2021年7月11日日曜日

清重尚弘牧師「いま聞こう 正義の言葉を」

2021年7月11日  ルーテル湯河原教会    

マルコ6章14節〜29節

 今日の福音書の小見出しは。「洗礼者ヨハネ、殺される」とあります。まるで週刊誌の見出しのようなホラーじみたものです。中を読むと、さらに驚きます。ヨハネは獄中にあり、いきなり引き出されて、裁判もなく首をはねられ、盆に載せた彼の生首が宴会の席に居並ぶゲストたちの前に見せ物にされたと言うのです。なんという残虐、無法。しかし、このようなひどい事件は歴史上繰り返されました。今でも、世界を広く見渡すと、このような理不尽は横行していないと言えますでしょうか? 暴虐、暴力、虚偽、腐敗した権力濫用。人間の歴史は、罪から離れられません。今日の我が国でも、腐敗した権力の仕業がいま跋扈しています。殺人、暴力、不当政治力などなど。

 今こそ私どもが聴くべき「正義」のメッセージがこのヨハネの存在にあります。

 洗礼者ヨハネは、何者でしょうか? 

 来たるべきメシアに道を備える者と預言されていた人物、荒野に住んだ預言者エリヤの風貌の人、厳しい裁きを語った説教者、悔い改めの洗礼を授けた人、王権に対抗した革命家、殉教者、イエスに洗礼を授けた人、「みよ神の子羊」とイエスを指し示した人。

 このように特異、多彩な人物、ヨハネが発するメッセージは一体何なのでしょうか? 

 本日の旧約の日課を見ると、預言者アモスが王家が派遣した祭司アマツヤから追放を告げられて、対決している場面です。国家社会の正義、王権のあり方をめぐる対決なのです。このように、ヨハネも、ヘロデ王を正面から糾弾して、王に捉えられて今、獄中にありました。預言者アモスに重なる人物です。ヨハネは反王権の正義の戦いの途上で王の妻の恨みで、殺されてしまいます。ひどい事件です。ヘロデ王始めここに登場する人物は、この事件をどう見て振る舞っているのでしょう?ヘロデは、一方でヨハネの批判を受け入れず、投獄、しかし他方でヨハネを尊敬し、話を聞こうとしていた、とのこと。妻ヘロデイアはただ憎しみだけ。犯罪の元凶はこの妻です。娘(伝説ではサロメ)はただのロボット。客人たち、高官、将軍たちは責務を果たさず、王に忠告・助言することなく見物するだけ。王権を恐れて沈黙。一般の人々は、事件を知るべくもない。ヨハネの弟子たちは、遺体を引き取り、葬るのでした。このようにみてくると、この構造は、日常聞かされてる諸々の忌まわしい事件ととても似通っているように感じませんでしょうか?巷の事件から、国政レベルのスキャンダルに至るまで。人ごととは言えませんね。

 子供の頃は、ウソとズルは嫌われたものでした。昨今は、どうでしょう?平気でウソつくひと、隠す人。「僕も入れて」とお友達になる人々。一体どうすればこのような社会に正義を取り戻すことができるのでしょうか?

 本日のみことばは告げています。ヨハネに聴け!この正義の人を見よ!

ヨハネは、神の厳しい裁きを告げました。「悔い改め」を求めました。悔い改めの印の「洗礼」を授けたのです。

 悔い改めとは? returnです。ヘブル語のシューブ、「立ち帰ること」です。神によって我々は、神に向かって生き、神を向いて歩むものとして創造されました。なのに、我々は神から離れて、あらぬ方向へ歩んで来てしまいました。これが罪(ハーター:的外れ)です。そこからあらゆる不正義が生じたのでした。これが聖書の一貫したメッセージです。

ヨハネは「悔いあらため」を求めた預言者でした。悔い改めよ:return!  帰れ!

 主イエスが語った「神の国」のたとえは、迷い出た子羊が帰ること、家を出た放蕩息子の帰還、失われたコインが見つかること、みんな、あるべき元のところへ帰る、これこそ神の国へのreturnメタノイア、シューブです。

「悔い改め」については、ルターから大切なことを教えられています。ルターは「福音信仰を再発見した」といわれます。それを明確に公にしたのが「95箇条の提題」、「主が悔い改めよと仰せになるのは、日毎に悔い改めよとの意味である」と始まっています。リターンせよ!元に帰れ!そこに「福音」がある。ということですね。義である神は、元へ帰れ、と招いてくださるのです。悔い改めよ、とのヨハネのメッセージこそ、またルターの改革の真髄も、義の回復、神の元への帰還、を促す呼びかけです。その意味でこそ、ヨハネの出現、預言者的なメッセージは、まさにマルコ福音書の書き出しにある通り「福音のはじめ」なのであります。

 ヨハネの王権との戦いはヨハネが革命家だったからではないし、豪胆な強い性格だから出来たというわけではありません。彼はただひたすら誠の天地の王なる神への信仰ゆえに、それを否定する存在や力、王であろうと、人の心の中の罪の力であろうと、それと戦わざるを得なかったのでありました。私たちの戦いでもあります。ルターがウオルムス国会の審判で、教会の権力に抗して信ずるところに立ちえたのは、彼の闘志や体力によるのではありません。「私の良心はただ神の言葉にのみ縛られてるのだ」という理由からでありました。

 神のもとへと帰還することによってのみ、私たちの間に、正義の世界が実現し得るのであります。今こそ、私たちは静まって、ヨハネの告げる「正義の声」を受けとめましょう。

私たち主を信じるキリストの体である教会は、「地の塩」としての存在であり続けるよう求められているのであります。「主よ、來たり給え」と祈りつつ神の国を待ち望もうではありませんか。

0 件のコメント: