2024年6月2日日曜日

誰への愛か 江藤直純牧師

 2024年6月2日  聖霊降臨後第2主日 小田原教会

申命記 5:12-15;

コリントの信徒への手紙二 4:5-12

マルコによる福音書 2:23-3:6

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 この人の言うとおりにしたい、この人が願うとおりの人間でありたい――私たちがそう思うときはどんなときでしょうか。どういう方と出会ったときでしょうか。それは、その方のことが心底好きで、愛しているとき、あるいは心から尊び敬まっているとき、揺るぎない信頼を抱いているとき、またその方に従って行くこと、その方に仕えることこそが喜びであり生き甲斐であると感じるとき・・。そういう方と出会い、向き合い、その方の思いに適った生き方をしたいと思えるならば本当に幸いなことです。深く愛する人、尊敬してやまない人、とことん信頼する人、ももちろんそうですが、最も強くそう思えるお方は神さまですね。私を愛し、命を与え、贖い取ってくださった神さまですから、その御心というものに適うようにして日々を過ごしたい、生涯を全うしたいと思います。

 では、その神さまの御心というものはいったいどうやって知ることができるのでしょうか。イスラエルの人々はそれを最初はモーセに与えられた十戒を通して、のちにそれと共にさまざまな律法を通して神の御心を知らされていったのでした。今朝の旧約の日課は申命記5章の12節からですが、1節から5節を読むと、十戒が与えられたときの状況がよく分かります。こう記されています。

 「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。主は、山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである」(申命5:1-5)。

 この出だしに続いて、6節以下で今に至るまで連綿と語り継がれてきた十戒をモーセは宣べ伝えるのです。十戒の1つが安息日を守ることでした。

2.

 ホレブの山で主なる神は先ず我々の先祖と、そして今生きている我々全部の者たちと「契約」を結ばれたとモーセは語ります。十戒を契約と表現しているのです。命令とは言っていません。私たちは日常生活の中で、あるいはもろもろの政治や外交、また経済活動や社会活動の中で、契約を結びます。結婚も愛し合う2人の間で取り交わす、人の一生を左右する重大な契約です。国と国との間では平和条約とか通商条約とかいろいろな条約を取り交わします。企業と企業の間でもそうです。それらは、建前としては、対等な者同士の間で交わす重い約束です。そうでない場合は例えば国と国の間では不平等条約と呼ばれて何とかして対等、平等な関係の条約に改定しようと必死になります。大企業と中小企業の間であっても中小企業が不利益を蒙ることのないようにしなければなりません。

 そういう私たちの経験から、契約というと対等な者同士が結ぶものだという観念が頭にこびりついています。両者は対等でなければならないと。しかし、神と神の民との間の契約は果たしてそうでしょうか。十戒の場合が典型的にそうですが、人間の側が求めて契約に至ったのではありませんでした。神の側が、ある意味一方的にお与えになったものでした。人間の側はただ受け身一方のように見えます。それでも対等と言えるでしょうか。

 しかし、実は人間にも主体性も積極性も自由も出る幕はあるのです。人間は自ら進んで「はい、あなたの御心を受け入れます。喜んで実行します」と誓うことができます。いえ、それだけではなく、「いいえ、わたし(たち)は、あなたの御心を受け入れません」と拒否することもできるのです。そういう意味では、神と神の民との間の契約は対等とも言えるでしょう。神は契約を守ることを望み、求めておられますが、だからと言って、力尽くでご自分の意思を守るように人間に強制なさることはないのです。そういう自由を人間に与えたばっかりに人間が罪を犯してしまうのだ、罪など犯さないように人間を造っておけばよかったのに、人間が罪を犯すのは神の創造の失敗だ、と人間の罪を神のせいにする人もいます。この理屈は明らかに誤りですが、それについての議論は日を改めていたしましょう。

 それはさておき、では契約だと言うのならば、いったいぜんたいどうしたら人間は神の御心である律法を守ることができるでしょうか。ノーと言って拒絶せずに、受け入れる。今日の日課に関して言えば、どうやったら安息日を守ることができるのでしょうか。

3.

 私は律法を守るためには、2つのことがとても大事だと思っています。それらがあれば私たちは喜んで律法を守るでしょうし、それらが欠けていれば律法を守ることは難しくなるでしょう。それらの2つとは、「律法の正しい理解」が1つです。内容を間違って捉えていれば、それをいそいそと守る気にはなれないでしょう。もう1つは「律法を与えられるお方がどなたであるか」ということをよく知って、その方を心底好きで、心の底から愛しており、尊び敬い、信頼しているかどうかです。一言で言えば、「その相手を真実愛しているか」どうかです。好きでもなく、尊敬もしていない相手からこれを守れと言われても、そうは簡単に心は動きません。相手への恐れだけではそうすることは起こりえません。

 一つずつ見ていきましょう。まず、第一の「律法の正しい理解」です。律法と言い、掟や法と言われると、どうしても堅苦しく重たく感じます。上からの命令、強制の響きがあります。実際十戒を読んでみると、○○スベシ、○○スベカラズという実行命令や禁止命令ばかりだという印象です。そうすると、はい、私は喜んで受け入れます、従いますという気持ちが萎えてきます。

 旧約の日課は「安息日を守って、これを聖別せよ」(5:12)という十戒の1つを取り上げており、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(5:14)と続いています。でも、実際はもっと書いてあるのです。何のためなのか、その目的が語られているのです。「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い出さねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(5:15)。この日は、主がしてくださった解放の業、救いの業を思い出すための安息日なのです。

 出エジプト、これは、自分たちイスラエルの民の歴史的原点です。あの出エジプトという解放の御業を神が起こしてくださらなかったならば、今日の私たちはないのです。たとえ貧しかろうと小さかろうとしっかりと自由と尊厳をもった私たちは今いないのです。依然として奴隷状態のままだったでしょう。ですから、私たちのアイデンティティを、自分たちは何者かということを確かめるために、自分のいのちと存在とがどうして今ここにあるのか、何のためにあるのか、自分はどう生きるのかという根本的なこと、つまり人生の土台を再確認するために、この日が与えられたのです。それほど大事なことですからほんとうは毎日そうしたほうがいいでしょうが、日々の暮しがあります。それを成り立たせるためになすべき仕事が山ほどあります。頭はいっぱいなのです。だから、せめて週に一度だけでいいから、そのための想起の日、原点回帰の日、次の一週間への出発点となる日を神が与えてくださったのです。ですから、まさに恵みの日なのです。喜びの日なのです。

 私たちは年に一度、誕生日を祝います。そうするのは自分がこの世に生を享けたことを改めて確認し、過ぐる一年間を無事に送れたことを感謝し、新しい一年間のお守り、お導きを祈り願うためです。誰に感謝するのか、誰に願い祈るのか。それは普段はついつい忘れがちな創造主、いのちの主に対してです。そのお方に感謝し、祈り願うのです。結婚記念日もまたそうです。親の命日もそうでしょう。そのような節目の日は、恵みを与えられたという事実を想起する日、原点回帰の日、アイデンティティの確認の日なのです。しかも、それを神との関わりで思い起こすのです。もしそれをしなければ、もしもその手掛かりとなるその日がなければ、私たちは忙しさにかまけていつのまにか精神的な根無し草になってしまうことでしょう。安息日の意味とはこれなのです。

 原語で安息日とは休み、安らぎ、平穏の日という意味ですが、神が六日間の創造の業を終えて休まれたその日に、私たちにもまた安らぎの日を与えて存在の原点を思い起こす機会を備えてくださったのです。ですから礼拝へと招かれているのです。

 もう一つ、安息日を守るように命じられたときに、主はこうもおっしゃっています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(5:14)。安息日の定めがなかったなら、来る日も来る日も誰もが休みなく働きづめになってします。明治になるまで日本でも週に一度の、社会全体の休みの日という制度はありませんでした。武士に非番の日はときどきあったでしょう。町人には藪入りといってお盆と正月に奉公人が自宅に帰る日はあったでしょう。しかし、毎週の休日はありませんでした。奴隷も含めて、寄留の他国人も含めて、社会の構成員みんなが休める日が定められていたということはすべての人の健康や福祉にとってどれほどすばらしい制度だったことでしょう。そこにも安息日を守るようにと定められたお方の愛と慈しみに富んだ御心をうかがい知ることができます。

 こうしてみると、安息日を守るという戒めを与えられたお方の意図、御心と、その戒めの内容がはっきり分かり、納得ができるではありませんか。

4.

 そうであるならば、この神への愛さえあれば、躊躇うことなく戒めを守ろうという思いになるでしょう。しかし、福音書の日課で紹介された2つの事例を見れば、私たちの実態はそうではないことが分かります。ある安息日に弟子たちが麦の穂を摘み始めたとき、ファリサイ派の人々がイエスさまを非難しました。麦の穂を摘むという労働の一種をしたからです。別の安息日には会堂で片手の萎えた人をイエスさまが癒すかどうかを人々が注目していました。癒しの業を行ったらただちに非難するためでした。これもまた禁じられていました。安息日が定められた意図、安息日の意味が正しく理解されていなかっただけではなく、安息日を定められたお方への愛がなかったことが伺えます。

 どういうことかと言えば、最初の麦の穂を摘んだ事例では、ダビデの故事を引きながらイエスさまがピシャリとおっしゃった「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マコ2:27)という言葉が核心を衝いています。彼らは「人は安息日のためにある」と、イエスさまの考えとは真逆に思っていたことが暴露されました。なぜそういうふうに理解していたのでしょうか。そうすることが神を敬い、愛することだと思い込んでいたのでしょうか。彼ら自身はそう思い込んでいたかもしれませんが、私はそうではないと思います。文字通りに、額面通りに戒めを守りさえすれば、律法に忠実だと神に評価してもらえる、神に喜んでもらえる、自分は救いに近づけると考えていたからこそ、神の気持ちもなにも考えずに、額面通りに律法厳守との判断をし、行動をとったのです。自分がよく見られるために、律法遵守に拘っていたのです。簡単に言えば、神を愛したのではなくて、自分を愛したのでした。

 二つ目の片手の萎えた人の癒しの事例でも、安息日が定められた神の意図も、神は何を喜ばれるかということも考えずに、安息日にすべての業は禁止されている、だから癒しという業も当然してはいけないとその場にいた人々は機械的に考えていたのです。安息日の戒めを四角四面に、字面を守ることだけが心を占めていたのです。それは神を愛するが故でもなく、ましてや癒しを求めている隣人を愛するが故でもなく、要は自分を愛するが故の判断であり、行動だったのです。

 でも、彼らはほんとうに安息日に自分の子どもが死にそうな状態になったら、今日は安息日だからと言って、命を救うこと、癒しの業をすることをしないでしょうか。それほど冷酷無比でガチガチ頭で雁字搦めに律法に縛り付けられていたでしょうか。おそらくイザとなれば必死で助けるでしょう。しかし、私は場合によっては律法を破ることもいたしますと大勢の人々が見ている前で言う勇気が無かったのでしょう。それだから、日頃から律法を守ることが何より大事だ、破るイエスはケシカランと言ってきた自分の面子は丸潰れになることを恐れ、イエスさまから安息日に善を行うことと悪を行うこと、命を救うことと殺すことのどちらが大事かと鋭く問われたときに「彼らは黙っていた」(マコ3:4)のでした。自分の身を守るためには黙っているしかなかったのです。神を愛すること、真理を愛すること、人を愛することを何より重んじることを第一にできず、自分の面目を第一にしたのです。

 だから、イエスさまは「怒って人々を見回」されました。神への愛より、隣人への愛よりも自分を愛する人々、自己保身に走る人々に怒りを覚えられました。でも、だからといって彼らを怒り退けるのではなく、「彼らのかたくなな心を悲しま」(3:5)れたのです。情けない彼らを見棄てず、悲しまれました。彼らを憐れんでおられたのです。それが主イエスの愛の表現でした。

 もちろん、片手の萎えた人へのイエスさまの愛がその人を癒し、その手を再び伸ばすことができるようになさったのです。忘れてならないのは、その人への愛と同じ愛がイエスさまを取り囲み、自己愛に囚われていた人々へも向けられ、彼らのかたくなな心をもきっと癒してくださるでしょう。彼らが自分に向けられたイエスさまの愛を受け入れるのにはもう少し時間がかかるかもしれません。しかし、間違いなく彼らへも主イエスの愛は向けられています。安息日の本当の意味も安息日を定められた神さまの真意もきっと分からせてくださいます。主のみ言葉と十字架にまで至る行いによって語り続けられます。

 その安息日は私たち一人ひとりにも与えられています。モーセは言いました。「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」(申命5:3)と。安息日のほんとうの意味と、安息日をお与えになった神さまの御心とを今日受け止めましょう。イエスさまによって癒しを受け、健やかにされて、イエスさまがなさったように隣人に向かって「善を行う」ことと「命を救う」ことへと進み出ましょう。使徒パウロはそのことを違う表現で言っています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」(Ⅱコリ4:10)と。これが私たちのアイデンティティです。神さまとの関わりでの私たちの真の姿であり、招かれている生き方です。そのことを再確認するために、私たちにも安息日が与えられています、今日も、来週も、その次の週も。主に感謝。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年5月5日日曜日

愛の連鎖の始まり  江藤直純牧師

使徒言行録 10:44-48; ヨハネの手紙一 5:1-6; ヨハネによる福音書15:9-17

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 すっかり日本語に定着していると思われる言葉の一つに「愛」「愛する」というものがあります。「えっ、どうして定着などと言うのかな?」と思われるでしょう。なぜなら、当然昔からあった言葉に違いないと思われるからです。たしかにありました。使われていました。親子関係、男女の関係は昔も今もあったのですから。

 しかし、日本で長いこと支配的な道徳であった儒教の教えではその徳目に愛という言葉は余り出て来ません。南総里見八犬伝の八つの玉が表わす八つの徳目は、仁義礼智忠孝信悌でしたし、五倫とは父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信です。五常とは父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝だそうです。今やほとんど聞くことのない徳目で、目指された社会秩序も今とは異なります。だから、愛という言葉がここにないのは驚くに足りません。

 それだけではなく、江戸時代の仏教の教えでは、愛は愛欲とか渇愛(水を欲しがるような強い欲望)といった熟語が示しているように、愛とは対象に対する強い欲望或いは執着のことで、迷いの根源とみられていました。そうなると、愛という言葉にポジティブな意味合いを感じ取ることはできないことになります。

 だからでしょうか、キリシタンの時代に宣教師たちが選んだ愛(アガペー)に当たる言葉は、意外に思われるかもしれませんが、「御大切」でした。大切に思うという当時あった言葉です。神の人間に対する愛であり、キリストが身を持って示した愛、私たちの生き方として勧めた愛を表わすのが「御大切に」でした。1600年に長崎で出版された教理書「どちりな・きりしたん」には、あの有名なマタイ福音書22章にある「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」という最も重要な教えを「万事をこえてデウス(神)をご大切に思ひ奉る事と、我が身を思ふ如くポロシモ(隣人)となる人を大切に思ふ事、これなり」と当時の日本語で語られています。「神を愛する」ことを「デウスをご大切に思ひ奉る」と言い、「隣人を愛する」ことを「隣人となる人を大切に思ふ」と言っていることから、「ご大切に思う」という言葉が「愛する」ということだということは明らかです。なぜ、愛という語が選ばれなかったのか。それは愛という当時あった日本語にはネガティブな響きがあり、キリスト教が伝えたい愛、神の愛を表現するのには適切でないと思われたからだと思われます。

 しかし、明治になって文語訳聖書が作られたときには、キリスト教的、聖書的な意味でアガペの愛を表わす日本語として「愛」が選ばれたのです。その代表例が「汝の隣り人を愛せよ」です。明治初期のキリスト教指導者たちは武士の階級の出身が多かったのです。ですから日本文化の伝統の中にあったニュアンスを承知の上のことだったでしょうに、西洋文明に触れ、キリスト教を広めたいと願った彼らは言語学にも優れた宣教師たちと共に敢えて、大胆に「愛」という言葉を使ったのです。漢訳聖書も参考にしたでしょうが、詳しい研究は私も今はまだ不十分です。現在では広辞苑にも明解国語辞典にも載っていない「隣り人」という日本語を隣人に当て嵌めたのも聖書翻訳者たちや当時のキリスト教指導者たちだったと思われますが、その新鮮な言葉を用いて「汝の隣り人を愛せよ」と訴えたことはどれほどインパクトが強かったことでしょうか。

2.

 その愛ですが、私たちは愛というものは一人ひとりの心の中の思いなので、謂わば各人の意思とか主体性とか感情の問題だと考えがちです。愛するのは愛そうという意思があるからとか、愛そうという感情が豊かにあるからという具合に、その人の責任とか資質と結びつけてしまいます。でも、はたして常識とも思えるその考えは正しいでしょうか。

 今では毎日その言葉を聞かない日はないほどに普及しているDV、ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)ですが、大人同士の場合も、つまり夫と妻ないしパートナー同士の場合もありますが、親子の場合も少なくありません。DVは肉体的な暴力だけでなく、言葉による精神的心理的な暴力もあれば、育児における無視・無関心・否定的な関わりつまりネグレクト、さらには憎しみなどの暴力もあるのです。親ならば子どもを愛するのは当たり前だろう、人間だって動物だって母性とか父性が備わっているだろうと長いこと思われてきました。しかし、実際はそうではありませんでした。先天的に持っていると思われてきた親としての愛情がない、子どもへの愛に満ちた接し方が分からないというDVの親は少なくないのです。いいえ、それどころか調べてみると、加害者つまりDVする親のうち自分自身がDVされた犠牲者だった人はかなり多いのです。子どもの時にDVされているので、つまり愛されていないので、今度は自分が愛する立場になってもいったいどうやったらいいか分からない、どう関わりどう接することが愛することなのか分からないというのです。そうこうしているうちに相手や子どもが思い通りにならずにDVをしてしまうのです。愛するという力は先天的なもの、遺伝的なものだけっでは十分に育ちません。自分が愛されてはじめて人は他者を愛することができるようになるのです。

 「三つ子の魂百までも」と言われてきました。三歳になるまでに、おむつが濡れて不快なときに泣けば新しいおむつに替えてくれて気持ちよくなり、お腹が空いたときに泣けばおっぱいをもらえてお腹は満たされる、それだけではなく、自分の存在を大切にしてもらい、かわいがられ、愛されることを日々の生きる経験の中でしっかりと身に着けることができたら、その子はそれからの長い人生を、人に信頼し、人を愛し、周囲の人々の中で安心して生きていくことができるようになるのです。

「愛された者だけが愛することができる」という言葉は真実だと思います。別な言葉で言えば、「愛は連鎖する」ものだと思うのです。

3.

 ところで、本日の福音書の日課では聖書の中心的な教え、愛に関わる教えが二度も繰り返されています。どなたもが一度や二度どころか、何十回何百回と聞いてこられたあの教えです。12節では「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」、そして17節にもう一度、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と念を押すように繰り返されています。実は13章の34節にもイエス様は同じことをおっしゃっています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。しかも、ここにはこの掟は「新しい掟」だと言われているのです。

 さて、皆さん。この教えのいったいどこが「新しい」のでしょうか。ご存じのように旧約聖書の中に極めて大切な教えが二つ含まれていて、その二つをイエス様ご自身も弟子たちにもまたファリサイ派や律法学者たちにも教えておられます。その二つですが、一つは申命記6章の5-6節です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたがたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。そしてもう一つはレビ記19章18節です。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」、これです。神を愛することと隣人を愛することはこのように聖書に一貫しているのです。

 そして、後者の隣人愛の教えには「互いに」という言葉は出ていませんが、私が隣人を愛する、その人もまた隣人である私を愛する、そうすると、「互いに」に愛することになるではありませんか。そうすると、あの二つの中心的な教え、神を愛することと隣人を愛することは神を愛することと互いに愛し合うこととも言えることになります。そうであるならば、この互いに愛し合うようにとの昔からの教えのいったいどこが「新しい」のでしょうか。そこを考えてみましょう。

 一つは、ここで言う愛は人間の生まれ持った自然の情、男女や家族のうちの情愛と言ったものや、かわいらしいもの美しいものを愛でる心ではないということです。400年以上前に宣教師や日本人の伝道者たちが「御大切」と呼んだものは、そのような自然の優しい感情以上のものでした。相手を、その人の人格や命、生活、人生を、あるいは心、からだ、魂をどこまでも大切にすることでした。相手への好き嫌いの感情とは無関係にどこまでも無条件で相手を受け入れ、認め、生かし、尊ぶことでした。そのために相手の欠けや喪失、痛みや嘆きや悲しみ、苦しみがあればそれを自分を捨てて、自分自身に引き受けてでも、その人を少しでも癒し、補い、助け、救い出すのです。罪の束縛からの解放は中でも大きいものでした。

 日本中のおおかたの子どもたちが大好きなアンパンマンを思い出してくださいますか。アンパンマンは困っている人を救うために何をしますか。テレビや本の世界には悪と戦い悪人をやっつけるいろんなヒーローが登場しますが、アンパンマンには彼らとの大きな違いがあります。決定的な違いがあります。相手が誰であれ、困っていたら、お腹が空いていたら、アンパンマンは自分の顔を惜しみなく食べさせるのです。彼の頭はあんパンでできているのです。それを食べさせるのです。自分が持っているものをではなく、自分自身を差し出すのです。言うならば自己犠牲です。

 原作者のやなせたかしはクリスチャンなのだと耳にしたことがありますが、ちょっと調べたくらいでは証拠は見つかりませんでした。お墓はお寺にあるそうです。やなせたかしがクリスチャンであるにしろないにしろ、アンパンマンの精神、彼の生き方はまさに聖書的です。自己を無にして相手を救うのです。相手を御大切にするために我が身を惜しまず相手に差し出すのです。キリストの愛、キリストを遣わされた父なる神の愛は相手を生かすために、相手を救うために、自分を投げ出す愛、差し出す愛でした。神が私たちのために人となり、十字架にかかるという愛でした。ヨハネ福音書が伝えているキリストの言葉、「私があなたがたを愛したように」というのはどのようにかと言えば、見返りを求めず、無代価で、相手の価値などには一切無関係に、ただひたすらに相手のために自分を、自分の命さえも差し出したようにということでした。このような愛の質こそが何よりキリストの愛の「新しさ」なのです。

4.

 もう一つの「新しさ」、それは私たちの愛には連鎖がありますが、その連鎖の始まりを明確にしている点です。DVの例で申し上げたことですが、私たち人間の愛の連鎖は強固ではありません。悲しいことですが、愛の連鎖はもろく、途絶えることがあります。しかし、愛されたら愛するようになるのです。愛の連鎖が始まるのです。

 三つ子の魂百までもという諺も、愛された者だけが愛することができるという言葉も紹介しました。自分は愛されている、そしてそれゆえに自分は愛していくのだというその信念、確信、価値観があれば多くの困難にも耐えていけます。しかし、余りに大きい困難に襲われると、愛されているという確信が損なわれ、愛する力が萎えさせられるのです。生きていく力が失われることさえ起こるのです。DVに見られる悲劇はさらなる悲劇を生みます。程度はともかく私たちは愛の連鎖が弱ったり切れたりするときに人生の生きづらさを味わいます。

 そういうときにイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じられます。ここで「わたしがあなたがたを愛したように」の「・・ように」に注目すると、「どのように」愛するのかという愛し方を手本を示しながら教えようとしていらっしゃるように聞こえます。もちろんこれはどのようにということも含みますが、ここで注目すべきは何よりも、イエス様が私たちを愛されたという事実そのものです。と言うことは、他の誰が愛してくれていなくても、イエス様は、イエス様だけはこの私を愛してくださったという事実です。私にとっての愛の連鎖の始まりは、大元は、根源はイエス様だということです。

 今日の福音書の日課の冒頭、9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」とおっしゃっています。そのことを別の箇所ではもっと力強くこう言われています。16節です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」のだと。まず私があなたがたを選んだ、先ず私があなた方を愛した、まず私があなたがたを御大切にした。その挙げ句、ご自分を捨てて十字架にかかり、そうです、そうやって私の命を贖ってくださったのです。これ以上の御大切にする方法はありません。

 人間の間でだれ一人私を愛してくれる人がいなくても、イエス様は愛してくださったのです。愛してくださっているのです。そして、その結果、その関係は愛する者同士のこれ以上ない親しい、対等な、全く新しい間柄になったのだと宣言なさったのです。「あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(14)と。

 愛とは心の中の思い、情緒的なものにとどまるものではありません。愛は命の営みに現れてきます。生き方にならない愛はありません。ヨハネはイエス様の次の言葉を書きとどめないではいられなかったのです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(16)に、そのため主は私たちを任命なさいました。外に出て行って愛の実を結ぶようにする。愛の実が残るようにする。実からまた新しい命が生まれてくる。芽が出てくる。花を咲かせる。実を成らせる。そうです、愛の連鎖が続いていきます。

 「互いに愛し合いなさい」、二度重ねて言われたこの言葉は最初は「掟」、二度目は「命令」と言われています。しかし、この掟にも命令にもそれを守れなかったら罰せられるという恐ろしい響きは全くありません。これは愛する者に対しての新しい生き方への喜ばしい「招き」なのです。今日の第二の朗読の少し前、ヨハネの第1の手紙の4章には招き、呼びかけということがはっきり分かるように書かれています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(Ⅰヨハ4:7)。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(4:11)。福音書記者ヨハネはイエス様の言葉だけを書き記していて、それに対する弟子たちの応答は書き残してはいません。しかし、私は確信しています。今日の日課に記されているイエス様の語りかけ、呼びかけ、招きを聞いた弟子たちは間違いなく異口同音にこう言ったことでしょう。「アーメン、まことにその通りです。私たちはそういたします」と。私たちもまた弟子たちと共に応えましょう。「アーメン、まことにその通りです。私たちもまたそういたします」と。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン