2023年2月19日日曜日

礼拝メッセージ「主イエスの変容」

 2023年02月19日(日)主の変容主日   岡村博雅

出エジプト記:24章12〜18 

ペトロの手紙二:1章16〜21 

マタイによる福音書:17章1〜9

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは今週の22日、灰の水曜日から四旬節に入ります。四旬節はこの期間、主イエスの弟子として、私たちが「主の受難・死・そして復活にあずかる」ことがテーマです。このテーマに具体的にあずかるために、四旬節にはいつも以上に主の受難と復活に心を向けて祈り・日頃の生活を節制し・愛の行いに励もうと呼びかけられています。

 ある兄弟姉妹がこう言われました。「自分は、四旬節の時を過ごす心構えは、ある意味で、自分を生きるのに苦しい、ぎりぎりのところに置いてみることだと思う。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみる。だからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟姉妹と連帯しようという思いが湧いてくる」。そう伺って、今、特にこういう思いは大切だと感じました。

 世界はコロナウイルスによるパンデミックを克服できておらず、ウクライナへのロシアの軍事侵攻が続いており、ミャンマーの軍事政権は弾圧を強め、さらにはトルコ・シリアの地震により、未曾有の被害がおこり、国際社会からも懸命な援助がなされています。湯河原教会としても、ウクライナ支援の献金に続き、シリア・トルコへの支援献金を行おうとしています。多くの人々が苦しみと悲しみの中にあるこのような時に私たちが四旬節を過ごすことに主の御心を思わずにおれません。

 今日の福音の7節で、主イエスはご自分の方から弟子たちに近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と励ましておられます。触れられた手の温かなぬくもり、それは主の福音そのものです。私たちは主からこの慈しみを受けています。今日は主の変容の出来事から聞いてまいりましょう。

 今日の第一朗読である、出エジプト記24章にはイスラエルの民がモーセを通じて、どのようにして神の教えと戒めが記された石の板を授けられたか、その次第が語られています。十戒を授けられたのはモーセ一人だけですが、モーセは途中まではアロンとナダブ、アビブと70人の長老たちを連れて主なる神のもとに上ったと24章に記されています。

 主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて、高い山に登られました。なぜ三人なのか、申命記19章15節には、「二人ないし三人の証人の証言よって、その事は立証されねばならない」とあります。主は、この三人を、主の変容のできごとの証言者になさろうとしのだと思われます。

 福音書記者のマタイはモーセのシナイ山での出来事と、主の変容の出来事とを比べています。神の栄光を見たモーセの顔の肌は神の栄光を反射して「光を放っていた」(出34:29)と言います。一方、マタイは主イエスの顔が「太陽のように」輝いたと表現します。太陽は自ら輝きます。つまり、主の輝きは、モーセのように神の光りを反射しての輝きではなく、まったく光そのものとして輝いていたというのです。

 この主の顔の輝きは黙示録1章16節の「顔は強く照り輝く太陽のようであった」という復活のキリストを思わせるものです。マタイは主イエスこそが、新たなモーセとして、神への道を指し示し、死を乗り越えて永遠の命をもたらす方だと証言しているのです。

 第二朗読にあるように、この時にその場にいた証言者の一人として、ペトロは、「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではない。わたしたちはキリストの威光を目撃したのだとその手紙に(2ペト1:16)書いています。ペトロはその手紙に「聖なる山」で自分が主イエスと共にいたときに見たこと、聞いたことを偽りなく語り、それが預言の成就であること、そして「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」と宣言します。

 さて福音書に戻りますが、マタイは、主イエスがモーセとエリヤと共に話し合っているのを見たペトロが、いきなり「口をはさんで」、「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」(4)と言ったと書いています。

 それはペトロが、モーセとエリヤが目の前で主と話し合っているという夢のように素晴らしいこの今の状況がこれからもずっと続けば良いと、とっさに考えたからに違いありません。その時のペトロの心の思いはきっとこんなふうだったのではないでしょうか。

 ここは本当に素晴らしい。主を悪しざまに言う者どもも、十字架などという不吉なことも届かないこの場所で、この光りに包まれて、小さな小屋を建てたらいい。そしてここを、岩の上に建てられる教会とやらの拠点としたらいい!そうすれば安泰だ・・・ああ、この光!この平安!もうここを離れたくない。ここにいよう。主が口になさる十字架などはまっぴらだ!

 そうだ、仮小屋を三つ建てよう。一つは主のため、一つはモーセ様に、一つはエリア様に。そして主よ、ここにズーットいましょう。こんな素晴らしい所はありません。

 無我夢中で主の方に這いずり、近寄りながらこんなことをペトロが口走っていると、まるで、神がペトロの考えを遮断するかのように、「光り輝く雲」が彼らを覆いました。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえたとあります。

 この「光り輝く雲」は、その昔奴隷の地エジプトからの脱出の際に記された雲、イスラエルの民に臨んだ全能の神の栄光の雲です。神の臨在の象徴です。光にあふれる雲が、ただでさえ輝き渡っているそのあたり一面に垂れ込めてきました。

 それまで、神が自分たちに何をなしたか、これから神がイエスに何をさせようとされているかということについて、弟子たちに語って聞かせたモーセとエリアの声は消えて、代わりに一切を告げる神の声が、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者、これに聞け」という神の声が雲からとどろくように聞こえたのでした。

 この声は主の洗礼を思い起こさせます。このように主の洗礼のときも、この山上の変容のときにも、視覚的に、そして聴覚的に神が介入されたことがよく分かります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という神の示しが向けられた相手は、受洗の時は洗礼者ヨハネであり、変容の時は弟子たちです。

 ペトロたちは思ったでしょう。洗礼者ヨハネは主の洗礼の時、神の声を聞いたのだ。そして聖霊が主に下るのを見たのだと気づいたペトロたちは、同時に、今自分たちは神の前に主の変容の証人として選ばれたのかと気づき、初めて大いなる畏れに捉えられたと思います。

 とどろく声が長い尾をひいて消えていった時、ペトロたちは地上が普通の地上に戻ったことを感じました。地にひれ伏していた顔に、土の匂いや地面の固さを感じた時、一つの手が肩にやさしく置かれたことを感じました、それは主イエスの手でした。 

 神の臨在を知り、畏れおののいてひれ伏した弟子たちに主イエスご自分の方から近づきました。マタイ福音書の登場人物たちは、だいたいは人々の方が、畏敬の念をだきながら、主イエスに近づこうとします。しかし、ただ二回だけ、主イエスが自ら、人々の方に近づいていかれます。それは今日の福音箇所と、もう一つは28章18節です。28章では復活した主イエスが弟子に近寄り、宣教へと派遣するにあたり「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。マタイはこのイエスがご自分の方から私たちに近づいてこられるのだということを、とても大切な主イエスの本質だと捉えたのではないでしょうか。

 マタイは、変容の出来事は復活の出来事に結びあい、つながっていると示してくれています。復活した主イエスは、いつも、どんなときにも弟子たちと共におられます。私たちと共におられます。主の変容はただ主イエスの神秘を垣間見せただけでなく、宣教に取り組もうとする教会を励ます出来事でもあります。

 主の変容を目にしたペトロの理解は間違ってはいませんでした。けれどもその当時は表面的で信仰の深みに欠けるものでした。だからこそ光り輝く雲から神が声をかけ、「これに聞け」と理解の不足を補ってくださいます。私たちも「これに聞け」という声を聞きます。主イエスは私たちに寄り添い、優しく背中に触れて助け起こしてくださいます。宣教に向かう弟子たちは、この主イエスと一緒です。この主が今日もあなたと共におられます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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