2023年1月1日日曜日

「名づけの秘密」  江藤直純牧師

 2023年1月1日 小田原教会  

民数記 6:22-27; 

ガラテヤの信徒への手紙 4:4-7; 

ルカによる福音書 2:15-21

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 (1)赤ちゃんに名前を付けるというのは、親が子どもに対して自分たちの思いのままにできる唯一のことだと聞いたことがあります。唯一かどうかは分かりませんが、子どもの名前は、本人の意志とは関係なく、親が決めます。

ですから、親は子どもが生まれる前からあれやこれや考えに考えて、どんな子になってほしいかという願いを込めて、もちろん最大限の祝福も込めて、さらには呼んだときに耳にどう響くかとか文字にしたとき目にどう映るかとかも考慮に入れて、中には漢字の画数まで気にする親もいるようですが、とにかく心の底からの願いと祈りを込めて決めます。名前は一生変わりませんから、それはそれは慎重に行います。

(2)旧約聖書を見ると、創世記の2章にアダムがエデンの園で「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥」に名を付ける場面があり、3章の禁断の木の実の出来事の後には、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」(3:20)と記されています。ヘブル語でエバ、命とは彼女にとっていかにもふさわしい名前だと思われます。名付けることで、そして互いに名前を呼び合うことで、二人の関係はいっそう深まったことでしょう。

 それだけでなく、その名前で呼ばれるたびに、呼ばれた本人は自分が何者なのか、自分のアイデンティティとは何なのか、自分に課せられた使命とは何で、自分はどう生きるべきかということを思い起こすのです。名前を付けることには、名前を付けられることにはそのような重大な意味があるのです。

(3)クリスマスの日に世界中でその誕生を祝われたイエスさまもまた当然のことながら名前を付けられます。誕生の後の一連の流れは長いユダヤ教の伝統できちんと決まっています。

 生後8日目、男の子である赤ちゃんイエスさまは割礼の儀式を受け、名前を付けられました。レビ記12章の「出産についての規定」には男子を出産したときには7日間母親は汚れているから8日目に割礼を施し、さらに血の汚れが清まるのに必要な33日の間は家にとどまること。女児を出産したときには14日間汚れているとされ、血の汚れが清められるのに66日を要し、その間は家にとどまっていないといけないこと。そのように規定されていました。生まれた赤ちゃんが男の子か女の子かで母親の汚れの日数や清めのための日数に倍もの差があるのは今日の常識から考えて理解できません。汚れとか清めなどと言わずに、母体の回復のために必要な休息の日数が必要だと言うのなら、もっともだと思えます。そういう実際的な配慮と当時の宗教的な理屈づけがごちゃ混ぜになっているのは歴史的な限界とも言えるでしょう。

(4)それはともかくとして、イエスさまには生後8日目に習慣に従って名前が付けられました。これまた当時の習慣に倣うならば、ヨセフは父である自分の名前か親戚のだれかの名前を長男に付けるはずでしたが(洗礼者ヨハネの場合を参照、ルカ1:57-66)、彼はそうはしませんでした。名前は既に決まっていました。両親は天使から命じられたとおりに「イエス」という名前を付けたのでした。この時はまだベツレヘムにいたことでしょうから、親兄弟や親戚なども身近にいなくて、ヨセフとマリアの相談と決心だけで決めることができたことだと思われます。

(5)ユダヤ教を柱とするヘブライ文化では、人の名前にも意味が込められていました。徴税人だったザーカイの場合、ザーカイという名前には正しいとか良いという意味がありましたから日本風に言えば正とか義夫というところでしょうか。ペトロという名前をイエスさまからもらったシモンですが、ペトロという名はペトラ・岩から取られていますから、日本語なら巌雄とでもいうところでしょうか。

 イエスはヨシュア、イエホシューア、ヤーウェ主は救うという意味がありました。その名前を真の父である神さまが選び定め、天使をとおしてヨセフとマリアに伝えたのでした。彼らはお告げのとおりに、この赤ん坊に躊躇わずに「イエス」と名付けたのです。「主は救いたもう」「神は救ってくださる」という意味の名前を付けたのです。

     2.

(1)誰がこの赤ちゃんに「イエス」と名付けるように決めたのでしょうか。直接的にはヨセフですが、先ほど申し上げたとおり、もともとこの子に「イエス」と名付けるように決められたのはヨセフではなく、父なる神さまです。それは神さまの人類への救いのご計画のゆえです。私たちが「イエス」、つまり「神は救いたもう」「神は救いである」とお呼びするたびに、実は、救い主をこの世に送ってくださった神さまのご計画を思い、神に感謝し、神を賛美することになるのです。たとえそれが無意識のうちにであっても、そうしているのです。

(2)天使のお告げ通りに「イエス」と名付けたヨセフとマリアは、一日に何回も何十回もその名を呼んだことでしょう。それは私たちに子どもがいたら、「誰ちゃん、おはよう。起きなさい」とか「誰ちゃん、さあご飯をいただきましょう」とか「誰ちゃん、学校に行く時間ですよ。行ってらっしゃい」とか、一日の最後には「誰ちゃん、おやすみなさい」とか、日常生活の中でそうするように、ヨセフとマリアも我が子イエスにごくごく当たり前のように「イエスちゃん、イエスちゃん」、成長してきたら「イエスよ、イエス」と呼んだことでしょう。それは不思議でも何でもありません。

(3)ですから、赤ん坊の時からイエスちゃん、イエスちゃんと呼ばれ、長じてイエスよ、イエスよと呼ばれるたびに、少しずつ少しずつ、イエスさまは、自分はイエスなのだとの自覚が深まっていき、さらに自分は何者なのか、自分のアイデンティティとは何かを子供心に意識し、確認し、自分の人生の使命は何か、どのように生きるべきかとの自覚を深めていかれたに違いありません。

(4)しかし、両親は、普段は何気なく呼んでいても、ときどきハッとあのお告げの夜のことを思い出さなかったでしょうか。フッと自分たちに託されているこの子の将来に思いを馳せなかったでしょうか。もしも外見を見ただけならば、この子はまったく普通の赤ちゃんあるいは普通の子どもです。成長するに伴って会堂(シナゴーグ)で読み書きを学び、聖書を暗唱したりしながら宗教を含めた社会生活に必要な、あるいは人間として必要な知識を身につけていきます。安息日には親と一緒に礼拝をしました。またヨセフの手伝いをしながら段々と大工の仕事を習い覚え、一人前の職人に近づいていきます。その有り様は、まさに普通の少年であり普通の青年でした。神の子が普通の赤ちゃんになって、普通の幼児、普通の子ども、少年、青年になったのは、それが神さまの御心だったからです。

 ヨハネ福音書の表現を借りれば、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。言、つまり神の子キリストは肉となった、正真正銘の、生身の人間となったのです。使徒信条で信仰告白しているように「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」たのです。私たちと少しも変わらず、食べ、学び、働き、寝るのです。喜ぶべきことを喜び、悲しむべきことを悲しみ、楽しむべきことを楽しみ、痛みや苦しみも悲しみも味わわれたのです。人を愛し、愛されたのです。それはなぜでしょうか。

(5)ヘブライ人への手紙の著者はその信仰によって「偉大な大祭司、神の子イエス」(ヘブ4:14)のことを次のように記しています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのための供え物を献げねばなりません」(5:2-3)と。

(6)ヘブライ人への手紙の著者がこのようにイエスさまのことを「偉大な大祭司」とか「神の子」と呼べたのは、キリスト教信仰のゆえです。この手紙が書かれたのは、ゴルゴダの丘の上での十字架の悲劇と三日目の復活という喜びの出来事が起こって半世紀以上経ってからのことですから、福音宣教の結果、教会は広まり、このような信仰、主イエスはまことの神でありまことの人であるという信仰を多くの人々が抱くに至ったのです。

(7)ですけれども、ヨセフとマリアがイエスさまを育てている間は、彼らの周囲にはそのような理解、そのような信仰を持っている人は、彼ら夫婦以外はだれもいませんでした。天使のお告げによってベツレヘムの馬小屋に駆けつけた羊飼いたちとは、ナザレに戻ったあとは二度と会うことはなかったでしょうし、東方から宝物を献げるためにやってきた博士たちは千キロ以上離れた祖国に帰ってしまいましたから、これまた一期一会だったことでしょう。

 つまり、ヨセフとマリアにとっては、どこからどう見ても普通の子であるイエスさまの真実の姿、神の子、インマヌエル、この世の民全体のための救い主であることを語り合ったり、共に信じ励まし合ったりする仲間も親戚もどこにもいなかったのです。

 では、そうならば、いったいどうやって彼らは誕生前に天使から託された務めを果たすことができたのでしょうか。

     3.

(1)マリアとヨセフへの天使ガブリエルのお告げは一度きりでした。その場面がスマホに録画されていたわけではありませんでした。彼ら以外の目撃証人がいたわけでもありません。ヨセフと天使、マリアと天使の二人きりの対面でした。何の証拠もないのです。ただひとつだけあるといえば、洗礼者ヨハネを身ごもっていたマリアの遠縁に当たるエリサベトをマリアが訪問したときに胎内の子が踊り、その時エリサベトがマリアを「主のお母さま」と言って祝福してくれたことだけでしょう(ルカ1:39-45)。

(2)そうであるならば、マリアとヨセフが普通の子どもイエスを普通に育てていたとき、しかもその子が神の子であることの、あるいは将来は救い主になることの片鱗さえも見せなかったにもかかわらず、神の子であるとただ黙々と信じることができ、将来は救い主になることを少しも疑わずじっと待っていることができたのは、なぜでしょうか。その子が天才、神童の誉れ高く、誰が見ても間違いなく神の子であることが明らかならば、誰の目にもこの子は絶対将来は救い主になることが確実ならば、ヨセフもマリアも何の苦労もしなかったでしょう。待つことに耐えることができたでしょう。しかし、その子はどう見てもそうは見えないのです。

(3)そういう状況は、なにもヨセフとマリアに限ったことではありません。イエスさまが成長した後も、普通の人であることが同時代の人々にとっての躓きでした。神の子、救い主として受け容れることを妨げる決定的な躓きでした。ナザレの会堂で聖書の言葉を説き明したときそこにいた人々は言いました。「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)。十字架につけられたときに、群衆たちはこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イエラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』といっていたのだから」(マタ27:42-43)。誰ひとり本気でイエスを神の子だとは信じなかったのです。

(4)もしも信仰を持っていないなら、あるいは一度信仰を持ったことはあっても何かの拍子で揺らぐことがあったなら、どうしたらいいでしょうか。イエスはただの人にしか見えないときに、どうしたらいいのでしょうか。私たちだって似たような者です。

(5)解決の手掛かりはひとつだけあると思われます。それはヨセフとマリアとが経験したことです。しかも10年、20年、30年もの間、つまり赤ん坊の時から十字架までの間、彼らが頼ってきた一事です。それは、我が子の「名前」でした。イエス、それは「主は救いたもう」という意味でした。その名を呼ぶたびに、この子をとおして神さまはこの世を救おうとしていらっしゃるということを思い起こさせられるのです。この名前は神さまの御心、神さまのご計画、お約束を表しているのです。ですから、その名を呼ぶたびに神さまへの信頼と信仰とを呼び覚まされるのです。たとえ人間的には不可能に見えても、見えない神さまは救いたもう、そのことを信じるように導かれるのです。

 普通にしか見えない我が子をこの名前で呼ぶとき、この子の本質は「主は救いたもう」という神の約束を実現する存在であることを思い出させられるのです。見た目とは関係なしに、この子のアイデンティティは神の言葉を語る者、神の愛を実行する者、神の赦しを成就する者であることだということを再認識させられるのです。この子の見えない本質は見えない神の言葉にかかっているのです。

     4.

(1)私たちは人間ですから、人間として備えられている、考えたり愛したりする能力、見たり聞いたり触ったりする感覚、それらを総合する人間力というか心、精神によって、他人のことも自分のことも判断します。それは大切なことです。責任あるやり方です。それを等閑にしてはいけません。

(2)しかし、それだけに頼ってはいけないのです。わたしたちの人格、本質、アイデンティティはわたしたちが自分で作り上げたり捻り出したりできるものではありません。わたしたちがどう生きるべきか、どのような使命を持っているのかはわたしたちの主なる神さまがお定めになっているのです。イエスさまに「イエス」という名前を付けられたときには神さまの御心、ご計画、お約束がすでにあったのです。だから「イエス」と名付けられたのです。

 わたしたちはその名前によって、見かけはどれほど普通であろうと、実はこの子が神の子であり、救い主であることを知らされ、だからそう信じるのです。ヨセフもマリアもそうしたのです。「イエスちゃん」「イエスよ」と呼びかけることで、神さまが定められたその子の本質を確認したのです。その名前を付けるように命じられた方の御心、ご計画、お約束を改めて覚えたのです。さらには、「イエスちゃん」「イエスよ」と呼ぶたびに、この子との関係で自分たちはどのような役割を演じることを託されているのか、どのように生きるかを期待されているのかを考え直したのです。

(3)これはヨセフやマリアだけに限ったことではありません。私たちにとってもまったく同じことです。あのイエスさまは紛れもなく人間です。そうとしか見えないのです。しかし、実は同時に神の子であり、救い主なのです。そうであるということは私たちが決めたことではありません。神さまがそう決められ、そうなさったのです。

 あの方に「イエスさま」と呼びかけるときに、その方がほんとうはどなたなのか、私にとって、世界にとってどなたであるのかを知らされるのです。あの方が「イエス」であると信じるときに、あの方からの語りかけが心に届いてくるのです。あの方の心が伝わってくるのです。あの方のいのちがわたしの中に生き始めるのです。あの方への愛と信頼が増し加わり、あの方に従っていく生き方へと押し出されていくのです。

 新しい年が始まりました。個人的にもあれこれの重荷があります。ツインデミックなどと称される社会的な問題もあります。世界には依然として残虐な戦争が続いており、被害者は増えるばかりです。地球環境の破壊が現実味を帯びてきています。そういう中で、そういう中だからこそ、「イエス」という名前を持つ方に思いを馳せましょう。「イエス」という名前を付けさせた神さまの御心、ご計画、お約束に目を向け、耳を傾けましょう。「イエス」という名前を持つ方との関わりで、この私は、私たちはこの一年どう生きるのかを静かに考え、その方のお導きを祈り求めましょう。「イエス」という方は必ず祈りに応えてくださいます。私たちが祈り求める前に、私への答として地上に、この世界に来てくださったのですから。アーメン

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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