2023年1月29日日曜日

礼拝メッセージ「励ましと希望の言葉」

 2023年1月29日(日)顕現後第4主日

ミカ書:6章1〜8 

コリントの信徒への手紙一:1章18〜31 

マタイによる福音書:5章1〜12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週金曜日にO姉妹の夫であるO兄のご葬儀が行われました。キリスト者でない方々がほとんどでしたが、主が共にあり、参列者の皆さんが、Oさんが神のみ元に召されたことを祈り願って、心を合わせてお送りくださいましたことを感謝します。

 今回もそうでしたが、ルーテル教会の葬儀では、ご遺体を送り出すときに牧師は今日の聖書箇所の3節から10節を唱えながら葬送の列を先導します。この教えは「真福八端」とか「至福の教え」と呼ばれます。この教えは主イエス・キリストのメッセージの核心であり、根本であると言われます。いわばキリスト教の憲法と言ってよい教えです。

 主イエスはガリラヤ湖が見渡せる緑豊かな丘の上で、5章から7章の説教をしたと言い伝えられています。今日の「至福の教え」はそのまとめの部分でもあります。この教えのテーマは、私たちにとって、真の幸せ、幸い、幸福とは何なのかということです。

 幸福ということについて言えば、私たちは、自分のやっていることや、持っている物によって幸いになりたいと望みます。人間は、自分が持っているその能力によって幸福を追求していきますね。昔も今も、それが私たちが幸福を得る仕方だと考えているからでしょう。

 ところが主イエスは、真の「幸い、幸福、幸せ」とは、そういう人間によって到達されたり、勝ち取られたりするものではないと言い切ります。主は、神が私たちの内で働いてくださることによる業や実りによって神がくださるものこそが真の幸いであり、幸せなのだ。「幸い」とは神から与えられる賜物なのだ。その「幸い」こそがとても大事なものなのだとおっしゃるのです。

 それでは主の「至福の教え」を具体的に見ていきましょう。3節、「心の貧しい人々は、幸いである」。いきなり難解なことを言われたとお感じでしょう。日本語で「あの人は心が貧しい」といえば、了見の狭いとか、さもしいとか、あさはかだ、などというとても否定的な意味になります。しかし、ギリシア語の原文では、これはむしろ「霊における貧しさ」、「霊において貧しい」という意味なのだそうです。

 聖書では、霊と体は一体ですから、「心が貧しい」とは、霊と一体である心が貧しいのであり、この人は心の一番深いところまで貧しい。とことん貧しいということです。この世においては自分には誇るべきものも、より頼むべきものも何ひとつなくて、何も持っていない。「心の貧しい人」とは自分がそういう「貧しい」存在だと気づいている人です。だからこそ神にだけより頼む人です。そういう自覚が十分でなくても主は救ってくださいますが、キリスト者はそうありたいものです。

 4節、「悲しむ人々は、幸いである」。愛する人の死もそうですが、人生には悲しみがつきものです。すべての人がいろんなかたちで悲しみを経験していると思います。とりわけ霊において貧しいひと、神にだけより頼む人は、ますます悲しみの経験が多いのではないでしょうか。しかし、悲しみのときにも孤独ではありません。慰め、寄り添ってくださる主がおられ、主に遣わされた人々がおられます。

 5節、「柔和な人々は、幸いである」。柔和という言葉を調べてみると、「権力がない、力がない」という意味であるわけです。この人は「心の貧しい人」と同じ意味で、何も持っていない、力を振るうことが出来ない、そういう人です。

 主イエスご自身も、マタイの11章29〜30節で、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」、と非常に慰めに満ちた言葉を語っています。ここでは、権力や暴力によって、何かを起こすようなことの決して無い、そういうへりくだった心のあり方、そのような心の柔らかさというのが考えられています。

 6節、「義に飢え渇く人々は、幸いである」義という言葉は、もともとは社会的な不正とか、搾取や抑圧といったようなものが克服されて、正しい正義が回復されて、普通の生活が安らかに保証されている状態のことだと言われます。不公平とか、不当なことがない。これが義であるわけです。

 先ほど触れた、貧しさを生きる人、悲しさを生きる人、柔和である人、権力を持たない人はこの世にあってはむしろ不当な扱いを受けがちなわけですが、しかし、神の働きを信じる忍耐をもって、そんな中でも秩序が回復されていくように求めていく。その人は幸いであるというわけです。

 7節の「憐れみ深い人々」、8節の「心の清い人々」、9節の「平和を実現する人々」10節の「義のために迫害される人々」ですが、ここではこれらの人々が、人間的に見て不幸な状況に対して、どういうふうに対応するのかということが語られていると思います。つまり先に語られた貧しい人々が、取りうる態度が語られていると思います。

 この人々は神が義の神であり正義の神であること、また、憐れみ深い神、平和を実現してくださる、シャロームをもたらす神であることを知っている人々です。そして貧しい人々が置かれている不幸な状況に対して、神が、この瞬間にも働いておられることをも知っている人たちではないかというわけです。

 こういう人々、つまり義に飢え乾く、憐れみ深い、心を清く保つ、平和を実現する、義のために迫害されてもよいとする人々は、神の働きに自らも参加する人々です。人間が置かれた社会的に悲惨な状況、不幸な状況に対して働いておられる神の働きに、自らも参加して一緒に働こうとする、主はそういう人間の態度を望んでおられると思います。

 「心の貧しい人々は、幸いである」と始まる「至福の教え」の考え方の一番深いところにあるのは、主イエスにとって、このような貧しい人々、苦しんでいる人々、苦境にある人々は人間の目からでなく、神からの目で見れば、特別に恵まれた人、幸いな人であるということではないでしょうか。

 なぜそうなるかというと、お金持ちとか、恵まれた境遇にいる、何不自由ない人たちよりも、そのような人々の方が、神が本当に与えたいものをたくさん与えられているからです。簡単には言えませんが、そのような人々の方が、神が本当に与えたい精神的な、霊的な深い喜びや豊かさを体験する機会が多く与えられていて、生きることの幸いを充分に味わえるからです。

 今日の朗読第一朗読も第二朗読もそのことを語っていると思います。ミカ6章8節に「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」とあります。

 また、第一コリント書、1章27〜29節「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と、そう言われています。 

 もちろん、貧しさとか、悲しみ、苦境、蔑みなどは、それ自体に価値があるというわけではないですが、そうした状況の闇が深ければ深いだけ、なおさら、希望の輝きというのは増してくるということが言えるのではないでしょうか。

 それはどうしてかと言えば、この世の不当さ、悲惨さ、理不尽さのどん底において神の約束の切実さというものに本当に触れて、その約束を与えてくださる主イエス・キリストとも本当に出会い、触れ合うことができるからです。

 今ウクライナで、ミャンマーで、世界の様々なところで、そして日本においても、数多くの人々が悲惨さと困難さの中にあることを思わずにおれません。確かに主イエス・キリストは私たちの元に来てくださいました。しかし、私たちは主がもたらしてくださるべき本当の恵みの国、希望の国、平和の国のその縁に立っていると言えるのではないでしょうか。

 人間に対して、特に不幸な状況、困難な状況に置かれた人々に対して神は働き続けておられます。その神の働きに、自らも参加して一緒に働こうと主は呼びかけておられます。

 心の貧しい人々は今の世界の悲しい現状がやがて突破されて、神のもたらそうとしておられる世界を垣間見ることができるのだと思います。その時私たちは神の本当のみ心、深い望みを悟って、神がこの世界を見ておられるその眼差しと一つになることができるのではないでしょうか。それこそが本当の幸いということではないかと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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