2023年2月26日日曜日

礼拝メッセージ「四旬節の心構え」

2023年02月26日(日)四旬節第1主日  岡村博雅

創世記:2章15〜17、3章1〜7 

ローマの信徒への手紙:5章12〜19 

マタイによる福音書:4章1〜11

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 ルーテル教会は、先週の灰の水曜日から四旬節に入りました。教会の伝統では四旬節は復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための期間でした。私たち信仰者にとって洗礼は、主キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生き始めることを表すサクラメントです。四旬節は洗礼志願者のための季節として始まりましたが、今ではキリスト者全体が主キリストの死と復活にあずかるための期間となっています。四旬節は救いの時、節制の時ですが、同時に恵みの時であるということがとても大事だと思います。

 私は小田原教会でも湯河原教会でも、今回洗礼をお受けになる方はおられないだろうと思っていましたところ、先週のこと、ご家族が入院しておられるという方が訪ねてこられ、お話を伺いました。

 病院のチャプレンと話したいと望まれたが、ドクターから、今チャプレン制度はいないので、ご自分で探してくださいと言われ、教会を訪ねてきたということでした。

 ご自分は無宗教でどうしていいかわからないというその方に、人をお造りになった神は、主イエス・キリストによって、あなたを救い、ご家族を救おうとしておられます。教会の門をくぐられたのは、偶然ではなく、神があなたを愛し、家族を愛しておられて、ここに招かれたからですと信仰入門のお話をしました。

 ご家族にそうした話を伝えたところ、牧師に会いたい、そしてできるなら洗礼を受けたいということでした。そこで今週、病室をお訪ねする約束をしました。復活の主は生きておられる。いつも私たちに先立って働いておられることを、身を持って感じる機会となりました。

 さてこの四旬節第一主日のテーマは何でしょうか。それは罪とは何か?原罪とは何か?ということだと思います。今日の第一朗読は創世記の初め、エデンの園におけるヘビと女のやり取りです。ヘビは女に誘いかけます。(3:4-5)「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」このヘビの言葉が重要です。罪の原点は、神の代わりに自分が神になってしまうことです。罪を犯す時は、私たちは自分のエゴが中心になっています。そして神の場所に神はいなかったことにして、そこを空っぽにして、そこに自分のエゴを置く。これが神に対する罪、原罪というものの根本的なありさまです。私たちの誰もがこういう体験があるのではないでしょうか。

 この罪によって、エデンの園は荒廃していきます。パラダイスであるはずだった「エデンの園」は「荒れ野」に変わってしまったというわけです。創世記の物語の中では、続く4章でカインとアベルの兄弟殺し、そして神の怒りの洪水と「ノアの方舟」の物語、さらにバベルの塔の物語と続き、そしてこの荒れ野の連鎖は今に至るまで続いています。

 2月24日はロシアがウクライナに軍事侵攻して1年目でした。ミャンマーにおいても民主化を求める人々が弾圧を受け続けています。あるいは日本においても、特に政治のリーダーたちや犯罪者たちの中に荒れ野が続いていると言えるでしょう。

 そして第二朗読のパウロのローマ人への手紙の5章では、サタンの誘惑に負けて、エデンの園から追い出された罪の人アダムと、それに代わるサタンに打ち勝った新しい人間、イエス・キリストのことが語られます。アダムは罪に囚われている人間の代表であり、主イエスはそれに対して罪の囚われやしがらみから開放された新しい人間の代表です。

 アダムの子孫であったイスラエルの民は、神との約束の地に入るために40年間「荒れ野」を彷徨いましたが、それはエデンの園を追い出された人間の有様を象徴するものでもあると思います。

 主イエスが荒れ野に導かれてサタンの試みを受けた期間が40日。イスラエルの民が荒れ野を放浪した苦難と試練の期間が40年。四旬節は、これらの40という数字に、主イエスと私たちの歩みとが重ね合わされています。

 荒れ野の旅を続けたイスラエルの民は、神の約束による安住の地に導かれた後も律法を破り、神をないがしろにします。罪人の道を歩み続けていくその歩みは、神を忘れている私たちの歩みでもあることを思い起こします。そして神に立ち帰るということが、この四旬節に私たちに呼びかけられています。

 福音書箇所に入ります。悪魔は三度にわたって主イエスを試みました。悪魔とは人格化された悪の根源にある力です。人間を神から引き離そうとする力です。

 主イエスの悪魔との戦いは、生涯の最後まで絶えることのない一生の戦いでした。それは私たちの歩みでもあります。その戦いは私たちの人生にとっても模範になるものです。

 その悪魔との戦いの中心は何でしょうか。それは神との関係という点だと思います。私たちは神との関係がどうかということを普段の生活の中で、どうも無視しがちです。それによってますます罪のしがらみと苦しみに苦しむことになってしまうということなのだと思います。

 さて、主イエスが受けた第一の誘惑はパンの問題でした。悪魔は、「もしあなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ4:3)というわけです。ここで悪魔は主イエスが神に願い求めるのではなく、主ご自身に、神と同じような力を発揮させるということに導こうとしています。

 この誘惑も次に来る二つの誘惑も、またすべての罪においても、先程見た原罪が、共通にあります。それは神を試みるということです。神を見ないことにして、神を追い出して、自分の力を信頼する。「自分」がすべての中心であり、神の座につくものだとなるように人間をそそのかす。これが悪魔のわざの核心にあるものです。

 主イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と言いますが、私たちの置かれている現実としてはむしろ「人は言葉だけで生きるものではない」でしょう。人はやはりパンで生きている。これが多くの人々の感覚ではないでしょうか。けれども、ヨハネ福音書では主イエスこそが「命のパン」(6:35,48)だと言われていおり、本当の解決はそこにあります。神の祝福なしには、パンも、パンによって支えられる命も虚しいものです。神の望みと一つになった力の源としてパンをいただくということこそが、本当の命の充実だということをヨハネ福音書は言おうとしています。

 主イエスが受けた第二の誘惑は5節です。主を神殿の屋根の端に立たせて、「そこから飛び降りて、神が救いに来るかを試してみろ」というわけです。ここでも悪魔は主に神を試みさせようとしています。神が自分の歩みを最後まで導き支えてくださっているのだということを信じ抜くということが、できるのかどうか、そこが問われるわけです。

 主イエスが受けた三つ目の誘惑は何かというと、8節にあります。悪魔が高い山につれていって、この世のすべての栄耀栄華を見せて、そのさまざまな喜びに引きずられるかどうか、それによって神から離れていくかどうか、神の栄光よりもこの世の喜びを選ぶかどうかというところを突いてくるというのがこの三つ目の誘惑です。

 ここで言われているこの世の栄耀栄華を選ぶのであれば、神の代わりに悪魔を礼拝しろというわけです。それは最も恐ろしい荒れ野をもたらすわけですが、今世界を見渡せば、そこに人々がどんどん巻き込まれていくということが続いていることが分かるのではないでしょうか。

 このように悪魔の誘惑は神を私たちの視界から遠ざけようとします。神を見失わせようとします。これに対してどういうふうに対処したらいいのかというとそれは主イエスが示されたように一つしかありません。神の力を示すことです。

 勇気をもって悪魔に「退け」ということ。主イエスのように主なる神のみを礼拝して、神のみを信ずるということをはっきり決心して、そこで生きていくことです。しかしそこのところが悪魔によってうまく隠されてしまっています。悪魔の誘惑が巧みであるために、現実世界ではうまくいかないということが続くのだと思います。

 今もやはりこの世の「荒れ野」が、世界の中にも、日本の中にも、あるいは私たちの心の中にもあると思います。私たちを神から切り離そうとする悪魔の力は今も働いています。しかし主イエスはこの悪魔の誘惑の力に打ち勝ってくださいました。私たちは主の勝利にあずかり、主の後に従っていくことができます。この恩寵に感謝します。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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