります。9章1節の「見かけられた」という言葉から主イエスがどんな人に関心を持たれるかが分かります。その視線を追うと、そこには苦しんでいる人がいます。5章では38年間も病気で苦しんでいる人でした。ここでは「生まれつき目の見えない人」です。まさに主イエスは何よりもその人の心をご覧になり、その苦しみからその人を解放されます。

 この苦しむ人は乞食をしていました。両親は生きています。それなのに乞食をして暮らしていました。彼が生れつき失明していたからです。今の時代盲目のアーティストやスポーツ選手、様々に活躍しておられる方が思い浮かぶと思いますが、駅のホームから転落される方は後をたちません。障害を負うことの困難とご苦労を思います。

 主イエスの時代は盲目即乞食をするしかないという社会だったことを思います。彼は生きる意味を見失い、今の苦しみをただ運命として耐えていたのではないでしょうか。

 そうした社会背景において、最初に弟子たちが、思い込みにとらわれている人間の一人として登場します。弟子たちはこんな不幸な人がどうしてこの世に存在するのかと思い、主イエスに問います。2節「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 これは、当時のユダヤ人社会では、苦難のあるところには罪もある。苦難と罪は関連していて病気は罪の結果であると考えられていたからです。弟子たちはその通念にとらわれていました。

 それにしても、弟子たちの言葉は、苦しみの只中にいる人を前にして、あまりに無神経だと感じられます。その根底には、健康に恵まれて生きてきた人間のごう慢さが見られないでしょうか。私達は、自分が健康であり、経済が安定しているというような恵まれた環境にある時にも、病弱な人々や貧しい人々の苦しみや悲しみが見えなくなってしまいがちです。それは人間の悲しい性です。

 ヨブ記ではヨブの友人たちがそうでした。ヨブの苦難は、人間には原因不明でした。それなのに友人たちはかたくなにヨブが有罪だと主張して、ヨブの苦しみに輪をかけました。

 ここに登場するファリサイ派の人々も同様です。彼らは主イエスのことを「安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と断定します。彼らは、きまじめです。真剣におきてを守ろうとしている人々です。彼らには、自分たちはおきてを守ることによって、神に受け入れられているという堅い信念があり、そもそも主イエスのやっていることやメッセージを一切認めません。彼らは自分たちの信念と正しさにこだわるあまり、最も根本的なことが見えなくなっています。

 ホセア書にはこういう神の言葉があります。6:6「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」。彼らはこうした神の真理が見えなくなっています。そこに彼らの誤りがありました。主イエスはその点をとがめました。

 主イエスには、おきてを否定する意図はないと思います。主が彼らをとがめた理由は、あくまでも、彼らが「おきてを守るか、守らないか」という二元論の中にとどまっていて、愛の神を見失ってしまっているために、貧しく苦しむ人々の悲しみや喜びに共感できない人間になってしまっていたからです。

 生まれた時から目が見えないこの男性にとって視力が回復したことは、本人にとってはたとえようもないほどに大きな喜びであったに違いありません。けれども、その喜びにファリサイ派の人々は無関心です。まったく共感していません。それは彼らが一つの信念に凝り固まっているからです。ここに人間のもつ不気味さや恐ろしさが感じられないでしょうか。

 この盲人の目を開いた奇跡によって、主イエスは信仰について大切なことを示してくださっています。それは、ただその目で見るか、あるいは、心の目でみるか、それが、真の信仰に生きる者となるか、あるいは不信仰を生きる者となるかの分かれ道となるということです。

 目を開かれた人は、はじめ、自分を癒やしてくれた主イエスがまったくわかりませんでした。それまでは目が見えなかったからです。ただ、自分が見えるようなった、その奇跡をそのまま受け止めて、徐々にこの人は変わっていきました。治してくれたイエスがどういう方なのか、どういう力をもつ方なのか、主イエスのことを目で見るだけではなく、心において深く知っていくように信仰が深まって行きました。

 癒やされた盲人は主イエスを信じたいのかと問われて、36節「信じたいです」と答えます。それに対して主イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言い、盲人は「主よ、信じます」とはっきりと信仰宣言をします。心の目が開かれたのです。実際の視力が回復しただけではなく、それまで暗闇だったところに真の現実であるイエス・キリストの姿が像を結びました。心の目にもそれがはっきりと見えるようになりました。

 主イエスにまったく反対の立場をとるファリサイ派に、主は「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」とおっしゃいました。ここで「裁く」とは、「側を切り裂いて中身が何であるかあからさまにする。人々の本当の心が暴露されて見えるようになる」ということです。

 これを聞いたファリサイ派は、自分たちは一番エリートで、神のこと、おきてのこと、宗教のことはみんなわかっているのに、この生意気なイエスは何を言っているんだというわけです。われわれは見えていないと言うのかと憤りました。

 主イエスはこれに対して、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と答えました。

 目だけで見ているファリサイ派はそこだけにとどまっています。物事の外側だけを見て自分の判断は正しいと思いこんでいる、そういう態度はやはり少し足りないと言えます。むしろそれを超えた恵みの世界に眼差しを開くこと、すなわち主イエスという光を信じて「心の目」で見ることこそが、本当の永遠の命に至る、そういう見方につながっていく道なんだとこの目を開かれた盲人の物語は示しています。私達もこの四旬節に主によって心の目を開いていただきましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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