2023年2月12日日曜日

礼拝メッセージ「主の愛による完成の道」

 2023年02月12日(日)顕現後第6主日

申命記:30章15〜20 

コリントの信徒への手紙:3章1〜9 

マタイによる福音書:5章17〜37

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイによる福音書の5章から始まり7章に終わる主イエスの「山上の説教」は「八つの幸い」を負う者に「あなたがたは地の塩である、世の光である」ということが言われました。主から、その祝福を受けた人々に求められるそれぞれの生き方についての教えが続きます。そこには主イエスが「律法や預言者を完成する」というメシアとして使命と目標が示されています。私たちが日々どのように生きたらよいか主イエスから聞いてまいりましょう。

 今日のコリント書にあるように、初代教会の中で、どのように教会を作っていくかということを巡って、「私はパウロにつく」、「いや私はアポロだ」というように、いわば派閥争いが起きたのでしょう。パウロは「お互いの間にねたみや争いが絶えない」(1コリ3:3)ことを嘆いています。しかしそんな彼らを諭して、パウロは3章9節、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と、神のために力を合わせて働こう、あなたがたは世に恵みをもたらすもといなのだと励ましています。これは私たちへの励ましでもありますし、今日の福音箇所につながるものだと感じます。

 おそらく、マタイの教会でも信仰者たちの間で意見の対立がおきたと考えられます。そのマタイの教会で、最も大きな争点になったのは、モーセの「律法」をめぐる問題だったでしょう。

 律法は、神がモーセを通して、エジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民に与えた掟です。律法の前提には神のこの救いのわざがあり、律法の中に示されるのは、神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか、ということです。

 また「預言者」はその時代、その社会の中で神からのメッセージを告げるために選ばれた人々でした。ですから17節の「律法や預言者」は旧約聖書全体を指す言葉です。そこに神の意思・望み・み旨が示されていると主イエスの時代のユダヤ人は信じていました。

 主イエスが福音宣教をしていた当時、ユダヤ教の指導者たちは、主イエスの態度に不満を持ち、攻撃しましたが、それは『イエスは律法をまるで無用なものように扱った。イエスは律法を破棄した不信仰な者だ』と誤解していたからだと考えられます。

 そして復活の主イエスの昇天後に初代教会が始まってからは、パウロの手紙にも見られるように、マタイの教会でもその内部では争いがおきたと思われます。それは律法を遵守することを救いの条件と考える保守派のグループと、その他に律法はイエスによって無用とされたのだから、律法は捨て去ることができると考えるグループもまた存在したと思われます。マタイはこうした人々が主イエスを誤解していることを知り、それを正すために17〜20節を記したと思われます。では、そこで主イエスが述べる「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」とは、どういう意味なのでしょうか。

 ファリサイ派やその派の律法学者たちは主イエスの宣教活動の主要な場面には必ず登場します。彼らは熱心に律法を学び、律法を守ることこそ、神に従う道であると確信していました。

 主イエスも律法や預言者を否定しません。しかし、主イエスの律法に対する態度は、律法学者やファリサイ派の態度とは明らかに違っていました。律法学者たちは、主を十字架に追い込んでいく上で大きな役割を果たしましたが、その対立の原因は「律法」の理解にあります。それぞれの「律法」に対する考えが大きく違っていました。では、主イエスは、そして律法学者たちは、「律法」をどのように理解していたのでしょうか。

 当時のユダヤ教徒たちは、モーセから伝えられた律法を尊び、それをどのように日常生活の行いや作法によって具体化するかについて、知恵を尽くして非常に細かい掟の体系を作り上げました。けれども貧しさや、仕事がらなどからそうした掟に従えない人々を仲間はずれにしていました。それは主イエスの目から見れば、彼らは掟を表面的に、文字通りに守ることにこだわり、その本質を見失っていると見えます。主イエスと律法学者たちが、するどく対立している場面では、必ずと言ってよいほど、今目の前で、苦しんでいる人、悲しんでいる人へのまなざしが問題になっています。

 杓子定規で、硬直した律法解釈でその人を裁く律法学者たちのまなざしは冷たいです。逆に主イエスのまなざしは、優しさにあふれて、一人ひとりの人をいとおしみ、その痛み、苦しみ、悲しみに共感し、その人のありのままを包み込もうとしています。律法学者たちに対する主イエスの辛辣な言葉は、「今、目の前にいる」気の毒な人が無視されることに対する憤りからのものだと思われます。

 マタイが書き記したように、主イエスは十戒などに定められた、律法を肯定しています。これらの掟は社会の秩序を維持していくための土台です。この世界は、それぞれの権利と義務を尊重するという約束の上に成り立っています。しかし、主イエスは、そこにとどまらず、目を天に上げて、ときには自らの権利を放棄することを求めました。

 21節から37節おいて主は、目を天に上げて律法を見るように、つまり神が望まれる人間の生き方を愛という一点に集中させるように、あなたがたは「愛による完成の道」を生きていくようにと自分の体をもって、行為をもって教えてくださっています。

 言い方を変えれば、ご自身が愛そのものである主イエスは、「この私に現れている神の愛を、信じて、受け入れて、互いに愛し合いなさい」と、自ら実行してみせて、そう言いたいのだと思います。

 ファリサイ派や律法学者たちのように外面的なこととか、掟に頼るとか、自分は正しいと言い張るとか、そういうことではなくて、ほんの少しの優しさで目の前の人を受け入れたり、たったひと言でも励ましたりする。そんなことで、すべてはうまくいく。それこそが神の国だということを、主イエスは言っておられるのだと思います。

 私などは、「人殺しなどしていません」と胸を張るわけですが、主イエスは「いやいや、そういうあなたは、乱暴な車の運転者を『ばかじゃないの』と罵っているじゃないか。目の前の大切なパートナーのことを怒鳴ったりするじゃないかと言われる。これは、最高の掟であるはずのあなたの愛はどうしたんだということにちがいないですね。

 確かに律法には、『人を殺すな』と書いてある。けれども、『ばか』ひと言でも、相手の魂を傷つけ、『愚か者』ひと言でも、相手の存在を否定し、追い詰めます。それは殺したのとおんなじです。いじめ自殺のことを思えばよくわかります。

 律法を守るというのは、外面的なことではなく、まずは神が与えてくださった、心の奥の優しい気持ちを何よりも大切にすることなのだ」と、主はそういうことを言っておられるのでしょう。

 姦通の罪についても、当時はまったくの男性中心の社会で、女性の権利なんてまるで考えない世の中だったので、たとえば、妻がいるのに他の人の妻と関係を持ったら、もちろん「それは罪」ですけれども、それは、その相手の女性の夫の権利を侵しているから罪だと、そういう考え方です。だから、未婚の女性とだったら、罪にならなかった。それを神学校の授業で知って、唖然としたことを思い出します。

 これなんかはもう、「私は律法を守って、姦通の罪を犯していません」などと言ったって、実際には女性をないがしろにしています。相手の気持ちを考えずに、もし自分の都合や自分の欲望だけで生きているなら、もうすでにその状態が罪です。もっとあたたかい心で、優しい気持ちで、もうひとりの誰かと関わるときにこそ、そこに神が語りかけている天の国が実現するのだということを、主イエスは言いたいのです。

 私たちが、神が望まれる人間の生き方をしようと、目を天に上げるとき、そして私たちの思いを、愛という一点に集中させるとき、そこに神の国が生まれてきます。それこそが、私たちが、主イエスに従い、神のみ旨を果たす「愛による完成の道」であり「神による完成の道」だと言えるのではないでしょうか。どこまでも不十分な私たちですが、こんな私たちのままでも神にいだかれ愛されている私たちです。神が望まれるように、主が望まれるように、私たちもきっと愛という一点に立って生きていけます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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