2023年8月13日日曜日

礼拝メッセージ「神の子と気づく」

 2023年08月13日(日)聖霊降臨後第11主日

列王記上:19章9〜18 

ローマの信徒への手紙:10章5〜15 

マタイによる福音書:14章22〜33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の第1朗読の記事ですが、10節に背景が語られています。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 これは、預言者エリヤは殺されかけて、逃げてきたということですね。彼は、神の山ホレブに来て、もう、あとは死ぬしかないというギリギリのところだったのですが、主はエリヤに、要するに、「逃げ隠れするな! 出てきて主の前に立て」と言うわけです。(王上19:11)。

 そのときに、11節「非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた」。まさに激しい竜巻や台風のような暴風を思います。怖いですね。さらに「風の後のちに地震が起こった」。地震の怖さは私たちには言うに及ばずです。12節、「地震の後に火が起こった」。山野を焼き尽くす火事これも怖いです。しかし、この「風」だろうが、「地震」だろうが、「火」だろうが、そういう自然災害の中に「主はおられなかった」というわけです。 (王上19:11-12) 。

 さて命からがら逃げて洞窟に隠れていたエリヤに主が声をかけて、「出てきて、わたしの前に立て」と言うので、エリヤは主の前に立とうとしますが、そのとき、「大風」「地震」「火」とものすごく恐ろしい、怖い目に遭う・・・。

 これは、私たちが逃れられない現実ですけれども、そのとても怖い現実を前に、「しかし、そこに主はおられなかった」と言うのです。けれども、その後で、12節「静かにささやく声が聞こえた」とエリヤは告げます。心の奥底に響くかすかな声、それが、主なんです。

 恐れの中に、主はいない。恐れているときは、主に会えない。そういう経験は、きっと皆さんにもあることでしょう。 もう、怖くて、震え上がったとき、叫んでいるとき、そこに主はおられない。しかし、心に静かにささやく声、その「恐れではなく、静かにささやく声」、これが、信仰によって聞く声です。・・・どんな状況であっても、主が語りかけてくださる。ここに、主がおられる。「だいじょうぶだ。信じて待っていよう」と。

 この静かにささやくように聞こえてくる声。それが今日の福音書が告げる、「安心しなさい。わたしだ。恐れるな」 (マタイ14:27) という主イエスの声と繋がっています。

 福音書に入ります。今日のエピソードの前(マタイ14:14-21)には、主イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人の飢えを満たしたという話が伝えられていて、それに続くもう一つの不思議な出来事が今日の箇所です。弟子たちはこのような体験をとおして、次第に主イエスを特別な方、神からの力に満ち溢れた方だと気づくようになっていきます。

 本当に主イエスは湖の上を歩いたのでしょうか。聖書に書いてあるとおりだという人達があります。いや、信じられないという人もあります。事実はどうだったのかと議論しても平行線で、そういう議論に実りはなさそうです。

 この話はマルコ、マタイ、ルカに共通する主が「嵐を静める」出来事(マタイ8:23-27)とも似ている面があります。これらの話は誰かが頭の中で考え出した空想物語、フィクションということではなく、弟子たちがガリラヤ湖で何かしらの不思議な体験をして、それが伝えられていくうちに今の福音書のような物語になったと考えられます。

 さて、彼らが向かった「向こう岸」は、34節によれば「ゲネサレトという土地」です。異邦人の土地ではありませんが、見知らぬ土地のイメージなのでしょう。

 ある人はこの出来事についてこう考えました。「弟子たちはイエスを残してガリラヤ湖に船出した。自分たちだけで見知らぬ土地に行く不安がある。案の定、逆風にあい、いつの間にか舟は岸に押し戻されていた。イエスは近くの岸辺を歩いてきたが、弟子たちは自分たちが湖の真ん中にいると思い込んでいたので、イエスが湖の上を歩いているのだと思った。」

 こういう想像は現実味を感じるかもしれませんが、何の根拠もありません。大切なのは実際の出来事そのものがどうであったのかということよりも、弟子たちにとってそれがどういう体験だったのか、ということだからです。

 この体験は弟子たちが主イエスは特別な方であると気づく体験だったと言えます。また、22節に「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とありますから、この体験は主イエスがご自分の特別さに気づかせようと意図なさったものだとも言えます。ですからマタイではこの物語を「本当に、あなたは神の子です」という信仰告白で結んでいます。

 この物語の中で大切にしたいのは「恐れと疑いから信頼へ」というイメージです。「信仰」と言うと「神の存在を信じる」ことだと考えがちですが、福音書の中で問題になっているのは、「神が存在するか否か」というようなことではありません。問題は「神に信頼を置くかどうか」です。「疑い」とは神に信頼しないこと。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき、私たちは「恐れ」に陥るのではないでしょうか。

 聖書の中には、主イエスご自身が語られた言葉が、いくつも残されています。弟子たちはそれを何度も聞いて心に留めたことでしょう。心に留めたものを主イエスの語り口を思い出しては繰り返し、繰り返しみんなにも語ったでしょう。ですから、かなり正確に、主イエスご自身がそれを語られたときのニュアンスがちゃんと残っている、そういう言葉がいくつもあります。

 今しがたお読みした箇所ですが、私は牧師として、その言葉を本当に必要としている方に向かって、今ここで、主イエスが語っている言葉として朗読しました。お聞きになったとおりです。マタイ14章27節「安心しなさい」「わたしだ」「恐れることはない」。

 私は、電話をいただいたり、相談に来られた方に、「大丈夫です」とお話しすることがよくあります。そのときは必ず、主イエスが「安心しなさい」とそう呼びかけているという、その事実によって、主イエスのお言葉どおり、そうお伝えしています。

 猛り狂う嵐の中、この時、主イエスは恐怖のどん底にいる弟子に向かって「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけます。「わたしだ」と訳された言葉は「幽霊などではない、わたしだ」と言っているように聞こえるかもしれません。

 この「わたしだ」は、ギリシア語では「エゴー・エイミego eimi」で、英語で言えば「I am」という言い方です。この「エゴー・エイミ」は「わたしがいる」とも訳せます。「わたしがいる」は、「わたしはあなたとともにいる」という意味でもあります。「安心しなさい。わたしがともにいる。だから、恐れることはない」。主イエスは今もさまざまな恐れに囚われている私たち一人一人にそう呼びかけているのではないでしょうか。

 また、この「エゴー・エイミ」は、旧約聖書、出エジプト記3章14節では神がご自身を表すときに用いられた表現として「わたしはある」と訳されています。ですから、その意味でもこの「わたしだ」は、主イエスが神としての威厳と力を持っていることを宣言していると受け取ることもできます。

 28-31節のペトロの箇所はマタイだけが伝えているものです。このような物語は、主イエスの地上での活動中にガリラヤ湖で起こった出来事というよりも、むしろ、復活して今も生きている主イエスと弟子との出会い、そして主キリストを信じて歩もうとする私たち全ての歩みを表していると考えたらよいのではないでしょうか。

 私たちもペトロのように水の上を(あるいは、水の上でなくても主イエスに従う道を)歩みたいと願っています。しかし「強い風」(さまざまな困難)のために「怖くなり」、「主よ、助けてください」と叫びたくなることがあります。主イエスはそんな弟子に対して、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださるというのです。そのような主イエスの助けを私たちも感じることがあるのではないでしょうか。私など、主に叫んでは、助けていただいてばかりです。

 また、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉も、「もっと大きな信頼を持つように」という温かな励ましとして受け取ることができます。

 私たちは福音書を読むときに、2000年前の出来事として読むだけでなく、今のわたしたちと父なる神、あるいは、復活して今も生きている主イエス・キリストとの出会いの物語として読んで、恵みを受けてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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