2023年8月8日火曜日

「『戦争は心の中で』か」  江藤直純牧師

 平和の主日      2023年8月6日 小田原教会

ミカ4:1-5; 詩編85; エフェソ2:13-18; ヨハネ15:9-12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 8月6日、9日、そして15日を平和を心に刻むための特別の日として覚えることは日本人なら誰もが理解していることです。それに上皇陛下が忘れてはいけないとおっしゃったのが6月23日です。甚大な犠牲者を出して沖縄での戦闘が終結した日です。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定め、沖縄全戦没者追悼式を催します。8月6日が広島市民だけの記念日ではないように、9日が長崎市民だけの記念日ではないように、6月23日も沖縄の人だけの記念日であっていいはずはありません。

それぞれの国、それぞれの民族は、その歴史との関わりで、過去に戦争が起きたこと、起こしたことを痛切に反省しその犠牲者を深く悼み、心から平和を祈る日を持ちます。日本のルーテル教会も8月の第1日曜を平和の主日と定めて、礼拝を守ります。今日がその日です。今年は広島原爆投下の日と重なりました。

 聖書には随所に平和という言葉が出て来ます。今日の日課の詩編85編には「わたしは主が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます」(85:9)とあります。使徒書の日課のエフェソ書には「実に、キリストはわたしたちの平和であります」「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました」(2:14, 17)と記されています。福音書には有名な山上の説教があり、その中で「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と主イエスは声高らかに謳われています。

 平和は誰もが願い求めます。ですから、当然、平和の主張に反対する人などいません。そうなると、平和の主張をすることは、言うならば、むずかしいことではないことになります。耳障りのいい、聞き心地のいいメッセージということになります。でも、平和のメッセージとはそれほどに安易に語ることができ、安易に聞くことができるものなのでしょうか。

2.

 今生きている日本人のうち78歳以下の人、つまり国民の内の圧倒的多数は戦争をじかに経験していません。つまり、戦争などないのが当たり前の世界に生まれ生きてきました。しかし、明治維新以来終戦までの78年間は、明治10年の西南戦争で内戦は終わりましたが、対外的には戦争の連続でした。朝鮮と台湾は戦争らしい戦争をしなくて植民地化しましたが、その後は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、そして昭和に入ってからの日中戦争、太平洋戦争と半世紀の間に戦争に次ぐ戦争を行い、ついには全国の主だった都市は空襲に遭い、沖縄では住民の4分の1が死亡するほどの攻撃に晒され、広島と長崎には史上初の原子爆弾が投下され、国の内外で兵士と市民に数え切れない程の犠牲者を出し、ついに無条件全面降伏に追い込まれます。現在のロシアによるウクライナ侵略戦争の自己防衛という名目の領土拡大という戦争目的、無辜の市民と民間施設への残虐で悲惨な攻撃、そして最新兵器を駆使しての両国の激烈な戦闘を毎日報道で知らされると、我が身を振り返って、ロシアばかりを批判非難できない気持ちになります。

 それにしても、500日以上続いていて、途方もなく甚大な人命が奪われ、穏やかな市民の生活とその生活基盤、豊かな農業や発達した産業、美しい自然環境が破壊されることがいつ終わるのか見通しがまるで立たないロシア・ウクライナ戦争です。第二次世界大戦後世界の各地でたくさんの戦争が繰り返されてきました。朝鮮戦争もベトナム戦争も湾岸戦争もありましたが、このウクライナでの戦争ほど規模も大きく、身近に感じる戦争はありませんでした。

 第一次世界大戦そして第二次世界大戦という20世紀前半に起こった史上例を見ない世界中を巻き込んだ二度の大戦への深刻な反省から、何とかして紛争を抑止し、何としても戦争を回避するために作られたのが全世界の国々が加盟する国際連合でした。その他にももろもろの国際機関が創設され、国際法が定められ、いくつもの地域連合もでき、また軍事同盟も締結されています。

 国連は政治や経済や軍事の仕組みを作ることで、また社会的な発展を促し貧困から抜けだし人権が重んじられる努力を積み重ねることで戦争の原因を取り除くことに全力を挙げてきました。それは極めて大事なことで、どうしても必要なことです。

 しかしながら、それでもロシア・ウクライナ戦争は回避できませんでした。停戦の仲介をする見通しさえも立っていません。そうであるならば、地上から戦争をなくすことは不可能だということでしょうか。いつの日か第三次世界大戦も起こりうるのでしょうか。これが人類の歴史のどうしようもなく悲しい現実なのでしょうか。

 国連を構成している200あまりの国々だけではなく、数多くのNGO非政府組織もまた戦争を防ぐためにさまざまな努力をしています。ICAN(アイキャン)と呼ばれる核兵器廃絶国際キャンペーンという団体は各国政府に働きかけ、ついに2017年に国連の会議で「核兵器禁止条約」が採択され、それから3年経った2020年には発効の要件である50ヶ国が批准したので条約は発効したのです。実に画期的なことです。しかし、核兵器保有国がどこも批准していないので、この条約の実際的な効果は今のところは出ていません。唯一の被爆国と称する日本も批准していません。これが現実です。

3.

 国連がやったことは、世界から戦争の恐怖を取り除くために政治、経済、軍事の仕組みを作ることだけではありませんでした。1945年11月16日に憲章が採択され、その1年後に創設されたのがUNESCO国際連合教育科学文化機関です。今朝このUNESCOについて触れるのは、そのUNESCO憲章の前文に、私の心を打ち、みなさんと是非とも分かち合いたいところの至高の名文がそこには書いてあるからです。

 この憲章の当事国政府は、その国民に代わって次のとおり宣言する。

 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

 このような書き出しで憲章の前文は始まっているのです。「戦争は人の心の中で生まれる」、そうだから「人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と言っているのです。さらにこう続けます。

 相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにしばしば戦争となった。

 UNESCO憲章の前文はこう述べて、自分以外の他の民族、他の国民の文化、生活、宗教を含めた精神についての無知と偏見から相手への疑惑と不信が生じ、不平等を肯定する価値観となり、そこからやがては戦争になるというのです。終わったばかりの第二次世界大戦の根本的な原因はそこにあったのだから、UNESCOとその加盟国とは文化の普及と正義と自由と平和のための教育を通して相互への関心と相互に援助する思いを養わなければならないと訴えます。それらから導き出される結論はこうです。

 政府の政治的及び経済的取り組みに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。

 なんとかして政治的、経済的、軍事的な取り組みをすることで戦争を防ぎ平和を守ろうと国連も各国政府も必死の努力をしているのに、その同じ国連と各国政府自身がこの憲章の中で、政治的および経済的な取り組みをすることだけでは永続する平和は守れないと認めているのです。私たちはついつい個人的に心の中で平和を願うだけでは戦争という巨大な悪は止められない、地政学的、歴史的な要因をよくよく考慮した上での政治的経済的軍事的な取り組みこそが戦争を防ぐことができるのだと思いがちです。しかし、UNESCO憲章はそうではないと言っているのです。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とはっきりと宣言しているのです。

4.

 それでは、「人の心の中に平和のとりでを築く」とは一体どういうことでしょうか。UNESCOは他民族、他国民の風習と生活、宗教を含めた文化を知る必要がある、だから教育が必要だと訴えます。まったくその通りだと思います。しかし、その学びの中で相手側は自分たちとは異なる生活と文化を持っていると知っただけでは、真の相互理解も平和も生まれないのです。

 第二次世界大戦のさなかに600万人のユダヤ人がナチス・ドイツによって強制収容所で殺されたと言われています。ナチスはユダヤ人のことを知らなかったのか、そうとも言えません。大雑把に言えば、違いを知った上でユダヤ民族は劣っており、自分たちアーリア民族は優秀だ、だからユダヤ人は抹殺されるべきだと、余りに極端ですが、そう結論づけたのです。違いがあるから優劣をつけるのではなく、違いを違いとしてそのまま受け容れ合う、認め合う、尊重し合う、これがなければ差別と偏見、支配と隷属の関係が生まれてしまうのです。挙げ句の果てに殺戮や戦争に至るのです。事実そうなったのです。

 現在のロシアも歴史の一時期ロシア領であったウクライナをロシアと一体であると主張し、再びロシアの支配下に入ることを要求しています。ウクライナとの違いを認め、受け容れ、尊重していないから、あの国では戦争が正当化されています。

 よくユダヤ教にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ一神教というものは、自分たちが信じる神さまのみが真の神さまだとし、それ以外の神を拝むのは偶像崇拝だとして貶む傾向がある。一神教の排他性こそが争いの元凶だと言って批判することがよくあります。

 それは自分或いは自分の国や民族と自分たちが信じる神さまとの関係に致命的な誤りがあるから、そういった排他的な、不寛容な、他者を虐げ滅ぼしても構わないといった見方が出て来てしまうのです。自分の神を自分の後ろ側に位置付けると、自分はその神さまを後ろ盾とし、自分の背後に立っているその神さまのご威光によって自分を聖化し栄光化し、他者を差別することも支配することも抹殺することも正当化してしまうのです。まるで自分と神とを同一化するようです。そうすることで自分を絶対化してしまうのです。そこから排他性も不寛容も差別と偏見もおのずと生まれてくるのです。

5.

 しかし、もしも自分を神さまに向かい合うように位置付けると、話しはガラリと変わります。一人の神の前に自分も立つしそれ以外の民も立っているのです。或いは自分もそのお方の前に跪くし、他の人々も同じく跪くのです。なぜなら、自分たちも他の民族も等しく神に創造され、生かされ、愛されている存在だからです。ミカ書には「終わりの日に・・もろもろの民は大河のようにそこに(つまり主の神殿の山に)向かい、多くの国々が来て言う。主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう、と」(4:1-2)。諸民族は歴史のゴールに向かって、違いを抱えたままで、等しく、並んで歩いていると言うのです。どの民族は滅ぼされて良く、どの国は貶まれて良いなどとの差別は一切ないのです。もちろん、人間はさまざまな過ちや罪を犯しますから、これまた等しく裁かれ戒められ、変化することを求められます。同じくミカ書にはこう記されています。「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる」。その結果、何が起こるかといえば、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(4:3)のです。争いは止めて和解し、戦いは止めて共に働き共に生活するようになるのです。

 文化も違い宗教も違うもろもろの国々も諸民族も、一人の神の前には等しく創造され、愛され、戒められ、導かれて造り替えられる存在なのです。争い滅ぼし合う者同士ではなく、理解し合い、受け容れ合い、助け合って存在するものだと、つまり平和のうちに共存するものだと知るのです。人間が傲慢にならず、憎み争わないようになるためには、差別も偏見もなくすためには、人間を超えたお方の存在を信じることが必須なのです。

 マタイ福音書には「父は(つまり神さまは)悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45)とのイエスさまの言葉が記されています。使徒パウロも「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(ロマ10:12)と言っています。

 それでもなお敵意や憎しみが私たちの間には根深く残ります。自分ではどうしようもできない心の汚れがあります。両者はずっと隔たっています。そういう現実を私たちは生きています。それをどうしたらよいのか。使徒パウロはエフェソ書で声高らかに「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります」(2:13-14)と言い切っています。「心の中のこと」だと言っても、だから自分で心の中を自由自在に扱えるわけではないことは私たちもみな経験上知っていることです。パウロでさえも内在する罪に苦しんで、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ロマ7:15)と嘆いているほどです。

 だからこそ、キリストの執り成しが必要であり、和解のための十字架という仲介が必要なのです。いえ、ただ必要なだけではなく、現にそれが無償で差し出されているのです。エフェソ書でパウロはもう一度明瞭に断言しています。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました(2:17)。

 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」というUNESCO憲章の前文の冒頭の言葉を改めて噛み締めます。そして、その平和のとりでを築くための真の土台として、何よりもまず神が与えてくださる平和、キリストの平和を感謝して受け取りましょう。そうして初めて私たちは平和のための祈りが、平和創造のための働きができるようになるのです。そうさせていただきましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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