2023年2月7日火曜日

「それでも『デアル』」と言われる不思議」   江藤直純牧師

 2023年2月5日 顕現後第5主日  小田原教会

イザヤ58:1-9a;Ⅰコリント2:Ⅰ-12;マタイ5:13-20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 「洗礼」とか「十字架」という言葉は正真正銘のキリスト教の用語です。しかも中心的な意味を持つ用語です。しかしながら、これらの言葉は別にキリスト教徒とかキリスト教に関心のある人にだけ通じる言葉ではなくなっています。高校野球の花形でドラフト一位でプロ野球に入り活躍が期待されている新人投手が開幕早々ホームランを打たれると、新聞テレビは「彼はプロの洗礼を浴びた」というように表現しますし、キリスト教には何の関係もない大多数の読者・視聴者はそれでよく通じるのです。十字架もそうです。人生で大きな苦労を背負わされていると、たとえば医療ミスで大きな障害を負うことになり勉学もましてや就職もままならず悪戦苦闘をしていると、「あの人は十字架を背負って生きている」などと言われ、それを聞く人たちもなんとなく事情を理解することができます。

 洗礼とか十字架とかほどは普及してはいませんが、聖書に出てくる「地の塩」とか「世の光」という言葉もそれなりに知られています。青山学院のスクールモットーは「地の塩、世の光」です。カトリックの学校に光塩女子学院という名の学校があります。光塩は光と塩です。京都には世光教会という榎本保郎牧師が始めた教会があります。世光、世の光です。京都大学には地塩寮という名のYMCA学生寮があります。地塩で地の塩です。これらの名前を見て、少なくともクリスチャンなら「ああ、この名前は聖書から取られたのだな。ここはキリスト教に基づいている施設だな」と気づかれることでしょう。

 実際に聖書を紐解いて、その言葉を読んだことまではなくても、地の塩とか世の光というと受取手にはなんらかのイメージが湧き上がります。塩がピリッと辛いので少量でも味付けするのに不可欠だとか、魚などを塩付けするのは腐敗を防ぐために必要だとか、雪が降るところでは融雪剤として役に立つとか、さらには大相撲で塩をまいたり、葬式のあと玄関で塩を振ってから家に入るとか、宗教的な意味で清めに使われるとかを知っています。

 災害などで辺り一面停電になったときとか、街頭もない夜道を歩くときには、小さなろうそくや今ならスマホについているモバイルライトという小さな照明のありがたさを経験しています。ですから、地の塩と聞き世の光と聞くと、なくてはならない、しかも大切な役割を果たすものだとだれもが容易に想像できるのです。そうならば、「地の塩になれ、世の光になれ」、或いはもう少し穏やかに「地の塩になろう、世の光になろう」と語りかけられると、ミッションスクールでそう教えられると、自然に「そうだな、それはいいことだ。そうなりたいものだ。わたしはクリスチャンではないけれども、そうなるように努めよう」という気持ちになるのではないでしょうか。教会の礼拝でこのマタイ福音書5章が読まれると、牧師は「イエス様は山上の説教の中で、皆さんに地の塩・世の光になりなさいと教えていらっしゃるのですよ。祈りながら、少しでもそうなれるように努めていきましょう」と説教の中で勧めるのではないでしょうか。そうすると、心の中で「アーメン、そうなれるように励みます」と心の中で頷くのではないでしょうか。人生訓として、また座右の銘としても立派なものです。

2.

 宗教というものは、キリスト教であれ仏教であれどんな宗教であれ、それを信じる者たちに人間的な成長を目指し、人格・人間性を陶冶するように努め、欠点を改め、心を豊かにするようにと勧め、それを人生の目標として掲げるように促し、この世的・世俗的価値観からもっと高尚な生き方へと教え導くものだと一般に受け取られています。それが他ならない宗教の役割だと思われていますし、世の宗教はどれもそうであろうとやってきたと思われます。中にはいかがわしい宗教もありますが、長い年月を経る中で、それらは自ずと自然淘汰されてきます。

 ですから、「地の塩となれ、世の光となれ」という教えは、その鮮やかなイメージと共に、また印象的な口調や響きを伴いながら、優れた宗教的な教えとして高く評価され、広く受け入れられているのではないでしょうか。そのことを否定するつもりは全くありません。

 しかし、しかしながら、次のことを見逃したくはないのです。次のことに気づいていただきたいのです。それは、聖書を見てみると、日本語の聖書がそうですし、英語の聖書であれドイツ語の聖書であれ、もちろんのこと原語のギリシャ語の聖書であれ、どれを見ても「地の塩となれ」「世の光となれ」とは書いてないということです。どうぞ、聖書をもう一度開いて見てください。マタイ福音書5章13,14節です。ここには「地の塩となれ」「世の光となれ」とは書いてなくて、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と書いてあるではありませんか。「トナレ」「ニナレ」ではなく「デアル」と書いてあるのです。ということは、主イエス様は「デアル」と仰ったのでした。「あなた方は地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。こうなれと命令されているのではなくて、こうであると宣言されているのです。

 1987年に刊行された新共同訳聖書でも2018年に出された聖書協会共同訳でも同じです。岩波訳だけが「あなたたちは大地の塩である」「あなたたちはこの世の光である」と地と世を大地とこの世と訳していますが、「あなたがたは・・・である」という肝心のところは変わりません。多くの英語訳はYou are the Salt of the Earth. You are the Light of the World.ですが、ひとつだけYou are salt for the earth. You are light for the world.という具合にof the Earth、of the Worldがfor the earth、for the worldとなっていますが、肝心のYou areというところはどの英訳聖書でもまったくそのままです。つまり、イエス様がおっしゃったのは、ニナレという命令でもなく、ニナロウという呼びかけでもなく、あるいはニナルデアロウという未来の予測でも期待でもないし、ニナルトイイネという願望でもありません。アナタガタハ・・デアルという事実の宣言なのです。

3.

 山の上でイエス様を取り囲んで、いったい何を教えてくださるのだろうと固唾を呑んで聞き耳をそばだてていた弟子たちや大勢の群衆たちは、これを聞いてさぞやビックリしたことでしょう。今ここに集まって来ている俺たちが地の塩だって! わたしたちは世の光ですって! これほど驚かせる話はありませんでした。そこにいた人々はきっと我が耳を疑ったに違いありません。

 しかし、実は彼らが驚いたのはこれが初めてではありませんでした。山上の説教の冒頭に記されている「八福」或いは「八つの幸い」もそれこそ腰を抜かすほど驚かされる主の言葉でした。新共同訳の3節は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」です。4節は「悲しむ人々は、さいわいである、その人たちは慰められる」です。文字通り読むと、次のように受け取れます。どこの誰かはしらないけれども、心の貧しい人々や悲しんでいる人々は幸いだそうだ、なぜなら、天の国はその人たちのものだから、あるいは慰められるから。ふーん、そういうものかなー。そういう人々っていったい誰のことだろうと。これだけ聞けば、ここで言われていることは、わたしのことでもなく、あなたのことでもなく、第三者のことのように聞こえかねません。

 でも、11節を見ると、「あなたがたは幸いである」、12節には「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われていますから、これは第三者のこと、他人事ではなく、イエス様はこの私に向かって語りかけておられるのではないかと気がつきます。並行記事と呼ばれるルカ福音書6章の「平地の説教」を見れば、もっとはっきりと誰に向かって語られているかが分かります。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」とあるように、この主の言葉は聞いている目の前の「あなたがた」に語られていることが分かります。今ここに集まってイエス様を囲んでいる群衆たちに向かって「あなたがたは・・幸いである」と仰っているのです。

 ですから、フランシスコ会訳聖書は「貧しいあなたがたは幸いである」「今飢えているあなたがたは幸いである」「今泣いているあなたがたは幸いである」という具合に貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々とは、いまここで聞いているあなたがたなのだということがはっきりと伝わるように訳しています。岩波訳もいくつもの英語訳もそうなっています。

 ルカと違ってマタイの山上の説教の八つの幸いは、原典でも「あなたがた」はなく「彼ら」になっていますから、邦訳でも英訳でも「あなたがたは」は入っていませんし、「その人たち」という三人称が用いられています。そのことを承知の上で、私はこう思うのです。イエスさまのお気持ちを忖度して、文法的な直訳ではなくなりますけれども、あえて私訳をしてみれば、「あなたがた心の貧しい人々は、幸いである、天の国はあなたがたのものである」「あなたがた悲しんでいる人々は、幸いである、あなたがたは慰められる」となります。文法的には三人称で語られています。しかし、わたしは思うのです、聞いている人々は「あなたがたは」と二人称で語りかけられているとたしかに受け止めていたのに違いないと。文法的には三人称です。しかし、イエスさまは三人称を使うことで抽象的に一般論を語っておられるのではないのです。他人事を話しておられるのではありません。まさに今ココデ目の前にいる人々に向かって「あなたがたは幸いである」と熱く、断定的に語っておられるのです。もしそうでなかったならば、この山上の説教は二千年もの間語り継がれてくることはなかったでしょう。人々の心にそれほど印象的に響き、それほど深く染み入ることはなかったでしょう。一般論を通してならば、読む者、聞く者の魂に常識では考えられない「あなたがたは幸いである」との神の言葉の力、慰め、希望がもたらされることはなかったでしょう。しかし、目の前の人々に向かって「あなたがたは幸いである」と語りかけられたのです。まことに不思議な宣言です。

 それとまったく同じことが、続く13節以下でも起こったのです。今度は文法的にもズバリ二人称で、一般論としてではなく明らかに目の前の人々への宣言として、イエスさまはおっしゃったのです、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。聞いている民衆たちはどれほど驚いたことでしょう、事実彼らは貧しく、時に飢えており、不正義や不公平のゆえにしばしば泣くこともある、運命に翻弄されることもある、社会的には下層階級だからエリートや支配階級からは貶まれているのです。こんな自分たちに向かって、イエスさまが、気休めでもなくダメと承知でハッパを掛けるのでもなく、躊躇わずに、何一つ条件を付けずにズバッと宣言なさったのです。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。驚かないではいられません。これを不思議に思わないではいられないではありませんか。

4.

 私が現代世界で、同時代人として「地の塩」「世の光」として生きた人を一人だけ挙げるとするならば、それは中村哲という方です。1946年生まれ、2019年逝去。アフガニスタンで銃撃されたのです。医師でした。皆さんもクリスチャン・ドクター、中村哲さんのことをご存じでしょう。

 この方は1984年にキリスト教海外医療協力会からパキスタンに派遣され、のちにアフガニスタンに移ります。ペシャワール会が支えてきました。先生は医療活動をやっていくうちに気がつきます。戦乱と干魃と貧困にあえいでいる民衆を救うためには診療所を増やすだけではだめだ。彼らが人間らしく生きるためには水が必要だ。井戸から衛生的な水を汲み出すだけではなく、乾ききった大地を潤し、麦や野菜などを育てるための灌漑用水が必要なのだと。そう思い定めたドクター中村は自ら多くの井戸を掘り、さらに自分が先頭に立って重機を操縦して、民衆と共についに全長25キロの用水路を造り上げたのです。それによって65万人の人々の生活を一変させたのです。「緑の大地計画」というまるで夢のような、途方もない大計画を実現したのです。その挙げ句の果て、何者かによって銃撃されて、73年の生涯を彼の地で終わりました。アフガニスタンに住む多くの人々にカカムラト、ナカムラのおじさんと呼ばれて慕われ、尊敬された生涯でした。平和で豊かな日本に生きる人々に大きな影響を与えた人生でした。

 外国で戦乱と干魃と貧困にあえいでいた人のために生きて死んだこのような人をこそ「地の塩」「世の光」と呼ぶのにふさわしいと思いますし、皆さんもそう思われるでしょう。おそらく誰にも異存はないでしょう。

 そのことを認めた上で、申し上げたいのです。イエスさまが山上の説教を語られた当の民衆とは、言うならばこのアフガニスタンの、ドクター中村が共に生きたあの人々と同じだったのです。ということは、大胆に言えば、イエスさまはあのアフガニスタンの民衆の人々に向かっても「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とおっしゃった、おっしゃっているということになります。最後に、この不思議をしっかりと考えてみましょう。

5.

 ドクター中村は今その肉声をうかがうことはできませんが、その言葉は彼が書いた何冊もの書物の中に書き留められています。多くの心に残る言葉の中から三つだけをご紹介しましょう。「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる、それは普通のことです」「みんなが生きていかなくちゃ」「命に対する哀惜、命を愛おしむという気持ちで物事に対処すれば、大体誤らない」。どれひとつ取っても、高尚な思想とか高邁な真理だという表現には似つかわしくないような、実に平易な言葉です、ごくごく普通のことです、誰もがアーメンと唱和したくなるような、共感共鳴できるような教えです。

 しかし、「道で倒れている人がいたら誰もが手を差し伸べる」はずですが、そうなっていないのがこの世です、私たちです。「普通」のはずですが、実際は普通にはなっていないのです。「みんなが生きていかなくちゃ」というのは自明のはずですが、この世界は昔よりもずっと豊かになったと思われていますが、現実は貧富の格差は昔よりもひどくなっているのではないでしょうか。この世のみんなが生きていくのに必要な富も食糧もあるのに、そのようには分配されていないのです。飢餓状態の人々は相も変わらず大勢います。「命に対する哀惜」が行き渡っていたら、毎日毎日報道されているような残虐非道の戦争が起こるはずも続いているはずもないのです。

 ドクター中村が口にされた言葉、それは私にはドクター中村を通して語られた神の言葉だと思われます。そう聞こえます。私はそう信じます。人間にとって普通であり自明であるはずですが、もろもろの欲に支配されている人間にとっては、実現できてない神の言葉です。

 中村先生はそれを実践されました。まさに地の塩、世の光です。そして、アフガニスタンの民衆たちも先生に触れて、先生に導かれて、刀や銃を捨てて、鍬やスコップをもって荒野を掘り、水を引き、畑を耕し、みんなで働きながら、共に生きていく生き方を始めました。道で倒れている人がいたら手を差し伸べるのです。みんなが生きていかなくちゃと心を合わせ、力を合わせたのです。彼らもまた、極端な貧富の差があり、食糧や医療や教育でものすごい格差があり、戦争が止むことのない、命がこれ以上ないほどに軽んじられているこの世界にあって、神さまから見たら「普通」の生き方をし始めたのです。まさに地の塩であり世の光です。

 でも、そのような地の塩・世の光としての生き方を始めたから、「あなたがたは地の塩である・世の光である」と言われたのではありません。そうなる前から宣言されたのです。それはなぜでしょうか。それは神さまがそのように生きるようにしようとお決めになったからです。そうお決めになったら、必ずそうなるのです。創世記の天地創造の物語を思い出してください。「光あれ」とご意志を言葉にして発されたのです。そうしたら、「光があった」のです。神の言葉は必ず成就するのです。それが神の言葉なのです。今地の塩っぽく見えなくても、世の光らしく思えなくっても、神さまは必ずそうすると意志なさったのです。必ず実現すると決意なさったのです。

 繰り返しますが、「あなたがたは地の塩である・世の光である」と宣言なさったら、神さまはその言葉を必ず成就なさるのです。事実、アフガニスタンの民衆はそのような生き方を始めたのです。まさに地の塩・世の光になっていくのでした。ドクター中村だけでなく、彼らもまたそうなのです。そのように宣言していただくから、彼らは幸いなのです。紛れもなく地の塩なのです。世の光なのです。

 わたしたちはイエス・キリストを通して神の言葉を聴いています。神さまの宣言を聴かされています。それは神さまのご意志であり、お約束です。必ず成就するとの神さまのお約束です。その宣言です。そのことを信じ、受け容れましょう。そのお働きに身を委ね、そのようにしていただきましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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