2023年2月5日日曜日

礼拝メッセージ「かけがえない者だから」

 2023年02月05日(日)顕現後第5主日 

イザヤ書:58章1〜9 

コリントの信徒への手紙一:2章1〜12 

マタイによる福音書:5章13〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音は先週の山上の説教の中で教えられた「八つの幸いの教え」の続きです。主イエスはガリラヤ湖畔の丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらの言葉を語りました。弟子たちも、「いろいろな病気や苦しみに悩む」(マタイ4:24)人々もこの言葉を聞いていました。

 13節、14節で、主イエスは、あなたがたは「地の塩になれ」「世の光になれ」とは言っていないですね。驚くことに、主イエスは、私たちに向かって断言します。「あなたは地の塩だ」「あなたがたは世の光だ」と。主は真っ直ぐに、大真面目にあなたにそうおっしゃるのです。そればかりか、さらに主は、あなたの光を輝かしなさいと求めます。その「光」とは、主イエスをとおして神からくる光です。

 15節、「ともした火を升の下に置く者はいない」、つまり誰もせっかくともした光をすぐに覆ったりはしません。それは愚かなことです。また、山の上の町は、その光のゆえに隠れることができません。このように、神から与えられた光を覆い隠さず、外に反射させるようにと主イエスは願っています。

 光は外から来るのであって、人間は自分の内に光を作り出すことはできません。私たちが光を生むのではありません。創世記の初めにあるように、「光あれ」と命じることのできる方だけが、光を与えることがおできになります。

 私たちが「世の光」なのは、与えられた光を世に向けて照り返すからです。

16節に、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とあります。「光を輝かしなさい」をもとのギリシャ語を直訳すれば、「光が輝け」となります。私たちに求められていることは、受けた光を覆い隠さず、明るく反射させることです。

 しかし、私たち自身はいろんな個性を持っていて、皆一人ずつ違っていて、おまけに決して完全ではない者達だということを知っています。それでも私たちが「地の塩、世の光だ」と言われる存在なのは、私たちがただ一人の神である主イエスを信じる者達だからです。そんな個人的な経験をお話したいと思います。

 先々週のことですが、私は大失敗をしました。その日は礼拝後に小田原教会の総会資料をみんなで作ることになっていました。ところが、肝心な資料も、その日の説教原稿もすっかり車に積み込むのを忘れて、積み込んだ気になって湯河原の牧師館を出発してしまいました。小田原教会に着いてお昼のカレーの準備などを積み降ろして、あれ、資料がない!と気づきました。役員の方への連絡を妻に頼んで、急いで湯河原にとって返しました。

 本当に牧師が礼拝に遅れてしまうなどは、全く牧師として面目を失うような失敗です。なさけないという自責の念が浮かびそうになります。その一方で、これで事故でも起こしたらそれこそ大変。ここは運転に集中しよう。主は私がよく失敗することをご存知だ。ご存知のうえでなお救ってくださる。落ち込むことはないと言ってくださる。役員さんもきっと補ってくださる。そういう思いが湧いてきました。それは今日のみ言葉で言うなら、「博雅、お前は地の塩だ」「世の光だ」と全面的に私を認めて、この落胆の危機を、ほほえみいっぱいに主が支えてくださるということですね。

 主に支えられてハンドルを握り、1時間以上かかって小田原教会に戻りました。この間に教会ではどうだったか、これは後から妻から聞いたことです。その朝、来られた役員のお一人に、牧師が遅れる理由を説明すると「何も心配いりませんよ。大丈夫」と言われて落ち着いておられるので、妻はほっとしたそうです。そして、その日、本当に久しぶりに礼拝に来られた一人の兄弟が、スマホに送られてきた週報をコンビニで印刷してきますと申し出てくださって、週報が準備されました。そして、代議員さんが礼拝堂にいた皆さんに事情を説明して、これから礼拝を始めますが、御言葉の歌の前まで私が進めて、そこからは、一人ずつ全員で祈祷をして牧師の帰るのを待ちましょうと話されたそうです。ウクライナのこと、小田原教会の今後のことなどに加えて、牧師が無事に帰ってこられるようにとみなさんが祈ってくださったことを知りました。そして、最後の一人が祈り終わったときに、本当にこれが神の時というように、ピタリと私の車が礼拝堂の窓の外に駐車したのが見えたそうです。

 誰も文句一つおっしゃらず、ひたすら牧師の帰りを待ってくださったことに、妻は本当に感謝の思いが溢れ、涙が出てきたそうです。神を信じ、お互いを信頼し合うことのありがたさが心底身にしみた出来事だったと話してくれました。

 私の方は礼拝堂に入ると、「ちょうど皆さんが祈り終わったところです」と代議員さんがおっしゃったので、私はみ言葉の歌をみんなで歌い、説教に入りました。みなさん、まったく自然にそこにおられ、礼拝はいつもどおりに終わりました。

 こんな大失敗をしでかしたのに、牧師失格だと言われても仕方がないのに、どなたからも責められない。それどころか皆さんが礼拝のためにできることをして、祈り合って待っていてくださった。この経験は主と会衆のみなさんからいただいた最高の贈り物でした。福音をしっかりと味わった時でした。そして牧師冥利につきる経験でした。

 今日も主は、一人の人間として見れば欠点だらけである私たちをかけがえのない者として「あなたは他の兄弟姉妹と共にすでに地の塩です。すでにあなたは世の光です」と言ってくださいます。地の塩になれ、世の光になれ、ではありません。「あなた方は地の塩だ」、「あなた方は世の光だ」と言われるのです。それは本当に福音です。主は皆さんの塩としての、光としての素晴らしさを、ますます知らせてくださっています。私たちがこの感謝を、この喜びを素直に出していけますようにと願い、祈ります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


0 件のコメント: