2023年1月8日日曜日

「キリストの洗礼」

2023年01月08日(日)主の洗礼主日(顕現後第1主日)

清重尚弘牧師 説教要旨

イザヤ書 42章1〜9 

使徒言行録 10章34〜43 

マタイによる福音書 3章13〜17

 主イエスキリストが公に動き始めます。クリスマスの誕生と幼児イエスの記事の後は、主が12歳の時にエルサレムの神殿へ登ったという記事(ルカ2章)の他は主の記事は聖書にはありません。その後は一気に成人なさった記事として、今日の洗礼の記事になっています。「その頃」ヨハネが荒野に現れて、「悔い改めよ」と人々に激しい審判の説教をし、ヨルダン川で洗礼を授け、群衆が罪を告白して洗礼を受けたとあります。

 この場面は、アメリカの映画などでも見ますね。「マムシの子らよ、Repent! 」と大声で叫んで、群衆を川の中に頭からザブンと沈めて激しく断罪する場面です。そこへ、なんと、主イエスがヨハネのところへ来て、洗礼をお受けになるというのです。ヨハネは、「私の方こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と断ります。しかし、主は「今はこうするのが我々に相応しいこと」とおっしゃったので、ヨハネは言われる通りに主に洗礼を授けます。

 洗礼を受けた主が水の中から立ち上がると、天が主に向かって開き、主は、なんと神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になったというのです。その時に天から声が聞こえます「これは私の愛する子、私の心に適う者」

 主イエスとヨハネの関係は?どちらが上で下なのか?優劣は?神の子に私がどうして洗礼を?戸惑い、主に、「あなたこそ私に洗礼を」と言ったヨハネの言葉は理解できますね。そもそも神の御子がどうして罪の赦しの悔い改めの洗礼を受ける必要があるのだろうか?皆さんは、どうお考えでしょう?

 私は、主イエスのお言葉の中に、この問いへの答えが見出せるのではないかと受け止めています。なぜか?ヨハネの思いには、「私ヨハネ」と「あなた御子」との隔たりの関係の中での問いがあります。それに対して、主のおことばは、この隔たりの関係を打ち破るものと言えます。主は「我々に相応しいこと」と仰っています。上下、優劣ではない、「私」と「あなた」ではなく、「我々」と仰っているのです。

 どういうことか?ここで主は、ご自分をヨハネと等しい、同じの立場に身を置いて、ヨハネと一つのものとなっておられると言えないでしょうか。ヨハネは自身が認めている通り、罪の中にある人間です。主はこの罪人たるヨハネと等しくなられるのです。私はあなたと同じ者となっている、とおしゃっているのです。「そこで」何が正しいのか?我々罪人が救いに与るには何が正しいことなのか?それに応えて、主は罪人と等しくなられるのです。フィリピ書2:6~11にある通りですね。ここで主は、ご自分を罪人と等しいところに身を置かれるのです。

 ヨハネよ、私とあなた、どちらが正しいのかという問いの中に答えがあるのではなく、ともに等しいものとなるところに答えがある、そこで、等しく父の恵みに与ることが許されるのだ、こう主はおっしゃているのではないでしょうか。主イエスが、この私に向かって、「我々」と仰ってくださる、ここに福音があります。

 嘗て、ハワイのモロカイ島に閉じ込められたハンセン病の人々と生活を共にしたダミアン神父のことです。神父は患者と家族同様に寝食を共にし、共に耕し、住まいを建て、給水設備を作るなど、日々を共にし、生涯をささげました。ついに神父自身が感染した時に神父はこう言ったのです。~ 皆さん、これまで私は皆さんに向かって「あなた達」と話しかけてきました。しかし、今日からは「私たちは」と言えることになりました。このように、主イエスは、ヨハネに「私たちが」このようになすことが誠にふさわしいこと、とおっしゃったのでした。

 主は、私たちと等しくなってくださいました。神の御子でありながら、苦しみを味わい、十字架の上の死をさえも身に受けて、黄泉にくだりたまいました。ここにまことの愛があります。まことの救いがあるのです。

 洗礼は、この恵みを実現する、聖なるサクラメントであります。ただの水に力があるのではなく、水に約束の「み言葉」が宣言される時に、まことの救いの力あるサクラメントなのです。

 良心の人ルターは自らの罪の恐れに慄く人でした。本当に自分が救われているのかと慄く時に、私が救われていることは確かである。なぜなら、私は1483年11月10 日に生まれ、翌日11 日に確かに洗礼を受けたのだから、と思い起こして、救いの確信を得たと言われています。

 私ども、救いの確信が、洗礼にあります。私が洗礼を受けた時に、主イエスが私と共に洗礼をお受けになった、このことをしっかりと思い起こしましょう、ここに福音があります。

清重尚弘


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